ヴィーナス
5
「いい加減、お兄さんから預かったものを出していただけませんか?」
案の定、話題はそれだった。無理矢理容疑を作ってまで連れて来るとは、よほど切羽詰っているのだろうと、それだけは感じた。
人差し指で机をコツコツ叩きながら、半ば苛立ったように鈴木はさっきから同じ台詞を繰り返す。鈴木とわかったのは、ここに座った時に再び自己紹介されたからだ。一方の田中は、ずっと部屋の隅で調書を取っている。明るい所へやって来ても、やはり鈴木と田中の区別はつかなかった。
「さっきから何度も、何も預かっていないって言ってるじゃないですか」
対する私も、何度目になるかわからない台詞を繰り返す。机と椅子と、電気。それしかない殺風景な青砥署の取調室は、それだけでとても寒々しい空間だったけれど、兄が隠し持っているはずのものを考えると何か口を開ける状況ではなかった。何より、こちらだって探しているくらいで、私は本当に兄からは何も預かっていないのだ。
しばらくの間、部屋に沈黙が落ちた。その間中、鈴木はずっと一定間隔でコツコツコツコツと机を叩いてくる。それが使い古された心理作戦だということは重々承知していたのに、それでも聞いていると段々腹が立って来るのには変わりがない。
「煩いんですけれど、それ」
と思わず言ってしまった。
「煩い?」
ピタリと指が止まったのと同時に、ピクリと鈴木の眉が動く。どうして、血管の浮き出た男性というのはこんなにも怒りがわかりやすいのだろう?
「だったら預かったものを出せ!!」
案の定、鈴木は座っていたパイプ椅子を蹴り飛ばして怒鳴り出した。でもここで負けるわけにはいかないのだ。私は急な大声に対する声の震えを悟られないよう、注意深く一言だけ返す。
「知りません」
「知らないわけがあるか!! 後はお前の手元しか残っていないんだよ!!」
簡潔な答えに、怒鳴り声にも屈しない人間と判断したのだろうか、さらにイライラを募らせて鈴木は歯軋りをした。けれど、彼は気付いていない。とうとう本性を出してしまったことに。「私の手元しか調べていない所はない」とそう言ったのだ。
「他は全て調べ尽くしたと?」
私が一言そう切り返すと、はたと鈴木の動きが止まった。
「家の中も職場も兄のお墓の中も?家には盗聴器まで仕掛け、大切なぬいぐるみとすり替えてそこに爆弾を置いたんですか」
「…そうは言っていないだろう」
「じゃあなんです?」
「質問しているのはこっちだ!!」
ダンッと、今度は倒れていたパイプ椅子をさらに蹴り飛ばし、その上思いっきり机を叩いて私を威嚇する。激昂は、肯定と同じ意味だ。本当に、警察が私の部屋に盗聴器と爆弾を仕掛けたのだ。しかし彼は今にも私に掴みかかってきそうな勢いで、流石にこれには首を竦めずにいられなかった。鍛え上げられた筋肉を持つ警官に襲われたら、私など一溜りもない。
そして再び場に沈黙が訪れた。けれども、今度は私から口を開くつもりはなかったし、向こうも無駄に心理作戦を展開してくることはなかった。鈴木は少し冷静になって、パイプ椅子を再び組み直して向かいに座った。
それからお互いに黙り続ける事数分。
コンコンと、誰かが取調室の扉をノックした。
返事をしながら田中がドアを開けると、そこには今時珍しい茶色のスーツを着た警官が立っていた。思い出すまでもない。昨日、最後まで私たちの乗る車に食らいついていたパトカーの人物だ。
彼は鈴木も呼び出して何事か小さな声で話し始め、やがて二人の肩を叩いて外に出すと、一人で鈴木の座っていたパイプ椅子に座った。
「警視庁の銭形です」
鈴木よりも、田中よりも、ずっと威圧感のある声で彼は言った。私は、その声でやっと、目の前の人物が一体誰だったかわかったのだ。
「あぁ、いつもワイドショーに出てる刑事さん…」
ルパンが日本で仕事をする度、その奇怪な仕事ぶりにワイドショーは喜々として食らいついていた。そしてその度、警察に対しても矛先は向けられ、「専任捜査官」であるという銭形警部にマイクが向けられているのだ。
「同僚達が申し訳ないことをしました…。それから…お兄さんの死を殺人だなんて言ったらしいですが、それも真っ赤な嘘です。申し訳ありません…。後でよく叱っておきます」
「ありがとうございます…」
意外と真摯な銭形警部の姿勢に、私は逆に恐縮してしまった。私の知っている銭形警部というのは、マスコミに追いかけられている時も、ルパン達を追いかけている時も、常に鬼の形相で取り乱していたからだ。その形相は人間としての度を越していて、コメディーの域にまで達していた。マスコミもルパンも、きっとそんな彼の独り芝居を見るのが楽しくてからかっているのではないかと思う。それなのに、今目の前にいる本物は、これでもかと言うほど日本の真面目な警察官の典型みたいな人物だったのだ。
