ヴィーナス
8
ウインドウが何度か切り替わった後、スクリーンに3ヶ月前の記事が映し出されると会場はどよめきを見せた。そこには、バブルの弾けた十数年前から手を変え品を変え行ってきた国会議員と警察の詐欺行為が明らかにされていた。ねずみ講が流行れば模倣し、マルチ商法が流行れば模倣し、霊感商法が流行れば模倣し、オレオレ詐欺が流行れば模倣している。直接の実行犯が議員や警察官ではない為、足はつかない。そこから辿って辿って、万が一警察組織を掠めても、所詮身内同士なのだから簡単にもみ消せる。議員はお金と権力をチラつかせれば良い。マスコミにばれてもトカゲの尻尾を切ればいい。溜まったお金で政治家や権力者に接待を行い賄賂を贈り続ける。汚いやり方だった。
パソコンはその後も、記事の元となった資料や証言内容を次々と映し出す。兄は、記事を元に自分で調査していたのだ。途端に色めき立ったマスコミ各社やコメンテーター、○○評論家が警視総監を囲み込み、あっという間に、その姿は人の中に隠れてしまった。もうSPにも食い止めることはできない。その混乱に乗じて、一緒に目の色を変えていた関係者は、足早にどこかへ走り去っていく。場は、一瞬にして戦場と化したようだった。
これが、私の兄の望んでいた結末なのだろうか?後ろで騒動を見つめながら私は考える。さっきまでルパンの活躍に相当興奮していたはずなのに、目的が達成された瞬間にアドレナリンは引っ込んでいってしまっていた。
確かに、警察の最高幹部である警視総監はこれでその身を滅ぼしただろう。この場に集まって、こっそりと姿を消した警察関係者も、参加者リストを見ればすぐに知れるから、マスコミに散々叩かれるのは目に見えている。何人かは地位を確実に落とすだろうし、何人かは辞職に追い込まれるだろう。ここにいない人だって減給くらいにはなるかもしれない。
でも、だからといって、私にはここから全てがまっさらになるとは思えなかった。これで、警察官の汚職や陰に隠れた犯罪がなくなるか、皆が皆、銭形警部のように真面目な警察官になるべく、心を入れ替えるだろうか?なるわけがない。より一層警戒心を強め、より一層隠蔽に力を注ぐはずだ。きっと明日には新たな被害者が泣き寝入りすることになる。
兄は、この結果を望んでいたのだろうか?これを望んで私にデータを託したのだろうか?
でもどんなに考えても、兄が一体どうしたかったのか、私にはもう知る術がない。自分がやってきた結果だけを、こうして受け止めるしかなかった。
「き、貴様、図ったな!!支配人などではない!!一体誰なんだ!!」
思考を遮るように、遠くで警視総監が叫ぶ声が聞こえた。どうにもならないとわかっていても、自分を罠にかけた相手を罵倒せずにはいられなかったのだろう。それを聞いた支配人は、またニヤリと笑うと顔に手をかけた。もう、人に飲まれた総監には彼の正体を見ることはできないのに。
「俺?俺の名前は、ルパン三世ってんだよ」
格好をつけてマスクを外しながらマイク越しにそう言って、彼は遠くの私にウインクを返す。でも最早、彼の正体を気にする者はいなかった。皆、目の前の大スクープに夢中になっている。まぁ、誰も見てないのにカッコつけちゃって、と不二子がそれを見て溜息を吐いたけれど、ルパンは気にせず、そのまま穴の開いた扉から出て行こうとした。
その時。
「待てよ、ルパン」
ずっと隣で黙っていた銭形警部が、とうとう静かな声でそう言った。静かでもその声は怒りに満ち溢れていて、呼ばれたわけでもない私の足が竦みそうだった。中央の喧騒が、あっという間にどこか遠くに行ってしまう。
「あら、とっつあん。いらっしゃったの?」
対するルパンは相変わらず飄々としていて、それでもぴたりと立ち止まると、捉えどころのない笑みを再び浮かべて振り向いた。
「貴様、何を盗み出したんだ?」
「あ〜ら、何のことかしら?」
「惚けるなよ。」
フンッと、銭形警部が鼻で笑った。じりじりと、少しずつ間合いを詰めて行く。ルパンが何かを盗み出した?警部はずっと私と一緒にいたのに、むしろ全体を通せば私の方がルパンと一緒の時間は多かったのに、何でそんなことがわかったんだろう?
