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一見すればそれは、森の中に突如現れた一枚岩のようにしか見えなかった。
森に入って30分ほど歩いた僕は、目的の「岩」もといアジトの前に立っていた。前に来たのは確か5年くらい前だったと思う。銭形のおじちゃんに追われて日本を出なくちゃいけなくなって、なのに父ちゃんが「ついでだからバカンスにしよう」とか言い出してここにやって来たんだ。確かに、ここは人が来ないしゆっくり休める。近くにあった湖ではいつも魚が採れたし、森の中は探検ができた。たまに遊びで作ったトラップに誰かが嵌ることがあっても、追手は誰一人として父ちゃんを見つけられなかった。
あの頃に比べれば、僕だってちょっとは大きくなったんだ。
ぐるりとアジトの周りを一周しながら、僕は入り口がどこかを考える。この建物はどうやって作ったのか、いつも入り口が変わる構造になっている。南から入ってきたと思えば東に出る。北から買い物に出たと思ったら西からしか入れない。以前ジェーンに仕組みを聞いたら、心底渋い顔をしてこう言った。
「お前はそんなもん知らなくていい。ったくルパンの野郎、またくだらねぇもん作りやがって」
それは、何度か入り口の罠に引っかかって額にたんこぶを作ってたジェーンの抗議のようにも聞こえたけれど、おかげで何回か命拾いをしたのも確かだ。森の中、一年中落ち葉の降り積もるこの場所で、びっしりと張り巡らせた蔦に苔。入り口のわからない家。これほど隠れ家に最適なところもない。
3周して、服にまとわりつく汗がとても邪魔くさくなってきたところで、僕は蔦の一箇所がぷつんと切れているのを発見した。よくよく近づいて見てみると、切れた場所に沿って細い割れ目が見える。風雨に晒されて自然に割れた後というにはあまりに直線的で、人工っぽかった。下に視線を移してみれば、何かで地面を踏み鳴らした後が窺える。間違いない。ここが入り口だ。人が来た形跡があることからしてみても、父ちゃんたちがここにいる可能性は限りなく高い。もしかしたら、あそこが危険だと知って、僕と同じように逃げてきたのかもしれない。だったらいいなと思う。
さらに視線を巡らせると、近くに人が腰掛けられるほどの岩が置いてある。躊躇なくそれに近づくと、僕は上半分を持ち上げた。思ったとおり岩の蓋は外れて、中にはこの場にもっとも不似合いなコンピュータが最新の機能を持って鎮座していた。
「めっけた…」
誰にともなくひとりごちて、小さなモニターの右側に備え付けてあったテンキーを叩き始める。汗が指先からも噴出して滑りそうだ。でもこのロックが解除されないと、自分とコンピュータはもちろん、家の中まで爆発すると言うのだからタチが悪い。一見解除されたように見えたって、「実は張りぼてでした」なんてことまであるんだから(ジェーンはコレに何度も引っかかっていたのだ)、父ちゃんのひねくれ方は尋常じゃないと思う。
解除の仕方は、一応まだ覚えている。それに沿って、現れた数式を端から何問か解いていく。ルパン家独特の暗号文字で表示された問題は、普通の人ではまず何を聞かれているのかすら判らない。フジコでさえ、事前に解き方を教わってから家を出ていたのだ。だからみんな面倒臭がって近寄らなくなっていき、最終的には草原にさっきのアジトを建てた、という経緯がある。
何回目かのエンターキーを押した後、入り口は何の前触れもなく低い重低音を響かせながら開き出した。コレだけじゃ中は張りぼてだって可能性もあったけれど、中に入ってみても額をぶつけることはなかった。どうやら正解だ。後ろで扉が閉まったことを確認して、僕は壁の中から常備してあるペンライトを取り出した。スイッチを入れると、懐かしい岩肌が僕を包み込んでいくのがはっきり見えた。
