ヴィーナス

運転手の正体はそれから程なく判明した。車中で突然ルパンが紹介し出したのだ。それも警察を引き離すために全速で公道を突っ切っている最中に。

「こいつは次元大介ってんだ。俺っちの相棒」

「次元…さん?」

と言う間にも二回は急カーブを切っている。

「次元」

「え?」

左急カーブにタイヤが音を立てた。

「次元でいい」

「…はぁ」

本人は平気で運転しているが、私は少しそれどころでない。目が回りそうだった。

「おいおい、それだけかよ。ごめんな美奈子ちゃん。こいつ、美人には人見知りが激しくてね〜。慣れた人間にはベ〜ラベラベ〜ラベラ、よぉ〜くくっちゃべってんだけっどもがなぁ〜」

「ルパン!!」

例えるならば遊園地のコーヒーカップが場外へ飛び出したような感覚の中なのだ。その中でルパンも楽しそうに次元を弄っている。この人たち、本当に人間だろうか?

「…い、いえ、人のこと言えないので…」

と、舌を噛まない様に精一杯コメントを返す。

「ほ〜れ見ろ次元!!美奈子ちゃんは良〜くできた人じゃないか!!お前も見習え!!」

「……」

しかしどうやら、次元大介という人はなかなか難しい人物らしい。それきり、たまにルパンの軽口には答えるものの、私と会話をすることはなくなってしまった。というより、ルパンの側にいるから難しく見えるだけで、もしかしたら案外普通の人なのかもしれない。そりゃあ、初対面の人間と昔からの友達かのように話せる人間なんてルパンぐらいだろう。何でそんな人間の相棒なのだろう?

そうしている間にも、隅田川に架かる言問橋を過ぎたあたりで何とか後ろを引き離し(何をしたのか、次々とパトカーが橋の下へ落ちていったのだ。トレンチコートの男が乗ったパトカーだけは何とか浅草橋まで食らいついていたものの、健闘空しく日本橋の雑踏に消えた)車は東京駅丸の内南口の交番前に乗り捨てられた。何事もなかったかのように、ルパンと次元はその場にいた警官に車を託し、東京駅を警察顔で通り、中のトイレでスーツに着替えた。ルパンが昨日と同じ赤だったのと対照的に、次元が真っ黒だったことに私は変な納得をしてしまった。

改札を抜けると丸の内線に乗って、霞ヶ関で警視庁の悪口をごちゃごちゃと並べ立てるルパンを宥めながら日比谷線に乗り換えて、意外と華やかさのない六本木駅で降りる。そしてさも当たり前というように、グランドフォルティッシモ東京の最上階まで連れて行かれた。グランドフォルティッシモといえば、国内最上級の高級ホテルだ。一番安い部屋にだってなかなか泊まれないのに、最上階なんて一生に一度ですら来られるとは思っていなかった。普段なら思わぬ幸運だと言えるのだろうけれど、よりにもよって制服にカーディガンという完璧なOLルックの上に片足裸足だった私は、人生で最大級の赤っ恥を掻かされる羽目になってしまった。今日はどれだけ人々の痛い視線を浴びなくてはいけない日なのだろう。どれもこれも私のせいじゃないのに…。

「腹減っただろう?何か食うかい?」

そんな私の思いもつゆ知らず、最高級ホテルの最高級スイートのリビングで、どっかりとソファに腰を下ろしていたルパンが聞いてきた。

「…お腹は空いてない」

と言った途端にお腹が鳴って真っ赤になる。…お約束。

「うはははは!!美奈子ちゃんてばか〜わいいなぁもう!!だ〜いじょうぶ!!レディに払わせるなんて野暮な真似しないよ」

大声でエロ上司のような笑い声を上げたルパンの元に、奥のダイニングからメニューらしきものと電話の子機が飛んできた。たぶん、次元が投げて寄越したんだろう。タイミングよくキャッチするルパンは、何だか宴会芸に出てくるサルのようにも見えなくなかった。

「何か嫌いなものはあるかい?なければ適当に注文しちゃうよ」

「お任せする」

ペラペラと捲りながら聞いてきたルパンに私は首を振る。きっとそのメニューには、私からしたらびっくりするような値段の料理が並んでいるのだろう。見たら絶対に注文できなくなると思ったから、メニューは見ずルパンに任せることにしたのだ。でも結果的にはそれが間違いだったのかもしれない。