「俺はずっと、美奈子ちゃんの為に今回の策を練ってたんだぜ」
「目くらましにな」
目くらまし?どういうこと?試しに不二子の顔を伺うと、彼女はなんともバツの悪そうな顔をして、顔の前に片手を上げた。ごめん、と。
「お前はこのホテルにある何かを盗もうとしてたんじゃないか?だから、外でここの警備や特別に配置されてた警察官と館内で乱闘になったんだ。マシンガンやなんかも窓の外から落ちてきたってことは、もしかしたらこっそりSATも呼び出されてたかもしれねぇなぁ。俺はずっとここにいてわからなかったがな」
言われてみて初めて思い当たった。今日のこの計画を、ただ遂行するだけならば外でマシンガンの音が響いたり、窓から次元や五ェ門が降って来るはずがない。参加者たちは全員大人しく会場内にいたし、乱闘などしなくとも、心配ならばドアの外で見張っていればいいことなのだ。
「それにだ。お前が入ってくるタイミングだ。何もなければ始まる前からずっとどっかの誰かに成りすまして席についていればいい。質問するならマスコミのほうが好都合だろうに、わざわざ支配人に変装して不自然に途中で入ってきた。次元に合図の発砲までさせてな。それは、お前がその直前まで何かをしていて中の様子を探れなかったからじゃないのか?」
ギロリと、その大きな目がルパンを睨み付けている。捉えて離さないその目は、なんだか少し、ルパンが目的を達成しようとする時の目と同じように見えた。
「さぁすがとっつあん、そこまでバレてちゃもう言い訳できねぇや」
ルパンは降参とばかりに両手を挙げると、それでもニヤニヤと楽しそうに笑いながら事の真相をしゃべり始めた。
「俺が日本に来たのは、ここの支配人室にある東京タワーを頂く為だったんだよ」
「東京タワー?」
思わず、口を挟んでしまった。銭形警部に睨まれたので、私は慌てて両手で口を塞いだ。
「そ。純金で出来た、1/300サイズの東京タワーの模型さ。ホテルができた時に本店から贈られてな、支配人室に飾ってあるって聞いたんだ。このホテルの最上階にある支配人室ってのは、ただでさえ本物の東京タワーがまるまる望めるんだぜ。黄金の東京タワーなんて、必要ねぇだろっがよ」
すごい理屈だ、と私はあきれ返ってしまう。隣を見ると、同意した不二子がうんうんと頷いている。一体、この二人の脳味噌はどうなっているのか、ちょっとでいいから覗いてみたい。
「で、俺は盗みの計画を立てながら美奈子ちゃんの傍にいた。不二子にはお兄さんの掴んだ情報についていろいろ調べてもらって、次元と五ェ門にはこのホテルにいろいろと細工をすることに専念してもらった。全てをシンポジウムの行われる今日に合わせてたから、最初美奈子ちゃんが原稿のありかをしらねぇって言った時はさすがに焦ったけど、結局間に合ってよかったぜ。」
原稿はギリギリだったのだ。優子からのメールがなければ、私はもうしばらくSDの異常に気づかなかっただろう。ルパンの頭の中にあった計画は、変更せざるを得なくなっていた。彼女にどんな御礼をしよう。
「不二子の要望もあって、アジト代わりにここのスイートに泊まる事にしたんだ。絶対にバレないように、偽名にもちゃんと細工してたのによ、日本にはとっつあんが先回りしてるんだもんなぁ。まるで俺の頭ん中わかっちゃうみたい」