誰かに作らせたのか、それとも元々あったのを見つけ出しただけなのか、その岩の中は隠れ家として最高のものだった。半円形にくり貫かれた屋内に、床面だけ規則正しい階段が並んでいる。少しも歩きにくくないように研ぎ澄まされた直角は、階段としての機能を通り越してよもや芸術的とも言える域に達していた。寮にある大きな木製階段もとても魅力的なものだけれど、この大自然の中で不自然に佇む無機質も、僕は昔から大好きだったんだ。…まぁ、転んで角で頭を打ったら死ぬほど痛そうではあるけれど。
下りきったところにまた扉と液晶パネルが設置してあった。今度は、昔から変わらない暗証番号をただ入力しただけでロックが解除された。観音開きの大きな扉を開ければ、そこはもう家の中だ。
小さな玄関ホールを抜けて、まずはリビングに向かってみる。声は出さない。こっそりと歩く。こんな所に入れるのは父ちゃんたちしかいないとは思うけれど、絶対とは言い切れないのだ。このアジトだって使わなくなって長いから、その間にどこかの物好きの天才が見つけて暮らしていても不思議じゃない。
しかし中に入ってみても、人の気配らしいものは何一つなかった。注意深くドアを開けてみたものの、僕は拍子抜けしてやる気を失ってしまう。電気はついていた。空調も、静かな音を立てながら程よい温度に設定されている。クリーム色の壁に掛けられた父ちゃん自慢の絵画たちも何一つ欠けることなく健在で、僕に向かって誇らしげな笑みを向けてくる。テーブルの上には、ジェーンお気に入りのブランデーまで用意されていて、ついさっきまで本人がそこで飲んでいたかのように、半分液体の入ったグラスが置いてある。僕は、灰皿の中でぞんざいに扱われていた吸殻を拾い上げてみた。ぺルメルが6本。温度は、まるでない。念のために室内に置いてあるソファやイスの全てを触って座っていた感触がないか調べてみたけれど、あるのは父ちゃんたちの生活の「跡」だけだった。
取りあえず、ここに侵入者の類はなさそうだったので安心した。そうとなれば気配を殺す必要はない。僕は緊張を解いて荷物を降ろすと、二人掛けのソファへどっかと腰掛けた。さて、みんなはどこにいるのだろう?
ぐるりと部屋を見回して、ついでに脳味噌も回してみる。回してみて初めて、自分の喉が凄く乾いていることに気がついた。考えてみれば、ヴィクトリアでランチを取ってから何も食べたり飲んだりしていない。今は真夏で、さらに言えばあっちの家から全力疾走して来た。水分が欲しくならない方がどうかしている。詮索は一時中断。キッチンに向かって冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。一気に喉に流し込んで体に潤いを補給したあとで、何となくシンクに目を向けた。そこにあったのは四つのシャンパングラス。
「なんだ、仕事の成功祝いでもしたのかな?」
それとも前祝いか。どちらにしても、明け方まで飲んでまだ寝ている可能性がある。子供の僕がこんな目に遭っているって言うのに暢気な親だ。少しだけ腹が立って、飲み終わったペットボトルを乱暴にゴミ箱へ捨てた。そんな父ちゃんには、ちょっと驚かしてやらないと気がすまない。
確か、父ちゃんの寝室はリビングを出て2つ右の部屋にある。
意気揚々と、僕はリビングを出た。
「ようボーズ……久しぶりだなぁ……」
部屋に入った僕を見て、父ちゃんはそう言った。いつもと変わらない、「ニヒル」と人によく言われる笑みも顔に浮かんでいた。いつもの顔で、いつもの台詞を言う。ベッドの中で、点滴やら心電図やらに繋がれて、枕から頭を一つも動かせない、という状況を除けば。声がいつもの90%減でも、それは父ちゃんのいつもの挨拶だった。
思いもしなかったその部屋の景色に、僕はしばらく扉の傍を動けなかった。後ろで、支えを失った扉がパタンと閉じたのがわかった。衝撃的過ぎる。その微かな風圧でさえ、今の僕なら簡単に吹き飛ばせそうだった。