数分後、テーブルの上には昼間からフランス料理のフルコースが三人分、専任シェフと共にやってきた。

オードブルからデザートまで全く慣れない料理と格闘しながら、何で今日はこんな目に遭うんだろう…と、たぶん20回は呟いていた気がする。

 

「さてと。腹ごしらえも済んだことだし、そろそろ本題に入るとしましょうかね」

デザートのフルーツを食べ終え、ひと心地着いたところで満足そうに笑ったルパンが、向かいで膨れたお腹をさすりながら言った。その隣では次元が食後の一服を満喫している。私は飲んでいたコーヒーをソーサの上に置いて、何となく居住まいを正した。

「その前に一つ聞きたい事があるんだけれど」

「なんだい?おれっちのスリーサイズ?趣味?特技?あ、彼女は今特にいないよ」

「そうじゃなくて…」

せっかく伸ばした背筋が脱力して縮んでしまった。本当にこの人は大丈夫だろうか?警察から逃してくれたことには感謝しているが、詐欺師臭いニオイはいまだにプンプン漂っている。逃れた先が虎の檻だったなんてことにもなりかねない。

でも、こんなにふざけた人間でも、兄と何か関係を持っていたらしいことは事実なのだ。

「あなたは兄に何を盗ませたの?」

単刀直入に聞いてみる。兄が死んで、タイミングよくルパンがやってきた。そしてタイミングよく警察が兄の隠したらしいものを捜している。そんな警察からルパンは私を逃した。それは彼にしてみれば、警察に渡って欲しくないものを兄が持っていたってことに他ならない。ルパンが警察に渡って欲しくないもの、即ち盗品。

奪い返しにきたのかもしれない。下手したら、ルパンだって私たち兄妹の敵ということになる。

「お金?宝石?絵画?」

私の一言を聞いてルパンはポカンとしてしまった。ルパンだけではない。その隣にいた次元でさえも。何か変な事を言っただろうかと思い返してみるが、どう考えても私の考えは至極全うだと思うので言い訳が出来ない。

部屋に変な沈黙が流れてしまった。

「…もしや、この女も知らねぇんじゃねぇか、ルパン?」

しばらくして、口を開いたのは次元だった。気を取り直したように煙草を咥え直す。

「な、知らないって、何を?」

「ほら見ろ。知らねぇじゃねぇか」

私の動揺した一言を聞いて次元が得意顔になってルパンを見返す。ほら見ろ、と言われても私には何ひとつピンと来ない。ルパンはしばらく困ったような顔をしていたけれど、そのうち決心したように切り出した。

「美奈子ちゃん。お兄さんから、なにか預かったものはないかい?」

「預かったもの?」

言い返して自然と眉間に皺が寄ってしまった。この人は鈴木や田中と同じことを言っている。兄が、何かを持ち帰らなかったかと。私の周りに普段なら絶対に現れない人種が二組も突然揃ったのは、やはりこういうことだったのだ。いつだって嫌な方に予感は当たる。ルパンは、私の味方なんかではなかったのだ。

「結局ルパンもあの人たちと同じなのね。残念ながら私は何も知らないわ」

怒鳴り出したい気持ちを抑えて、私は席を立つとそのままドアの方へ向かった。冗談じゃない。なんで、警察もルパンも私からこれ以上の何かを奪おうとするのだ。

「ちょ、ちょっと、美奈子ちゃん待って」

後ろからルパンが追いかけてくる。でも今度こそは捕まるわけには行かない。このプライバシー抜群なスイートには、助けてくれる人間なんてやってこない。自分で何とかしなくてはならないのだ。そう決心しながら部屋のドアを掴もうとした瞬間。

