ヴィーナス

古くからの下町にある、ちょっと寂れたショッピングセンターが私の職場だった。スーパーと、お土産屋と服屋と雑貨屋と本屋、それから小さな電気屋が入ったそこは古びた造りをしていたけれど、なんとか赤字を出さずにやっていた。周りにライバル店がないというのもあったし、子供と老人が多く住むこの界隈では、場所柄、最近流行の「複合型ショッピングモール」なんていうのには予算も需要もさほどない。日々の生活に必要なものを、日々の生活の一部として買えれば良い。何より、他の大型店舗に比べ利益にガツガツしていない点が、私の性格に合った職場だった。

今週も、平凡な一週間が始まる。いつもの通り、定時に出社し、事務所で各店舗の売り上げに基づく利潤計算をして、次のセールに使うポスターの納品チェックをして、細々と雑務をこなしていって、気がつくと14時を過ぎていた。そういえば、業者が来ていたので同僚からランチに誘われたのを断った気がする。彼女達はもうとっくに済ませて帰ってきていた。いくらなんでも、お昼を食べ損ねるのは嫌だ。今日は近くの洋食屋さんのランチを食べようと思っていたけれど、時間が時間だけに館内のお弁当屋さんで済ませるしかなさそうだった。

慌ててカーディガンを羽織って、お財布だけを持って出ようと思ったら、事務所の電話が鳴った。素早く取って品良く応対し始めた同期の優子の表情が、私の顔を窺いながら少しずつ曇り始めたのを見て、私は今日のランチを諦めざるを得なくなったことを悟ってしまった。

「…美奈子ちゃん…」

やがて受話器を覆いながら、ちょっと気弱な彼女が遠慮がちに話しかけてきた。

「誰?クレーム?」

「…ううん。警察の人…」

「警察?」

「なんか、お兄さんのことでお話があるみたいで、今受付にいるって…」

兄のことで話?今更?淡々と、退屈めいた調書を読み上げる刑事の顔が脳裏に浮かんだ。一年で7,000件近く起こる事故のうちの一つ。そのたった一つに、今更何の用事があるというのだろう?

「わかった。ちょっと行ってくるわ。遅くなるかもしれないけれど、課長には適当に言っておいて」

行き先はまた変更せざるを得なくなった。仕方なく足早に受付へと向かう。事務所内にいる人間の、同情と好奇の混じった目が何だか痛かった。

 

事務所の応接室に通すわけにも行かないので、私は刑事二人を引き連れて近くの喫茶店に入った。客が入ってるのかどうかいつも怪しい、寂れた喫茶店。あまり周りに話を聞かれるのが嫌なのでそこを選んだのに、意外にも、数人の客がコーヒーを片手に思い思いの過ごし方をしていた。

「初めまして、警視庁の鈴木と申します」

ボックス席の窓際に座った刑事が、バッジを見せながら言うと、隣に座ったもう一人も、田中と名乗りながらそれに習った。見事に凡庸な名前が揃いすぎて逆に怪しいくらいだ。それなりに筋肉のついた体型と綺麗なスポーツ刈りは、でも警察官としては当たり前すぎて、きっと次に会っても思い出せない。

「お忙しい所申し訳ありません。実はお兄さんの件でいくつかお伺いしたい事がございまして」

「何でしょう?」

「お兄さんが事故に遭われる前…そうですね一ヶ月ぐらい前から遡って、何かいつもと変わった点は見られませんでしたか?」

一瞬、質問の意味が掴めず眉間に皺を寄せた。ちょうどマスターがコーヒーを三つ持ってきたので、配り終えるのを待って私は口を開いた。

「どういうことでしょうか?兄のことは「ただの」交通事故だったと伺っていますが」

敢えて「ただの」を強調したのは皮肉のつもりだった。気まずそうにこめかみを掻いた鈴木の態度でそれが通じたとわかる。警察は、自分の誤りを認める事が一番嫌いな人間の集まりなのだ。