「…とう…ちゃん…?」
何とか、声を出してみる。さっきキッチンで水を飲んだばかりだったのに、喉の奥は変にカサカサしていて、粘膜同士がへばりついたようだ。僕は一歩も動けない。金縛りに遭ったように動けなかった。でも、昔仙ちゃんから聞いた金縛りの解き方が効かないことくらい、今の僕にはわかっている。そんなんじゃないんだ。
「せっかく来てくれたってのに、出迎えもできねぇですまなかったなぁ…」
父ちゃんは、真っ白なシーツの中から心底億劫そうに右手を出して、チョイチョイと僕を手招きした。
「…いや…別に…」
もっと他に言うべきことはあったはずだった。本当は、駆け寄って「大丈夫?」とか言ってあげるべきなのかもしれない。どう考えたって、今目の前にいる父ちゃんの状態は僕の擦り傷とは比べ物にならない。
どうしていいかわからずに、なんて言ったらいいかもわからずに、それでも何となく父ちゃんの枕元にゆっくり近づく。こんな時、僕は自分のたった十年の人生が本当に無力だと言うことを思い知らされるんだ。いくら脳味噌の出来が良くたって、経験というものだけはいっぱい生きていないと積めないものなんだって、ジェーンもずっと言っていた。
億劫そうに出てきた右手が、僕の頬に触れる。なんだか冷たい。死んだ人みたいに冷たい。もしかしたら、父ちゃんはこのまま死んでしまうのではないか。そんなことまで思えてきて、僕は無性に悲しくなってしまった。父親と会う機会が普通の人より極端に少ないことは、子供の僕にだってわかってる。親父の背中を見て子供は育つと言うけれど、僕はまだ、背中を見るほど父ちゃんとの時間を過ごしていないのに。
悲しくて悲しくて、喉の奥からこみ上げてきた涙がもう少しで零れ落ちてしまう、その時だった。
右手が頭の後ろに伸びてきたかと思ったら、突然天地が逆転した。
「なーんてなっ!!びっくりしたかボーズ!?」
「はっ!?」
上から父ちゃんの暢気な声が降ってきて、すぐに視界いっぱいにしてやったり顔が広がった。
だ、騙された。
「な、な、なんなんだよ!!」
ほんのちょっと前までの死にそうな父ちゃんとは全くの別人みたいだ。父ちゃんの顔で明かりが遮られているせいで、本人の顔色はよく見えない。でも、これは明らかに病人とか怪我人のする表情じゃない。本当に変装がうまい人間ってのは、自分の素顔だって変幻自在に操れるって、いつか父ちゃんは俺に向かって盛大に自慢していた気がするけれど、コレのことだったんだ。
「クッソー!!!」
シーツの上をもがいて、さらには父ちゃんの腕も何とかすり抜けると、ベッドから降りて再び僕は父ちゃんと向き合った。思いっきり睨んでやる。
「父ちゃん、酷い! 僕、本当に心配したんだからね!」
「わりぃわりぃ! 久しぶりに会うもんだから俺っちもドキドキしちまってよ。なんだったら驚かしてやろうかな〜、なんて思ったんだけっども」
「驚くどころじゃすまなかった!」
一発や二発叩いてやろうと、思いっきり拳を繰り出したら父ちゃんの手のひらに阻まれてしまった。二発目も三発目も、一個も僕には当てさせてくれなかった。
「あはは、だからわりぃって〜!」
父ちゃんの顔はまだ笑ってる。いつもと変わらない。点滴も心電図も、まるでダミーだったかのように線を外して放ってあった。
でも、いつもなら、僕のパンチくらい平気で受けてくれるんだ。
「父ちゃん!」
叩いていた拳を広げて、父ちゃんの両手首を掴んだ。びっくりした父ちゃんが、さっきまでとは違う睨み方している僕を見る。
「おいおい、そんな怖い顔しちゃってどうしたんだよ?」
睨むのを通り越して、また涙が溜まってきた。格好よく父ちゃんの「嘘」を暴きたかったのに、声を出す前に零れちゃいそうだ。
「おい、ボ…」
「ルパン!」
突然後ろの扉が乱暴に開いて、父ちゃんの言葉は遮られた。僕はびっくりして振り向く。驚いたのは父ちゃんも同じだったようで、咄嗟に僕を抱き寄せた。