ドアがひとりでに開いた。

「あら、いたの?」

と、目に飛び込んできた大きな胸がそう言った。

「でもちょうどよかったわ。ルパン、情報があるの」

ふぅ〜じこちゃ〜ん!!と、語尾にハートマークをこれでもかと飛ばしながら後ろでルパンが叫んだのではっとした。胸ではない。女性だ。女性が一人、目の前に立っていたのだ。パリコレで見るような露出度とデザイン性の高い黒のワンピースを着て毛皮のコートを片手に、これでもかと主張する12センチのピンヒールを履いて立っている。指の宝石も首飾り(あれはもうネックレスと呼べる代物ではないと思う)も全て大きくて大胆なデザイン。きっと私なんかがしたらまるでおもちゃのようにしか見えないだろう。メイクもファッションも完璧で、隙がなく、堂々としていて、けれども男性的ではない。見れば見るほど同性なのに見惚れてしまいそうだった。美の神様というのはこういう人に宿るものなのだろう。

「ちょっと。いつまでそこに立ってるの?入れないじゃない」

「あ、すみません…」

その存在感に思わず後ずさってしまったのがいけなかった。次元にそのまま腕を掴まれた。三度の不覚。

「不二子の話を聞いてからでも、帰るのは遅くないと思うぜ」

初めて私に視線を寄越してニッと笑うと、そのままひっぱってリビングのソファに座らされた。有無は言わせない。この男、実はルパンよりも女の扱い方を知っているのではないだろうか。私には黙っていついて行くことしかできなかった。

何を持ってきたかっていうとね、とルパンにコートを掛けさせながら、不二子と名乗った美女は私に向かって言った。色々と苦労したのよ、と言いながらルパンにコーヒーを持ってこさせ、ついでにご褒美のキスをねだるその頬に平手をお見舞いした。

「あなたのお兄さんが隠したものについての情報よ」

やっと向かいのソファに陣取った不二子は、コーヒーを一口啜るとこともなげにそう言った。きっとクレオパトラはこんな風に飲み物を飲んだに違いないと思ってから、私の頭は硬直した。

「え?」

「驚いた?」

マスカラとアイシャドウで彩られた、キュートで大きな目がクルリと向く。反対に私の目はこれでもかと泳いでしまっていた。ウソだと叫びたかったけれど、不二子のその視線の前にはそう言う事ですら恥ずかしいことのように思えた。

「いいのよ、正直に言って。うそだと思ったでしょう?私も驚いたもの。調べれば調べるほど、あなたのお兄さんは品行方正。仕事には真面目。ギャンブルはやらない、お酒も嗜む程度、女遊びなんてもってのほか」

誰かさんとは大違い、とチラリと見た先にルパンが座っていたのを見て、次元が大きく頷いた。確かに、ルパンと兄は同じ人間とは思えないほど真逆な性格をしている。だから、だからこそ、ルパン三世と同じようなことを犯すはずがないのだ。

「でも、あなたのお兄さんは、とんでもないものを手に入れてしまったのよ」

私の心を見透かすように不二子は言って、持ってきた茶封筒から、彼女には似つかわしくない週刊誌を一冊と、書類を一部、取り出してテーブルの上に置いた。

「これは、三ヶ月前に発売された週刊誌。そして書類は、責了前まで当初掲載予定だった記事のラインナップよ。差し替え予定から何から大体のことは書き込まれてるわ」

「…特に変わったところはないみたいだけっども?」

手に取ったルパンが二つを見比べながら言う。

「もっとよく見比べて」

不二子の言葉につられて私も覗いてみる。書類の方には、いたる所に走り書きでメモが書いてあったり斜線が引いてあったり塗りつぶされたりしていて、何が何だかさっぱりわからない。見比べろといわれても難しいほどだ。誰か編集者の手書きのメモのようだけれど、彼女は一体どういうコネでこういうものを手に入れてくるのだろう?

