ヴィーナス
7
「というわけで、この日本国の重犯罪こそが日本国民の悲鳴であると、我々は認識しなくてはいけないと考えるのです」
深々と壇上からお辞儀をし、進藤教授のスピーチは幕を閉じた。一瞬の沈黙。ずっと聞き入っていた聴衆は、自分が何をするべきかさえ忘れていた。それほどまでに素晴しい演説だったのだ。やがて少しずつ我に返った人たちが、少しずつ拍手を送り始め、ついにそれは大きな喝采となって会場を包み込んだ。
私は周りの聴衆やスタッフと一緒になって拍手をしながら、様子を見て席の中央にあるノートパソコンへと向かった。フロントでは進藤教授がやっと身を起こし、最初と変わらないヨロヨロとした姿で自分の席へと向かっていく。皆それを目で追いながら拍手をしているので、サービスの制服を着た私が何をやっているか気に止める人はいなかった。用意を終えると、またそそくさともといた位置に我が物顔で戻る。その間にも進藤教授は席へ辿り着けていなかった。たまに転びそうになるのをホテルスタッフに支えられ、少しずつ歩を進めていくのを全員が固唾を呑んで見つめていた。自分の席にやっと辿り着いた時、会場からは再び拍手が沸きあがったほどだった。
「進藤教授、素晴しい演説をありがとうございました。」
堂々とした声で不二子が場を仕切り直し、会場の空気が変わる。
「それでは続きまして、国際犯罪を国の仕組みから考える会代表…」
その時だった。窓の方で金属がガラスを撫でるような耳障りな音が微かに聞こえた。慌てて窓の外を見遣ると、前方の、警部には一番遠い窓、演説者に一番近い窓の外から、五ェ門の袴が落ちていくのが見えた。思わず駆け寄ろうとするそれよりも一瞬早く、次元が五ェ門の後を追って飛び降りていった。一度だけ、会場に向かって拳銃を構えて…。
その直後、窓にはきれいな円形の穴が開いた。それから遅れて、お腹から響くような銃声が室内に響き渡り、今度は見事に全員が一斉に床に伏せた。再び、SPが床を這って主人の下へ向かい、庇う様に上へ被さる。
一緒に床へ伏せた私は、銃弾がどこへ行ったのか気になり弾道を予測しながら追う。痛そうな悲鳴や人がばったり倒れる音は聞こえてこなかったから、人間に当たったんじゃない。ではどこか?
穴の開いた窓から、壇上を通り過ぎて、司会台の辺り、不二子が立っているそのすぐ後ろ。扉の壁に、大層なヒビが入っているのが見えた。あそこを貫通していったのだ。なぜ次元はそんなことを?撃ち損じたというよりも、わざと狙って撃ったようだ。あの体勢から引き金を引くのは難しそうだということは素人でもわかる。一体、彼らは何を考えているのだろう?
「進藤教授がルパンではないかと疑っていたのですが」
いきなりルパンの名前が聞こえてきて思わずビクッとしてしまう。声の方向を振り向くと、いつの間にか隣で伏せていた銭形警部だった。
「け、警部…なんで…」
ひっくり返った声で思わず呟くと、警部は初めて私をジロリと睨んだ。
「その程度の変装では私を欺くことはできませんぞ」
警察関係者に面は割れているので、一応今日の私はルパンに作ってもらった変装用のマスクもつけているのだ。きっと同じ職場の同僚たちだって今の私を見たら誰だかわからない。なのに一発でばれるとはやはり警部は只者ではないのだ。きっと、私の今までの不審な行動など全てお見通しだったのだろう。思わず、すみません、と謝ってしまった。
「それより警部…ここにルパンが現れると?」
素性を隠すことは諦めて、私は警部に聞いた。私だって、ルパンはこの会場のどこかにいると思っていた。しかし警部はそう思っているわけではないらしく、さらに険しい顔をして言った。
「必ず現れますよ。今の銃弾がサインです。恐らく部屋の外で何かが割れたはずだ。これから一番最初にこの部屋へ入ってくる人間が、ルパンでしょう」
司会台では不二子が必死に表へ出ようとするSPや来場者をアナウンスで押し留めていた。皆様、落ち着いて席へお戻りください、まもなく係の者が誘導いたしますので、それまでは床に伏せて、その場から動かずにお待ちくださいませ。しかし、自分でも理不尽なことを言っていると思っているのだろう。時々ドアのほうをちらりと見遣って眉間に皺を寄せていた。
「何を言っている!!これは事件だぞ!!落ち着いてなどいられるか!!警察のシンポジウムで拳銃が発砲されるとは前代未聞!!すぐに総員退避させろ!!」
「私はこれから大事な会議が控えているんだ!!ここから出してくれ!!」
「まだ死にたくない!!死にたくないんだよ!!」
「水道工事だって嘘だ!!実はテロなんじゃないのか!?」