マスコミには、「失意の帰国」とか「またもや失敗」とか書かれていたけれど、その時銭形警部は既に次を狙っていた。お見事だねぇ、とルパンは他人事のように警部を褒め称えた。
「『みたい』じゃねぇ、『わかる』んだよ。はっきりとな!!てめえの考えてることなんざ、お見通しだ!!」
あと2、3メートルのところまで間合いを詰めた銭形警部は、そう言い放つと突然ルパンに飛び掛る。対するルパンは、ギリギリの所でそれをひらりとかわした。
「とっつあんは美奈子ちゃんの事で負い目を感じて今回は大人しかったからな!!助かったぜ!!」
ルパンは走り出すとマスコミの群れを掻き分けて窓際へ寄る。それを見た不二子が私を引っ張って、こっそりと後方からその傍へ寄った。銭形警部は、顔面から床に突っ込んだ体をようやっと起こして、再びルパンに飛び掛る体勢を作った。
「でもな、それもそろそろフィナーレだ!!美奈子ちゃんはお兄さんの仇とって、俺は可哀想な東京タワーを救出して、それで大団円!!」
そう叫んだルパンの顔に影ができた。顔だけじゃない。室内全体が、何か急に暗くなった。雨雲でもやってきたのかと思って後ろを振り返った瞬間、いきなり目に入ったショベルカーの先端が、会議室に目掛けて突っ込んできた。
「あ〜ばよ〜、とっつあん!!」
そんなルパンの声は、耳を劈くような破壊音に掻き消される。室内にこれでもかとガラス片が飛び散り、衝撃だけで16面巨大モニターにヒビが入り、パソコンとプロジェクターが床に落ちて飛び散る。6メートルを超える高さの天井から、パラパラと宝石のような雨が降っていた。弾みで被っていたマスクが取れる。とっさに私の体を庇ったルパンの体はショベルカーに掬い上げられ、隣から不二子が中に飛び乗った。
「待てルパン!!」
駆け出した警部の体は、突然の出来事に逃げ出すマスコミ各社や警察関係者が飲み尽くす。いろんな人にぶつかりながら外に押し出され、とてもじゃないけどこちらに近づけそうにはなかった。
「覚えてろよーっ!!」
悔しそうに大口を開けた銭形警部の口の形が、そう叫んだように見えた。
「これで一件落着ってな」
「ほ、本当に?」
外から見ても大穴の開いた事がありありとわかる三階を望みながら、誰かの台詞に私は小さな声で聞き返した。どこかショートして引火でもしたのか、ホテルからはモクモクと煙が上がり始めていた。三階だけではない。よく見ると、各階多少なりとも穴が開いていて、中から人や武器がぶら下がっている。やっと到着した消防隊が、逃げ出す客を誘導しながら大慌てで救助を始める。確か、大物アクション俳優を起用したハリウッド映画のエンディングがこんな感じだった。フィクションらしいあの映画の世界は見ていて気分がスカッとしたけれど、今目の前で起きている事態の責任は半分くらい自分にあると思うと、その現実になんだか急に胃が痛くなってきた。みんな反省しているのだろうか?近くにいた次元を見ると、彼はショベルカーの運転席に寄りかかって、ざま見やがれと言いながら気持ちよさそうに煙草をふかしていた。五ェ門は、大きな布に包まったものの隣で、何か大仕事をやってのけたかのような満足気な顔をしている。不二子はその隣で布の中身を覗き込もうと必死だったし、ルパンはそんな不二子のスカートを捲ろうと必死になっていた。…泥棒相手に、「反省」の二文字を浮かべた私が間違っていた。
この人たちは一体何なんだろう?
