ヴィーナス

自宅は張られているかもしれないから念のためとルパンに言われ、結局その日はグランドフォルティッシモの柔らかすぎるベッドで寝てしまった。次の日、会社へ欠勤の電話を入れると(昨日の今日なので上司も深く追求はしてこなかった)、不二子に一番地味なパンプスを借りて、ルパン達に遠くから護衛をしてもらいながら一人で家に帰った。彼らは警察がどう動くか知りたかったみたいだけれど、今日は、途中で誰かに引き止められることはなかった。そのまままっすぐ家に帰り、午前中は家事を何となく済ませ、午後に入ってからは兄の遺品を始め、原稿のありそうな場所を家の片っ端から探している。

玄関のチャイムが鳴ったのは、午後5時を過ぎて辺りが暗くなってきた頃だった。

「どちら様ですか?」

注意深く、応答しながらドアの向こうの様子を伺う。今も遠くでルパンたちが見ていてくれているとは思うのだが、それでも掛け付けてくれるまでに何があるかわからない。

「優子だよ〜」

でも応えたのは予想外に暢気な声だった。意外な訪問者に、私は一気に気が抜けてしまう。まさか、彼女が訪ねてくるとは思わなかったのだ。チェーンを外してドアを開けると、Pコートに膝丈のブーツを覗かせた姿の優子が、寒さに鼻を赤くさせて立っていた。

「美奈子ちゃん大丈夫?今日休んでたから、心配になって来ちゃった」

そう言って持っていた紙袋から覗かせたのは、少し前に解禁されたばかりの赤ワインだった。

「わっ!!ありがとう!!」

こういう時に部外者を中に入れるのはいけないんだろうけれど、ワインにつられて、私は優子を部屋に入れることにしてしまった。というのは建前で、本当は、一人で家にいるのがいい加減心細かったのだ。何かがあった時にだって、優子ならすぐ誰かに助けを求めてくれるはずだと思った。

早速彼女をリビングに通し、自分は急いで軽いおつまみの用意を始める。対面式のキッチンではなかったけれど、そう広い家ではないので離れていても会話は出来た。

「わざわざ来てくれてありがとうね」

「いいえ〜。こちらこそ急にごめんね」

「優子が家に来るのいつ振りだっけ?」

「凄い久しぶりだよね〜」

「あ、あれじゃない?加藤君に失恋した時」

「うわっ、懐かしい名前が出たなぁ〜!!やめてよ、もう過去のことなんだから〜」

「あはは、ごめんごめん。」

だんだん、友達同士でよくやったお泊り会のような気分になって、ほんの少し心が和んだ。ここ数日、というよりもっと前、兄が死んでからは、誰かと他愛のない会話をして笑うという事がほとんどなかったような気がする。自分では気付かなかったけれど、知らずのうちに気を張っていたのかもしれない。

「なんだったら、先に一杯やっちゃってても良いからね」

「う〜ん、大丈夫だよ〜」

鍋に火を掛けるついでにちらりとリビングを見遣ると、優子が落ち着きなさそうにきょろきょろと周りを見渡していた。いけない。自分ばかり良い気分になって、彼女を退屈させてしまっていたのかもしれない。かといって、まだ料理は始めたばかりだったから、離れるわけには行かなかった。

「テレビとか見てても良いし、適当に寛いでて」

そう言って、再び台所に向かい料理を再会させる。ありがとう〜と、優子の気の良い返事が返ってきてお笑い番組の始まる音が続き、安心した。

「そこらへんにある本も読んで良いよ〜。優子の好きな作家もどっかにあるはず」

「ホントに?嬉しいなぁ。探してみる!!」

「確かあの人好きなんだよね、あの、ほら、あれ書いてる…誰だっけ?」

「なによ美奈子ちゃん、もうボケちゃったの〜?」

「ちょ、失礼な!!思い出すからちょっと待っててよ!!」

そんな会話をしていて、はたと思った。何だか、彼女の声が途中からやけに篭ったように聞こえた気がする。本は、そんなに入り込まなければいけないところにはないのに。全て見やすい位置に置いてあるのだ。では、本を探しているのではないとすると、何をやっているのか。考えられる事、思い当たる事が多すぎた。

「優子、どこ探してるの…?」

急に不安になって、私はコンロの火を消してリビングの方に身を向けた。まさか、優子まで敵だったなんてどんでん返しがあるのだろうか…?