だんだんと、怒号が会場を支配する。このままでは次々と会場から人が出て行ってしまうだろう。でもさっきの状況から見て、それが得策だとは、私にはとても思えなかった。きっと外では、次元と五ェ門が未だに何者かと戦っている。
と、その時。
「申し訳ございません、皆様。この会場の安全は私が保障いたします。どうぞ、お席へお戻りくださいませ」
よく通る、男性の声が会場に響き渡った。
ふと前方を見ると、不二子の隣に壮年の男性が背筋を伸ばして立っていた。きっちりしたオールバックに、アイロンのかかった黒のスーツ、落ち着いた色のネクタイは少しも曲がっていない。ゴールドのネームプレートが輝く胸ポケットには、形の整えられたハンカチが挟まれている。誰だろうと思っていると、総支配人!!と誰かが叫んだのと、出たなルパン、と隣で警部が呟いたのが同時に聞こえてきた。どうやら、彼は総支配人に変装したルパン三世らしい。しかし警部以外の面々は当然、彼がルパンだなどと露ほどにも思っておらず、支配人がそう言うならそれを信じようと、ぞろぞろと席へ戻っていった。
「本日は、我がグランドフォルティッシモ東京にお越し頂き、誠にありがとうございます。せっかくお越し頂いたというのに、このような事態を招いてしまい大変申し訳ございません」
司会台では総支配人に変装したルパンのお詫びの演説が始まる。だんだんと落ち着きを取り戻した面々が、水を飲んだり汗を拭いたりしながらそれを聞いていた。私は、いつ始まるのだろうという期待と、いつ隣の警部が食って掛かるのだろうという不安に胸をドキドキさせた。
「昨今は物騒な事件が世間を騒がしております。それを追っている警察の皆様のご苦労は尋常ではないでしょう。そこで…」
支配人は心底同情するような顔をしてそういうと、咳払いをひとつする。なんとなく聞いていた人たちが、その台詞で支配人に注意を向ける。この会議に直接の関係のない支配人が、どうしてそんな話を始めるのだ?
「このような機会も滅多にないことですので、外が落ち着くまでの間、警察の代表である警視総監にお話をお聞きしたいと思うのですが、警視総監、よろしいでしょうか?」
「う、うむ…」
しんと静まり返った室内に、警視総監は断りきれない雰囲気を感じ取ったらしい。返事をして躊躇しながらもSPを引き連れて動き出すと、やがてマイクのある演説台の前へと立った。16面の巨大スクリーンが彼を捉える。
「ありがとうございます」
警視総監に向かってにっこりと微笑んだ支配人は、さて、と言って周りを見渡した。
「では、警視総監には、ある事件についての見解を伺ってみたいと思います」
周りの聴衆達の中には誰一人、異議を唱える者はいなかった。たまには一般市民からのそういった質問に答えるのも面白いと思ったのかもしれない。それが、結果どういうことになるかも知らずに。
「二ヶ月前、とある青年が交通事故で死亡しました。事故は全く事件性のないものと判断され、事故を起こした運転手の会社員も素直に責任を認めて服役中、事故に遭った青年の家族も悲しみに暮れたものの警察や行政に特別訴えることなどしませんでした」
「…痛ましい事故ですな…」
もしかしたらこの時、警視総監は何のことだかうすうす感じ取っていたのかもしれない。うっすらと眉間に皺が寄っていた。でもそれは、思いがけない事故を起こしてしまった会社員への同情にも、悲しみに暮れる遺族へのお悔やみにも、見えないことはなかった。
「ところが、事故からしばらく経った後、遺族の女性の身辺に怪しいことが起き始めたのです。何もしていないのに警察に捕まりそうになったり、家に盗聴器を仕掛けられたり、爆薬を仕掛けられたり。挙句の果てには職場や青年のお墓の中まで探られた。どういうことかと女性がいろいろと調べていくうちに、彼女はとんでもないものを見つけてしまった」
見つけてしまった、と、支配人はことさら強調して言った。その言葉に、警視総監が明らかに目の色を変えた。見渡すと彼だけではない。数人の警察関係者が、明らかに動揺した目をしていた。
「い、一体それは何なんだね?」
いてもたってもいられなくなったのか、その震えた言葉は聴衆の中から聞こえてきた。それは、この中には詐欺に関わった人物が複数存在するということを証明している。
「一体それが何なのか、お知りになりたいですか?」
ニヤリと笑った支配人の顔は、善良な市民のものではなかった。何度も目にした、あの悪魔のような冷徹な目。ふと不安になって隣の銭形警部を見遣ると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも黙って前方を見つめていた。