「なんだ、五ェ門かよ…びっくりさせるなよ」
一瞬だけ、センちゃんも僕達を見て驚いた顔をした。でもその顔はすぐに消えて、室内にズカズカ入り込むとベッドごと父ちゃんを動かそうとする。
「お主こそ、目が覚めたなら覚めたと言え」
「わりぃわりぃ」
「おい、ボーズ。そっちの端を持ってベッドを動かせ」
「え? なんで?」
話が見えない。僕はきょとんとしてセンちゃんに聞いた。
「説明は後だ。とにかくここから逃げるぞ」
「敵か?」
「うむ」
流石にすぐに状況を飲み込んだ父ちゃんだったけれど、それでもベッドから降りようとしなかった。やっぱりどっかおかしいんだ。僕はセンちゃんの指示に従ってベッドを押すと、部屋にあった隠し扉のロックを解除した。父ちゃんは、急に僕の知らない難しい顔になると、何かを考えている素振りを見せる。
「次元は?」
「今、他の部屋で足止めをしている」
「不二子は?」
「あの薄情女、昨夜の内にここを出おった」
向かいで眉間に皺を寄せて、センちゃんが言葉を吐き出す。それからチラリと僕を見遣って、ばつが悪そうな顔をした。僕はフジコがとんでもない悪魔だってことは知っているけれど、センちゃんはきっと母親の悪口を子供の前で言いたくなかったんだ。気持ちはわからないでもないけれど、フジコは確かに悪魔だからしょうがない。
「センちゃん、敵はどうやってここに入ってきたの? あのシステム、破られたの?」
「破られたと言うよりも…根こそぎ壊されていたのだ。如何様にして制御盤の場所を知ったのかは知らぬが…」
僕はその言葉で初めてはっとした。徐々に全身から血の気が引いていくのがわかる。ここに入ってくる時、制御盤の蓋を戻してきた覚えがないからだ。開いたと思って、さっさと中に入ってしまったような気がする。というか、入ってしまった。迂闊だった。まさか、そんな基本のミスをするなんて。自分が狙われて焦っていたとはいえ、ありえないミスだ。間違いなく、僕のせいで今度はこのアジトが狙われている。
「お前のせいじゃないぞ、ボーズ」
まるで僕の頭の中を読んだかのようなタイミングで、間髪入れず父ちゃんが言った。
「お前がヘマをしなくても、いつかはきっとこういう状況になってたはずだ。俺達はここのシステムに頼りすぎてた」
「うむ」
頷きながら、センちゃんが扉をロックしにかかる。短い機械音のあと、分厚い金庫のような扉がゆっくりと閉まっていく。
でも。
遠くでマシンガンの音が聞こえ始めた。どこかで、ジェーンと敵が戦っている。
僕は父ちゃんを見た。全然平気な顔をしているけれど、ベッドから降りない。絶対に僕に触れさせようとしない。そんな異常な状態について、僕よりもずっと長い間父ちゃんと一緒にいたはずのセンちゃんですら何も言わない。
普段なら、逃げようなんて思わないで一緒に戦っていたはずなのに。
確かに面倒臭いシステムだったから、それなりに頼れもしていたはずだ。頼りにしすぎていつかシステムが破られてしまうこともあったかもしれない。
「でも、それは『今』じゃなかったはずだよ」
自然と口から吐いた言葉に、父ちゃんの視線が刺さった気がした。期待していた台詞じゃなかったんだろう。けれど、このままじゃいけないんだ。僕はもう一回扉の方を見た。閉じるまであと五十センチ少々。今ならまだいける。
「…おい! よせボーズ!」
父ちゃんが何をしようとしているのか気付いて、僕の腕を掴もうとした。でも、もう遅い。ベッドの上からじゃ、とてもじゃないけど捕まえるのは無理な話だ。
「ボーズ! 戻って来い!」
センちゃんがそう叫ぶ頃には、もう元いた部屋に戻っていた。二人が口々に呼ぶ声が、扉が閉まる音にかき消される。もう、父ちゃんの元には行けないし、二人は連れ戻しに来られない。
僕は一直線に、ジェーンがいるはずの部屋に向かって走り出した。