「それからあともう一つ。あなたに謝りたくてお時間を頂きました」
「…なんでしょう?」
「実は…あなたの元へルパンを向かわせたのは、私なのです」
「え?」
首を傾げた私を見て、銭形警部は座り直して説明の体勢に入った。
「私は、お兄さんから託された手紙を一ヶ月前にルパンへ渡したのです」
警部の話を要約するとこうだった。
兄は、自分が見つけた記事の事で、身辺が怪しくなってきたことを敏感に感じ取っていたらしい。よっぽど切羽詰っていたのだろう。自分に何かがあった場合、妹にも危害が及ばぬように、この際ルパンに守ってもらいたいと無茶なことを考えたのだ。しかしルパン三世に手紙を送るということは、サンタクロースに手紙を送ることよりも難しい。考えあぐねていたちょうどその頃、銭形警部がフランスでルパンを捕まえ損ね、意気消沈で帰国した。それは小さな週刊誌に小さな記事となって載ったのだが、印刷会社で働く兄はその記事を見事見つけたのだった。常に逃げられてはいるが同時に、常にルパンの居場所を掴んでいる銭形警部なら、ルパンに手紙を届けることも可能だろうと。
でもそこまで話されて、私は頭に一つ疑問が湧いた。
「でもだったら、警部に警護をお願いするのが筋ではないですか?」
わざわざ遠くの犯罪者にそんなことを依頼しなくても、近くにいる警部にお願いすれば良いではないか。手紙を託すくらいだから、兄だって銭形警部を怪しんでいたり軽んじていたりしたわけではないのだろう。逆に、なぜだかはわからないが信頼していたからこそ、託したのだと思う。
「私には、あなたを守りきる事が出来ないからですよ…」
私の言葉を聞いた銭形警部は、意外なほど悔しそうに唇を噛んだ。
「どんなに自由にルパンを追い掛け回しているとはいっても、私も所詮、組織の人間ですから…。自由にしているのはルパンに対してのみで、その他の事項に関しては、やはり通常の警察官程度の権限しか持てないのです…。手紙の内容はわかりませんが、お兄さんの仰っておられた今回のような「警察内部の秘密」に関しては、私のような存在は場を掻き乱しこそすれ、あなた達にとっては毒にしかなり得なかった」
申し訳ない、と頭を下げる銭形警部の肩が、ほんの少し震えていたような気がするのは気のせいだろうか。
一体、この人は今までの人生どれだけの煮え湯を飲まされてきたのだろう?真っ直ぐな正義でしかない銭形警部が、正義でいられないこの組織。そして本来正義であるはずの警察ではなく、本来悪であるはずのルパンに守られるという、私の立ち位置の逆転具合。
「いっその事、ルパンの仲間になってしまおうとか思わないんですか?」
思わず聞いてしまったこの一言に、銭形警部はきょとんとして顔を上げた。そのまま目線を上に持っていき、下に持っていき、しばらく考えると、やがてポリポリと頬を掻きながら言った。
「まぁ…正直なところ、時々、自由に正義を振りかざすヤツが羨ましくなります」
そして深く息を吐きながらもう一度下を向くと、次に顔を上げたときにはもう、真っ直ぐな、何もかもを見抜くような真っ直ぐな目で、私を見据えていた。
「しかし奴は犯罪者だ。逮捕するのが、私の使命です」
大切なお時間ありがとうございました、そう言って銭形警部は席を立った。
「ギャーッ!!」
「どうしたっ!!」
銭形警部の叫び声に、隣のフロアにいた刑事の一人が飛んできた。さすがは警察官だけあって、その反応は早かったけれど、彼は目の前にいる警部を見て固まってしまった。
「…女にっ!!女に逃げられましたっ!!」
机の脚に手錠で繋がれ、ジタバタしながら涙目で訴えかける警部はなんとも情けない姿だった。刑事は堪忍袋の緒が切れたらしい。ダンッ、と思いっきり脇の壁を拳で叩いて、後ろに控えていた部下らしき他の刑事達に追いかけるよう指示を出した。
「銭形っ!!」
一瞬、自分も捜索に向かおうとした刑事の足がそう叫んで止まる。そのまま振り向くと、彼は銭形警部にも負けない鬼の形相で怒鳴ったのだ。
「ルパンどころか素人の、しかも女にまで逃げられるとは、貴様は警察の恥だっ!!」
バタバタと慌しい足音が続いて、取調室は再び静かになった。少し経つと外からサイレンの音がし始めたけれど、それもしばらくして消えていった。
「もう大丈夫です。今のうちに出ましょう」