「警視総監、お知りになりたければ、中央に設置されているパソコンの前までお越しください。そこに、全てがあります」
言われた警視総監は、目を充血させてしばらく支配人を睨みつけていたものの、最終的には指示に従ってパソコンの前に立った。
「どうすれば、わかると言うのです?」
「そこに、一つのUSBスティックが置いてあるはずです。パソコンに差し込んでください。自動的に再生されます」
後ろから見ていても明らかにわかるほど、総監の手は震えていた。首の後ろにまでも汗をかいて、襟を湿らせている。周りのSPが、緊張を高まらせたのか忙しなく周辺を見渡している。
次の瞬間、会場に短い悲鳴が上がった。一度USBポートに入れかけたスティックを、飲み込んでしまおうと、総監が急に自分の口へ持っていったのだ。それには流石にSPたちが素早く対応した。
「警視総監!!おやめください!!喉に詰まらせたらどうするんですか!!」
いくら主でも容赦はしない。力で捻じ伏せると、あっという間にUSBスティックは会議室のフカフカな絨毯の上へポトリと落ちた。
「あ、それからひとつ言い忘れました」
黙って見ていた支配人が面白そうに口を開く。
「そのUSBには少々細工がしてありましてね、壊れたり濡れたり、損傷が与えられると、自動的にパソコンへ信号が飛んで、中身が再生されるようになっているんですよ」
自分で開くのと、機械に開かれるのとどちらがいいか、ということだろうけれど、総監はそうは取らなかった。顔を真っ赤にして抗議する。
「…貴様、私を騙せるとでも思っているのか。そんなことが、このホテルの設備でできるわけなかろう」
「できませんよ」
その言葉に一瞬、凍り付いていた場の空気が緩む。用意された全ての備品、パソコンもプロジェクターもスクリーンも、ホテルのもののはずだ。だったら、支配人の台詞ははったりだったということになるではないか。
ところが。
「このホテルの設備ではね。でも、そのパソコンとプロジェクターは私物を使わせていただきました。ホテルの備品では、パソコンから直にスクリーンへ画像を映し出すことだってできるのですが、こういう仕掛けを仕掛けるには少々問題がありましてね」
また、支配人がニヤリと笑った。警視総監が、再び血走った目でそれを睨みつける。
「だから、言う通りにこれを差し込めと?これは脅しかね?」
「おやおや、人聞きが悪いですね。その中身が何かお知りになりたいと仰るから、申し上げているのではないですか。なんだったらそれを持ってここから抜けられ、お一人で確認なさっても構いませんよ?」
余裕の表情で言う支配人に、警視総監は頭を垂れた。外で如何わしい事が行われていようとも、ここから逃げ出すのは時間がたてばさほど難しいことではない。けれど、ここで逃げれば、関係のない他の参加者達が訝しがるのは必須だ。どちらにしても、追及は免れない。
しばらく頭を垂れていた総監を、全員が見つめている。外の異音はいつの間にか止んでいて、窓から何かが降ってくることもなくなっていた。完全なる沈黙の中で、時間だけが無意味に過ぎていった。
やがて、警視総監は、自分の肩を揺らし始めた。諦めたのだろうか?泣いているのだろうか?反省しているのだろうか?いろいろなことを思っていると、徐々に空気を漏らすような音が総監から聞こえてきた。それはすぐに、はっきりとわかる笑い声となって会場を揺らし始めた。
「フハ、フハハハハハ」
怒っているのか、喜んでいるのか、その表情はよく見えなかったけれど、明らかに、おかしな笑い声だった。聞いたことのない、狂人の笑い声というのはこういうものだろうか?
「貴様の思惑に、嵌まると思うなよ!!」
突然、叫びだしたかと思ったら、総監はいきなり拳を高らかに掲げた。その隙間には、USBスティックがある。グッとその手に力を入れた途端、その精密機械はあっけなくも粉々に砕けてしまった。
「あ〜あ、やっちまった…」
支配人が素に戻って残念そうに呟いた直後、画面から総監の顔が消えた。パソコンは機械音を鳴らしながら動き出し、それに連動したプロジェクターはその起動から全てを真っ白な16面の巨大スクリーンに映し出した。
「あ〜ぁ、これで今回の警視総監もおしまいね。データのコピーは、今頃マスコミ各社を回ってる頃だしね」
いつの間にか不二子が隣に立っていた。向かい隣で銭形警部が彼女を睨み付けているけど、彼女は意に介さず、それどころか警部にウインクまでしていた。