「…これ、差し替えられてるのか…」

週刊誌のページを捲っていたルパンの手が止まった。それは、何の変哲もないゴシップ記事だった。たっぷり4ページ分も割いて、とある芸能人の最近の不調原因を、匿名コメントをふんだんに使って「解明」している。きっと次の日には忘れ去られてしまうようなダラダラ長いだけのつまらない記事だった。でも同時にこの記事だけ、書類の方にはどこにもそれらしき名前が載っていなかったのだ。そして書類の方には、それに相当するだろう記事については黒く塗りつぶされている。

「ゴシップ記事と兄と、何が関係あるの?」

「関係なんてないわよ」

私の純粋な質問に、呆れた、という顔で不二子がコーヒーを啜る。

「関係ないからこその、「差し替え」でしょう」

「どういうこと?」

つまりはだ、と黙っていた次元が煙草を燻らせながら口を開いた。

「責了印の押された原稿が印刷所に持ち込まれてからある記事の差し替えが決まった。ギリギリの所でNGが出て差し替えるってことは、大方でっかいスクープ記事だろう。印刷所で事務をしていたお前さんの兄貴がたまたまその没原稿を見つけちまって、どこかに隠したって訳だ」

「そういうこと。あなたのお兄さんは、その記事の重大性に気付いて処理をせずに持ち帰ったのよ」

兄が、週刊誌の記事の重大性に気付いて原稿を隠した?職務に忠実な兄が?にわかには信じられず、私は黙ることしか出来なかった。データの流出を極端に気にする現代社会において、スキャンダラスな記事は出版社にとっても当事者にとっても諸刃の剣になるはずだ。だから印刷所だけは、どちらに刃を向けるかクライアントに忠実でなくてはいけない。一度「破棄」か「回収」と決めたからには、どんな記事もそれ以外の道はないはずで、その道を踏み外すようなマネは、兄はしない。絶対にしない。はずなのに。

「…一体どうして」

「そこには、国家の組織的な詐欺に関する告発記事が載っていたらしいわ。無茶をして追ってるって事は、警察も上の方が絡んでいるから揉み消したいのよ。ただの詐欺ならよくある話だけれど、それが国絡みとなると厄介なことだしね。もしかしたら、お兄さんは別ルートで告発でもする気だったのかもしれない。今は、まともに戦って勝てなくとも、世論を武器にすれば何にだって勝てる時代だもの」

「記者は?」

とルパンが言った。確かに、その原稿をたまたま読んだ兄をどうにかするより先に、元の記事を書いた人物の方をどうにかするのが筋だ。事情は兄の100倍詳しいはずだ。

「差し替えが決まった直後に、全部証拠を提出させられてるわ。資料やメモリーディスクはもちろん、記事を書いていたパソコンまで。その上、北海道の僻地に異動。わざわざ私が出向いてあげたというのに「知らぬ存ぜぬ」のだんまりよ。きっと相当お金を積まれたのね」

「手が込んでるな…」

「だから、後はあなたのお兄さんが隠した資料写真付きの原稿だけが、「ホンモノ」ってわけ」

ふぅ、と溜息を付いて、不二子の報告は終わりを告げた。三人は一様に私へと視線を変えた。私に意見を求めている。何かを思い出すことを求めている。それなのに、どうしたことだろう。私は、不二子の報告をここにいる誰よりも理解できずにいた。いや、理解できないのではなく、理解しようとしていなかったのかもしれない。確かに、4人の中では一番状況に近い所にいるのだろう。でも、この話には現実味がなさ過ぎる。一体、どこのOLの日常に政治や犯罪の裏世界が転がり込んでくるというのだ。理解できるはずがない。

「そんなこと急に言われても…私は一体どうすれば良いの?」

それだけを、喉の奥からひねり出すので精一杯だった。

「ま、確かにな。急に国だの不正だの言われても困っちまうよな。そんなの夕方のニュースでボソボソやってりゃいーってもんだ」

気持ちを理解してくれようとしたのか(それともただ地なのか…)、冗談のような口調でルパンが返した。

「でもまずは、その原稿を見つけることじゃねぇか?お兄さんがいないんだから、その原稿の処理は君がすれば良い。警察に渡すもよし。俺たちにくれるもよし。捨てっちまうもよし。だが、記事を見つけるまでは政府も警察も血眼で君を追ってくるだろう。今は見つけることだけを考えたほうが良いんじゃないかい?」

確かにその通りだ。私には、迷っている暇も、後ろを向いている時間もなさそうだった。

「わかった」

「俺たちは、協力するぜ」

頷く私にニッと笑ったルパンの顔は、今までにないほど、ものすごく生き生きして見えた。やっぱり、なんだかんだ言ってもこの男だって、結局「お宝」が目当てなんだろうな。


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