「それが…今になって殺人の可能性が出てきましてね」

「殺人?どうして?」

「それは捜査上の守秘義務というもので、お知らせする事が出来ないのですが」

精一杯同情的な表情を浮かべて田中が鈴木の後を引き継ぐ。もっとも、どこでどう引き継いでも、目を瞑って聞けばどっちが喋っているのかわからなくなるような平凡な声だったけれど。

「お兄さんが何か、見慣れないものを持ち帰ってきたとか、それをどこかに隠したりといったようなことはなかったでしょうか?」

「は?」

思わず目を丸くしてしまった。一体どういうことだろう?これではまるで、兄の方が犯罪者かのような言い方ではないか。

「兄が何かを盗んできたとでも仰りたいように聞こえますが?そしてその報復に殺されたと?」

「まだ断定は出来ませんが…」

「馬鹿馬鹿しいにもほどがあります」

あの、生真面目を絵に描いたような兄が犯罪など、天地がひっくり返っても犯すわけがない。そう言って語気を荒くすると、聞いていた鈴木が鋭い目で田中を睨み付けた。これが正体なのだろう。明らかに、この人達は私と兄を敵と見なしている。

「申し訳ありませんが、仕事がありますので失礼させていただきます」

飲んでもいないコーヒー代を叩き付けると席を立つ。とてもじゃないけど付き合っていられない。こんな事をしている間に時間は過ぎて行く。やらなければならない仕事もある。

そうして二人を置いてきたつもりだったけれど、店のドアまで来た所で後から右手を掴まれた。

「なんですか?」

うんざりとして仕方なく振り向く。なぜ二日連続で同じ目に遭うのだろう?昨日と違うのは、今度は目の前を車が通ることもなかったし、これは明らかに敵意を持った掴み方だった。

「ご協力いただけないなら、佐伯美奈子さん、署までご同行願います」

「任意でしたらお断りします」

どうして私が?空いた手で店の扉を開け、外に出ようとすると刑事もそのままついてくる。

「迷惑ですので離して下さい」

「お断りできる権利は、あなたにはありませんよ」

「イタッ…!!」

右手に激痛が走り、捻られたことを知る。とてもじゃないけど振りほどけない。もがけばその分痛みが増す。タイミングよく目の前に滑り込んできた黒いセダンのドアが開き、中から制服を着た男が私を中に入れようと乗り出してきた。でもどう考えても、これは警察のすることじゃない。

「ちょっと!!離してよ!!痛いってば!!」

「大人しくしていれば、こんな手荒なまねをせずに済んだんだ!!ほらっ!!乗れっ!!」

もう鈴木だか田中だかわからなくなった一人が、後から背中を押してきた。そのたびに私は肩が抜けそうになって、でもその痛みで叫ぶのは悔しくて、代わりに男達を罵倒して時間を稼ぐ。

「離してって言ってるのが聞こえないのっ!?」

なんだか、傍から見れば警察の大捕り物みたいに見えるのかもしれない。野次馬が集まり出したのが痛みで霞んだ目でも見て取れる。誰か、誰でも良いから私をここから連れ出して!!

「あんた達それでも警察なの!?一般人をこんな目に遭わせる奴の為に高い税金払ってるわけじゃない!!」

そう言うと、車の中から手を伸ばしていた男の口がゆっくりと、まるで映画のスローモーションのようニヤリと笑った。目は制帽に隠れていたけれど、間違いなく笑っていた。それを見て私は絶望の海に沈んだのだ。痛みを忘れて思わず絶句する。これは、警察じゃない。悪魔だ。