目に映った優子は、床に敷いた絨毯を捲ってその中に頭を思いっきり突っ込んでいた。

「あ、あったあった!!松本清張、好きなんだよね〜」

と言いながら彼女が顔を上げた瞬間、私は再び悪魔に出会ってしまった。絶対に優子が見せるはずのないギラギラした目と、歪んだ口元。それらを併せ持った悪魔。声や形が変わっても、昨日のタクシーの中で見たあれを忘れられるわけがない。

ルパンだ。

「なに…」

やってんのよ、と叫ぼうとしたのと同時に、優子の殻を被ったルパンに片手で口を塞がれた。よく見れば、左手には本などではなく小さな丸いチップのようなものを摘み上げている。

「松本清張と言えばさ〜やっぱり『黒革の手帖』だよね〜…」

ルパンが優子の声で言ってほんの少し指先に力を入れる。ペキッと小さな音がして、チップが割れた。

「これっぽちも読んだことねっけどな」

途端に声がルパンのものに戻り、チップの欠片はパラパラと床に落ちる。

声と姿が全く合わず、私は下手な洋画の吹き替えを生で見せられているという、不思議な気分になった。

「騙された?」

「優子が好きなのは瀬尾まいこだけどね」

「ありゃ、思い出したの?しかもはずれちゃった」

と言いながら私に向かって微笑んだ顔は、もうどう見ても優子のものだった。そのまま見たら絶対にルパンだとは信じられない。そういえば新聞やテレビではよく言っている。ルパンは変装の名人だと。優子が家に来てからの会話を思い返しても、優子は優子として優子にしかできない返事を一切していない。全部、私が情報を与え、推測できうる範囲での返事だった。相手に気付かれること無くそれが出来てしまうルパンはやはりプロなのだろう。でも、それでも私は狐につままれた気分で彼女…ではなく彼を見返してしまう。だって、見破っておいてなんだけれど、小さくて可愛らしい優子に大の男が完璧に変装するなんて、物理的に見て不可能でしょう?

「一体どうやって…」

そう言う私の口元に、ルパンは人差し指を持ってきて言った。

「それは、企業秘密だよ」

お尻にハートマークがつきそうな、大の男が言うには本当に気持ち悪いその言い方も、優子の格好では何となく納得できてしまう。呆然とする私にうふふと笑ったルパンは、突然そのまま床の絨毯を掴んで大きく一回はためかせた。私の視界からルパンが消える。そして絨毯が再び重力に従い床に落ち着いた頃、目の前には、いつもの赤いジャケットが、いつもの姿の男に纏われて現れたのだった。一体どんなマジックショーなのだ…。

「俺が動いたのを見てお巡りさん達が動き出したりしたらいけねっからな、ちょいっと変装さしてもらっちゃった」

「何のために?」

「君の家に御呼ばれするためだよ〜。外にいたら、変な電波キャッチしちまったんだよね〜」

ルパンは、側の棚に置いてあった世界一有名なくまのぬいぐるみを興味深そうに眺めると、そのままそれを抱えてソファに座った。

「変な電波?」

「そ。一つは、さっき絨毯の裏からみっけた盗聴器で…」

「盗聴器!?」

思いっきり眉を顰めて聞き返してしまった。あんなに薄く、すぐに粉々になったチップが盗聴器?

「たぶん、ここで原稿のありかでも喋るかも、とか思ったんだろうな〜」

なんで、こんなに犯罪めいた道具の名前が冗談の続きのように、さらりと飛び出してくるのだ。まさか自分の人生に盗聴器を仕掛けられる日が来るとは思わなかった。

「もう一つは、たぶんこれだ」

突き出されたものを見て、私は一回そのまま首をかしげた。反応がないので、それは私のよ、と言ったけれどそれでもルパンは動かなかった。

「そのくまは、昔家族で遊びに行った時に買ってもらった物よ。ずっと家にあるの。数ヶ月前の原稿云々に関係するはずがないでしょう?」

「それがな」

と言って、ルパンは私にも見えるようにクルリとぬいぐるみを裏返した。

「このぬいぐるみは、こんな所にチャックがあったかい?」

屈んでよくよくぬいぐるみの裏を見ると、ルパンがかき分けていた毛の隙間から、ジッパーらしきものがチラリと見えた。

「いいえ?」

ぬいぐるみは当時確かに値の張るものだったが、それは電池内蔵型の仕掛けがしてあったとか、ポシェットにもなるように作られていたとか、そういう理由からではない。素材が通常と違う限定ものだったのだ。だから、何かを入れるような機能はついていないはずだった。いつの間にジッパーなんてついたのだ?

「警察が、ホンモノとすり替えたんだろうぜ。ったく、あいつらも大人げねぇよなぁ」

ルパンは躊躇なくジッパーを下ろし、中から煙草ケースほどの大きさの箱を取り出した。警察が、盗聴器を置くのと一緒にすり替えた?もし本当だとしたら、庶民を馬鹿にするにもほどがある。しかも、思い出の、大切なぬいぐるみを使うなんて。

「乗り込んでってホンモノ返…」

ずっと続いていた声が突然止まった。今まで、私はルパンのおしゃべりが何かによって止められるところを一度だって見る事がなかったのだ。思考を中断して、何が起きたのかと彼を見ると、そのよく動く大きな目は、これ以上ないほどに見開かれていた。