カチャカチャと、自分の手首を捕まえていた手錠を外す音がして、銭形警部が机の下にいた私に向かって言った。伸ばされた手に捕まってそこから出て初めて、私は警部の手首がほんのり赤くなってしまっていることに気付いた。
「…すみません…。私のためにご迷惑をお掛けしてしまって…それに「警察の恥」だなんて…」
「いやぁ、これくらい朝飯前ですよ。警察の恥にだって、なるのは100回や200回じゃない。一回増えたってどうって事ありません。…まぁ、少し演技が白熱してしまいましたかな」
警部は、そう言って少しおどけながら、ぺろりと自分の手首を舐めた。
そのまま安易に帰れるとは思えないと主張する私に、この方法を考え出したのは銭形警部だった。私は机に隠れ、いなくなったフリをする。警部は机に手錠で繋がれ、私に逃げられたフリをする。騒ぎを聞きつけて駆けつけた警官は、警部の情けなさと、いなくなった私を追いかけるのとに目を奪われて取調室などろくに見ないだろう。その間に出ようというのだ。そんなのうまくいきっこないと言う私に、警部は自信満々に「私だって伊達にルパンのトリックにかかり続けているわけじゃあない」と言い放ったのだった。
「元々この取調べは正当なものではない。それに対してだったら、これくらいのことは許されるはずです」
そして、本当に作戦は成功してしまった。
促されるまま警察署の正面玄関まで送り出され、そろそろ別れるという時になって私は口を開いた。
「本当に、ありがとうございました。警部のおかげで、私は警察を毛嫌いしないで済みそうです」
「そうですか」
複雑な顔をして笑う銭形警部と別れるのに、少しだけ後ろ髪を引かれる。今まで自分を助けてくれたルパンを裏切るわけではないけれど、警部の努力がいつか報われればいいとも心から願う。一体、この世に完璧な悪と完璧な正義などどれほどあるのだろうと、私は柄にもなく感傷的な気分になってしまった。
「…では」
でも流石に自宅まで送ってもらうわけには行かない。そうすれば、警部に貰ったせっかくのチャンスが無駄になる。いつか2時間テレビで見たヒロインのように、私は警部に対して深々とお辞儀をした。
銭形警部は、いつまでも私を見送っていてくれた。
そうして警察を出ると、外はもう明るくなってきていた。コートも財布も持たずに連れて来られてしまった私は、そこで初めて寒さにブルリと身を震わせて両腕を抱く。今までの緊張状態が一気に開放されて、感覚が戻ってきてしまったのだ。家まではそんなに遠い距離でなかったことだけが救いだったけれど、この寒さに気分はまるで家を無くしたホームレスのようで、少しだけ泣きそうになる。早く家に帰ろう。自然に足早になった足が、そのうちにジョギングになった。どうせ荷物も持っていないので、寒さ凌ぎにジョギングをするのもいいかもしれない。
しばらく走って、周りも通勤途中のサラリーマンや学生がチラホラしてきた頃、不意に、ジーパンのポケットに唯一入れておいた携帯が鳴った。ペースを緩めて開いてみると、優子からのメールだった。
美奈子ちゃん大丈夫?会社休んでたから心配したよ〜
(ってもこんな時間にメールごめんね…)。
そういえば、昨日帰りに舞城王太郎の新刊を発見しました!!
これは美奈子ちゃんに報告せねばと思って写メ撮ったんだよ〜!!
送るので、見てみてね!!あ、もう持ってたらごめんね!!
今日は会社に来られるのかな?
美奈子ちゃんがいないと次のバーゲン始まらないよぉ〜!!
優子の間の抜けた文章に、思わず微笑んでしまった。私が舞城王太郎のファンだというのは優子しか知らないから、これはルパンの偽者ではなさそうだ。やっぱり、友達っていうのはこういう相手を指すものだと一人で納得して、私は優子の撮ってくれた写メを見る為に添付マークを押した。しかし、普段からケータイをデジカメ代わりに使っているせいもあって<データフォルダがいっぱいです>と表示が出てしまう。仕方なく中のデータを少しマイクロSDの中に移そうとSDの中身を呼び出して、そこで私は思わず立ち止まってしまった。
<フォルダ使用状況 99.5%>
「…なんでだろう?」
このマイクロSDは、5MBも入る大容量ディスクだ。確かに、たくさん写真やデータを保存できると思って買いはしたが、購入後半年で埋まるような使い方はしていないはずだ。試しに、携帯から開けるあらゆるデータを開いてみたけれど、こんなに容量を食いそうなデータは勿論入っていなかった。
「…これってもしかして…」
一つだけ思い当たる節がある。パソコンでしか開けないデータはこの携帯には表示されない。
私は携帯をと閉じると、寒さも忘れて一目散に家までの道を駆け出した。