そう思ったら急に全身の力が抜けた。人間が悪魔に勝てるわけがない。突き飛ばされるように後部座席へ倒れる。世界が、私の世界が暗転する瞬間のように思えた。

と、その時。

「カワイコちゃんってのは、そんな手荒に扱って良いもんじゃないぜ〜?あ、税金無駄に食ってる奴はそんなこと知らねぇか〜」

聞き覚えのある独特の声が、男の口から発せられた。下を向いたその顔は制帽に隠れて見えなかったけれど、昨日の今日で間違いようがない。

「自称」ルパン三世だ。

「何?」

私を掴んでいた手の主が、意外な声に明らかに動揺していた。二人とルパンは仲間じゃない。きっと予想外の声だったのだ。チャンスかもしれない。そう思った私は、パンプスを履いた足を思いっきり後ろへ突き出した。

「うおっ!!」

声は驚いていた割に、蹴りは当たらなかった。弾みで靴が飛ばされただけ。相手もプロなのだから当たり前だろうけど。でも、ほんの少し後ろへ後退ったのはラッキーだった。咄嗟に車のドアを閉めた私を見て、ルパンが叫んだ。

「次元!!行けっ!!」

「おうっ」

「ジゲン」と呼ばれた運転席の制服警官が、思いっきりアクセルを踏み込んで急発進した。しばらくしがみ付いていた窓の向こうの刑事が、何か叫びながら手を離す。手を離してさえしまえば、その姿はみるみる小さくなってゆくだけだった。さっきまで私の手を捻り上げていたとは思えない。遠くで慌てて他の車を探しているのを横目に見ながら、揺れにバランスを崩して再びシートに倒れ込んだ。ルパンだって信用できないけれど、さっきの男達よりましだ。

「怪しい男達が君と喫茶店に入っていく所を見たもんだから、車に乗ってた仲間らしき奴らにちょいと代わって貰って、君が出てくるの待ってたんだよ」

倒れ込んだ私を妙に優しい手つきで支えながら、ルパンが言った。

「お兄さんが死んでから2ヶ月も経つ間何もしてこなかった癖に、俺が君に近づいた途端、これだもんなぁ。絶対あいつら怪しいぜ」

「昨日会いに来たのは、警察をおびき寄せる為だったってことね」

少しむっとしながら支えられた手を振りほどいて、改めて隣のおちゃらけた男を見る。昨日は嘘みたいに真っ赤なジャケットを着ていたのに、今日は寸分の緩みもなく真面目に警察官の制服を着ているのが可笑しい。表情も違う。昨日は昨日で結婚詐欺師のような顔つきだったけど、さっきは悪魔かと思うような笑みを浮かべていた。それなのに今の顔にはどちらとも片鱗すらない。それとも、あれらは全て、普通でない状態の脳味噌が見せた錯覚だったのだろうか?

いずれにせよ、この男があのルパン三世だという根拠が、この数分で確実に増えたことは事実だった。

「…本当にルパン三世なの…?」

と改めて聞いてみる。逃げ腰だった自分を、初めてちゃんと正面に向かわせた。なぜだか、この男には人を引きずりこんでしまう魅力がある。本当に助けてくれたのかはわからない。でも、助けられた気分になっている自分がいた。それは、ルパンに関するゴシップ記事にたまに載っている、「あの人は私を助けてくれたんです」という内容によく似ている気がする。

あなたは本当に、世界を股にかける大泥棒の、ルパン三世なの?

「どうだと思う?」

ルパンが制帽を脱ぐと、現れた目が私を捉えていた。捉えて、離さない。いたずらっ子のように笑っている。

「どうって…」

「そんなにその男の正体が知りたけりゃ、手っ取り早い方法があるぜ」

会話を聞いていた運転手が、急にそう言って左手で無線機のつまみを弄った。その途端、車内にとんでもない爆音が響く。鼓膜が破れるかと思うほど煩かったので思わず叫び声を上げて、耳を塞いでしまった。誰かが何かを喋っているようだったけど、音が割れすぎて聞き取れない。

慌ててボリュームを最小まで下げてもらうと、やっとそれは人間の声らしいものになってきた。最小のボリュームでやっと聞ける声になるなんて、この声の主は何者だろう?