「ルパン?」

声をかけるとようやく、見開いた目の真ん中で黒目が私の方へと向いた。

「…驚くなよ、美奈子ちゃん」

言いながらゆっくり箱を私に見せる。真ん中にデジタルディスプレイが取り付けてあり、数字が四桁「0300」と表示されていた。

「何?これ?」

「これは…」

「これは?」

と、箱の中からピッと音がして数字が「0259」に変わった。うわっ、きったねぇ!!とルパンが叫び声をあげる。

「遠隔操作式の時限爆弾だぜ!?こんな住宅街で爆発したら偉いことになるぞ!!」

途端にルパンは箱を持ったまま跳ね上がって駆け出した。

「ちょっと、ルパン!?」

「ここにいろ!!何とかすっから!!」

「待ってよ!!」

慌てて私も立ち上がると、ルパンを追いかけて走り出した。コートを着るのも忘れ、家に鍵をかけるのも忘れ、エンジンをかけていた車の助手席に飛び乗っていた。だって、自分を狙った爆弾の為に、関係ないルパンだけ犠牲にするわけにはいかないでしょう?

「おいおい…なんで乗っちまったんだよ〜」

カウントダウンし続ける箱を抱えながらアクセルを思いっきり踏み込んで、それでも片手で見事なハンドル捌きを見せつつマニュアル車を運転し始めたルパンには、流石に私を押し留める事が出来ない。恨めしそうに一瞬睨まれたけれど、すぐに彼は運転に集中し始めた。

「どこに行くの?」

「どっか、近場で水のあるところ」

「知ってるの?」

「…江戸川…?」

「間に合わないわよ」

「……」

「ほら、私が必要じゃない」

そこ右、と言ってついでに箱を取り上げる。刺激さえしなければ時間までは爆発しないはずだ、とはテレビドラマでよく聞く。だったら、私が持っていてルパンに思いっきり運転してもらった方が良い。

「すまねぇ」

初めてルパンが真剣にそう言った。次々と曲がる指示を出しながら、速さのせいで正確でもどうしても荒くなる運転に耐えつつ、私はその時初めて確信したのだ。

この人は、信じられる。

 

車はすぐに近所の公園へ着いた。公園と言ってもその規模は相当大きく、形だけならニューヨークにあるセントラルパークに少し似ている。もちろん車両は立ち入り禁止だったけれど、ルパンは柵すら車ごと飛び越えて、公園の真ん中にある大きな池の前まで乗り込んでしまった。明るいうちは冬でも手漕ぎボートやスワンボートが浮いていたりするのだが、流石にこの時間になると誰もいなかった。

「後は任せろ」

車を停めた途端、ルパンは箱を取り上げてそのまま池に向かって走り出す。カウントは、もう10を切っていた。間に合うだろうか?私は荒い運転のせいでヨロヨロしながらも車から這い出て、ボンネットに寄りかかった。お願いだから間に合って欲しい。

ルパンは、バシャバシャと音を立てながら真冬の夜の池へ入っていくと、膝まで浸かったところで箱を思いっきり放り投げた。

次の瞬間。

間近で打ち上げ花火を打ち上げられたかのような衝撃音と振動と共に、池の中で大きな水柱が上がった。たぶん、5メートルぐらいはあったんじゃないだろうか。まるで噴水ショーのようだった。一瞬、それは池の回り全てを飲み込み、離れていた私の元にまで水飛沫が飛んできて洋服を濡らす。はたと気付いて思わずブルリと震え、自分の両腕を押さえた。これが、自分の家で爆発していたらと思うとぞっとした。命どころか、自分がそこにいたという証すら、なくなってしまいそうだった。警察は、原稿が見つからないなら家ごとその痕跡を消してしまおうと思ったのだろうか?人や物のたくさんある場所でなくて、本当に良かった。

箱の爆発は一度だけにセットされていたようで、一発上がりきってしまうと水柱はすぐになくなった。目を凝らしてよく見ていると、水際まで上がってきたルパンが自分のジャケットを雑巾のように絞っているのが見えた。ルパンは、突然起こった噴水の中でずぶ濡れになるに留まったのだ。

「うひょ〜!!つめて〜!!」

「ルパン、大丈夫!?」

「大丈夫大丈夫〜!!」

池の中でひらひらと手を振るルパンにホッと息を吐く。ここでルパン三世に死なれていたら、きっと私は一生後悔していただろう。よかった。

未だに方向感覚は定まらなかったが、悪戦苦闘しながらルパンの元に駆けつけようとして誰かにぶつかった。すみません、と言いかけたのもつかの間、右手にまたもや激痛が走る。

「イタッ!!」

同時に手元でガチャリと冷たい音がした。振り向くと、そこにいつの間にか人が二人立っていた。遠くでルパンが何か叫んでいたけど、うまく聞き取れない。目の前にいる人物に気圧されていた。暗くてよく見えなかったけれど、この「普通すぎて特徴がない」という事が特徴の相手は多分間違いない。

鈴木と田中だ。

二人は言った。

「佐伯美奈子さん、今度こそ署までご同行願いますよ」

「取り敢えずは、火薬類取締法違反でね

絶対に爆弾の事ではないと、それは私にでもわかった。


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