彼らを見ていると、何だか私の考えている全ての事がバカバカしく思えてくる。力の抜けた私は、ホテルの状態について気に病むのはやめて、彼らと同じ気分に浸ることにした。ショベルカーのキャタビラ部分に体重を乗せると、その体勢に自然と顔が上を向いた。頬に当たる冷たい風が、段々と気持ちを落ち着かせてくれる。
「よく頑張ったな」
ふと声を掛けられて、私は運転席を見る。次元は相変わらず寄りかかって煙草をふかしていたけれど、その真っ黒な帽子から覗く目は、私に向かって微笑んでいた。
「別に…私は何も…」
その意外なほど優しい表情に戸惑って、私は思わずぶっきらぼうに返してしまった。普段ならそれなりの返答の一つや二つできるのに、この数時間ですっかり子供心に戻ってしまったみたいだ。次元はフンッと、楽しそうに鼻を鳴らした。
「お前さんが何もしなけりゃ、ことは何も起こらなかったんだぜ。警察も煩かっただろうし、ルパンも変に乗せちまってたかもしれないが、原稿を隠そうと思えば、探そうとしなければ、何だってできたんだ。どうせすぐに平穏な日常が戻ってきてたさ」
でも、そうはしなかっただろう?と彼は笑った。兄貴が大事だったんだな、とも。
「兄は、これを望んでいたのかしら?」
ずっと疑問に思っていた台詞を思わず呟くと、何だか泣けてきてしまった。抱え込んでいた荷物を初めて床に降ろしたような、そんな感覚。涙が零れない様に、私は再び曇り空に目を向けた。
「満足しておられる」
そう言い切ったのは、いつの間にか次元の隣に来ていたお侍さんだった。別に彼が兄と特別親しかったわけでもないだろうけれど、その真っ直ぐで凛とした声に断言されると、何だか嘘でもない気がしてモヤモヤが晴れる。それに、何か達観したような顔をしているお侍さんになら、もしかしたら死んでしまった兄のこともわかるのかもしれない。
兄が天国で喜んでいてくれるといいな、そう思ったら涙の結界が破れてしまった。一回出始めると、涙は次から次へと溢れてくる。その死から二ヶ月、兄の事をやっと正面から見据え、ようやく泣くことができた。何だか拭うのが惜しくなって、私は空を見つめたまま、そうだといいわ、と呟いた。
「あ〜らら、何を二人で美奈子ちゃん泣かせてるのさ。女の子泣かすなんて最低だな、お前ら」
言葉とは全く裏腹に楽しそうな、ルパンの陽気な声がする。見ると、不二子にやられたのか左の頬を真っ赤に膨らませてこっちに向かってきていた。
「ケッ、ガキみたく女のスカート捲くってたおめぇにだけは言われたかねぇ」
「平手を見舞われてデレデレしているお主には言われたくない」
「違うのよルパン、二人とも私を慰めていてくれたの」
次々に口を開く私たちに、ルパンはくるくると目の色を変える。それがまた、何だか人懐こいサルのようで可笑しかった。
「やっぱり、美奈子ちゃんは笑ってる方がかわいいぜ」
笑った私を見てルパンが大げさに頷く。大げさだと私が怒ると、今度はひっくり返したように二カッと笑った。
「でもよ、泣いてる顔も、十分魅力的だ。我慢なんてするもんじゃないぜ」
だから俺の胸でお泣き〜。歌うようにそう言って両手を広げたルパンの脇を、不二子がいい香りをさせながら走っていった。
「あら、どったの不二子ちゃん?」
「どったのじゃないわよ!!ルパンも早く逃げないと、捕まっちゃうわよ!!」
見ると次元と五ェ門も、いつの間にか布の被さった荷物を担いで走っていってしまった。遠くから、何か叫び声が聞こえる。目を凝らしてみると、人ごみの中から茶色いトレンチコートが飛び出してくるのがはっきりわかった。
「ヤベッ、とっつあんだ」
しまったという顔をしたルパンが、飛び上がって私から離れた。
「じゃあな、美奈子ちゃん!!泣きたくなったらいつでも俺の名を呼ぶんだぜ!!」
「待ってルパン」
走り出そうとする彼の右腕を、私はギリギリで掴む。まだ、彼への仕返しは済んでいないのだ。振り向いた目が、不思議そうに私を見る。
「ありがとう」
そう言って、掴んだ腕を引き寄せて背伸びをすると、一瞬だけ唇を奪った。
「元気でね」
しばらくぽかんと突っ立っていたルパンが、銭形警部の濁声に我に返る。警部の手錠から逃げて走り去りながら、ずっと私に向かって投げキスを投げてくるのを、私は涙を流しながら笑って見ていた。
数日後、やっと日常を取り戻した私の元に宅配便が届けられた。
差出人の名前はなかったけれど、開けた途端に顔が綻んだのが自分でもわかった。
箱いっぱいに敷き詰められた色とりどりの花の中心では、世界一有名なくまのぬいぐるみが幸せそうに笑っていた。