『…ッパーン!!ルパン!!聞こえてる事はわかってるんだ!!ルパン!!このまま逃げ切れると思うなよ!!』

おうおうとっつあん、はりきってら、と隣の男は呟くと、座席の間からヒョイと無線機を掴みあげる。

「もしも〜し。そんなに怒鳴らなくたって、聞こえてらぁな」

正反対にやる気のない返事を聞いて、私は一人愕然としてしまった。彼は間違いなく「ルパン」と呼ばれていた。それも警察に。本当に、本物のルパン三世なのだ。兄と、ルパン三世が知り合いで、それで警察が兄を泥棒扱いしているということは、つまりは、そういうこと…?

混乱を極める私の頭の中などつゆ知らず、ルパンは無線に向かって気の抜けた返答を続けてる。

「よ〜う、とっつあん!!久しぶりだなぁ。久々の日本なんだから、俺なんかに構ってないでもうちょっとのんびりしたらぁ?」

『出たなルパン!!てめえがさっさと捕まれば、俺は久々の日本をゆっくりのんびり満喫できるんだ!!お縄につけ!!今すぐつけ!!』

「さっさと捕まっちまったら、俺が日本を満喫できないでしょ〜が!!」

てめえが満喫したいのは日本のオンナだろ、といつの間にか咥えた煙草をふかしながら、運転手が笑ったのが聞こえた。

『せいぜい日本の刑務所を満喫することだな!!ようし、待ってろよ。今すぐ捕まえてやるからな!!』

言いたいことを言いきると、突如無線が途切れた。通信音もしない。さっきの爆音の名残が耳の奥に残っているだけ。チャンネル変えやがった、と運転席の男が本体を弄りながら舌打ちした。あれやこれや操作をしているのはいいけど、車はいつの間にか、荒川を渡って国道6号線を都心に向かっている。交通量が多いのだ。お願いだから前を見て運転して欲しい…。

「無線なんて要らないみたいだぜ〜」

放り投げる仕草をしながらも慎重に無線を手放して、後ろを向いたルパンがケタケタと笑いながらその先を指さした。つられて目を向けると途端に、道の向こうから大音量の警告音と赤色灯を放出しながら無数のパトカーが追ってくるのが見えた。一瞬、当事者であることを忘れて見入ってしまう。一般車両も一般人も前方を遮る全てのものを避けさせながら追いかけてくる様は正直圧巻だ。まるでハリウッド映画にしか見えなかった。

「…うそみたい」

と言って自分の声にはっとする。パトカーの中はどこかで見たことのある茶色いトレンチコートを着た男を先頭に、中には私を無理矢理車に乗せ込んだ鈴木と田中の姿もあった。信じられない。完全に引き離したと思ったのに。

「さぁすが、日本のパトカーは優秀だねぇ。しっかり車両追跡システムが機能してるらしいや」

「え!!…つ、捕まるの?」

そう言えば、これはあの二人が乗って来た警察車両なのだ。自分達の持ち物を警察が追跡できないはずはない。どこまで行っても向こうには行き先がバレてしまう。私は、気楽な顔をしたルパンの分まで不安を背負い込んだ気分になってしまった。さっき警察に掴まれた手と、冷たい言葉を思い出す。田中と鈴木のような人間があんなにたくさん追ってきていると思うだけでゾッとする。世の中には、誠意が警官に通用しない事もあるのだ。

「安心しなさいって」

妙に優しい声を出したルパンが再び私の肩に腕を回して引き寄せたけど、今度は振り払う気になれなかった。

「お〜れ様が、捕まる訳ないでしょうが?」

根拠のわからない自信と共に、相変わらずどこかのイタリア人のようなウインクを一つしてみせると、ルパンは運転手に向かって高らかに叫んだのだ。

「ようし、次元!!このまま6号突っ切って、東京駅まで行っちゃってちょうだい!!」

俺はお前の馬か運転手か、そうぼやいた運転手の口元が、反比例するように引き上がったのを私は見逃さなかった。

 

…信じられない。この人も、正体は運転手じゃないのか。


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