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「ルパンは?」
 部屋から出てきたドクターを見つけるなり、次元は弾かれたようにソファから立ち上がった。向かいで瞑想らしきものをしていた五ェ門も、流石に目を開けた。組んだ両手を額に乗せて俯いていた不二子に至っては、真っ赤に腫らした瞳を隠そうともせずにドクターを睨み付けている。三人の今後の人生は、一人のドクターがこれから発する一言に委ねられていた。
「……とりあえずの危機は脱しました」
 次元が大きく息を吸い込んで、不二子が大きく息を吐いた。部屋全体に一気に安堵感が充満する。
「しかし、油断はなりませんぞ。ずっと安静にしていれば2、3ヶ月で元の生活に戻れるでしょうが…。あなた達はそれをしないでしょう?」
 怖い顔で三人を睨み付けるドクターの表情が、逆に彼らへ余裕を与えることが出来た。一番近くにいた次元は破顔してドクターの肩を数度叩くと、先ほど相棒の名を呼んだときとはまるで対照的な声を出した。
「ハッ! 相変わらずじいさんには敵わねぇな」
 祝い酒だとキッチンからシャンペンを持ち出してくると、グラスを各々に配り歩く。わざわざ自分が道化役に徹して、こんなに陽気に振舞えるようになったのはいつの頃からだったか。元々こういう役回りはあいつの専売特許だったんだがな、と次元は自ら乾杯の音頭を取りながら苦笑した。
「安心してくれ。こちとて自分の年を誤魔化すには少々老けすぎちまってな。しばらくは大人しく療養させるさ」
「わたしももう年です。そうしてくれるとありがたい」
「かたじけない。今回がそなたの居られるイギリスで本当に助かった」
 五ェ門が律儀にお辞儀をし、ドクターがイヤイヤと頭を掻く。日本式の感謝には何年かかっても慣れないらしい。
「今回は運良く心臓の1cm脇を貫通していました。しかし、これは奇跡です。いくらルパン三世だからといってそんな奇跡が何度も続くと思わないでくださいよ」
「えぇ、わかっているわ」
 グラスの中身をクルクルと回しながら不二子が微笑んだ。もう、その瞳に濡れるものはない。彼女の立ち直りは、年を重ねるごとに早くなっているんじゃないかと次元は思っている。
「でも、今回の仕事は楽だって言ってなかった? なんであんなドジを踏むことになったのかしらね?」
 その言葉には、当時ずっと隣でルパンの援護をしていた次元も答えようがなかった。わからなかったのだ。あんな場所で、あんな場面で、ルパンがあんなドジを踏むことはいまだかつてなかった。年のせいか、と自分を納得させようにも、楽だからと五ェ門を呼び寄せることもしなかった仕事を失敗するにはまだ早いはずだ。しかし実際、ロンドンからゆうに三時間を越える場所にあるこのアジトに、事故も起こさず辿りつけたのはまさに奇跡としか言いようがなかった。
「理由があるとすれば…」
 その時を思い出した次元は、口を開きかけて不二子と目が合い、迷った末に結局話すのをやめた。理由があるとすれば一つしか考えられないが、それを天下のルパン三世に当てはめていいものか、そしてそれを不二子に聞かせてしまっていいのかどうか。それがわからない。
「何よ、また男同士の隠し事って訳? 気持ち悪い」
 美しい眉を密かに寄せ、心配して損した、とだけ言って不二子はグラスを置いた。
「何でもいいけど、ルパンが目を覚ましたら一応連絡頂戴ね」
 放り出してあったカバンと日傘を手に取ると、優雅にアジトを出て行ってしまった。ルパンが生きるとわかったからにはここにはもう用がないらしい。きっと、ドーヴァー辺りで高級ホテルにでも泊まるのだろう。いい気なものだ。しかし、こうやって必要以上物事に首を突っ込まないところが、次元も唯一認める彼女のいいところだ。
「それでは、わたしもそろそろ帰ります」
「駅までお送り致そう」
 ドクターと五ェ門がリビングを出て行くと、そこには次元一人が取り残された。どっかと二人掛けのソファに倒れこむと、数分でめまぐるしい変化を遂げたこの部屋を改めて見回してみる。生きた心地がしなかったのは次元も同じで、一気に疲れが押し寄せてきた。今ここでルパンに死なれては、本当に困るところだったのだ。自分たちだけではない。あの子もまた、人生を見失っていたかもしれない。そう思うとぞっとした。懐かれている自信はある。けれども、絶対的なヒーローはいつだって自分ではなく父親なのだ。だから余計に、こんなに弱っているルパンを今見せるわけにはいかなかった。
「……頼むぜ、ルパン」
 帽子を脱いで瞼を閉じれば、今でも数時間前のことが鮮明に思い出される。思い出すたびに嫌な汗を掻いて、今夜は寝られそうにない。せめてルパンが生きていてくれて、本当に良かった。
 
 仕事は、本当になんでもないもののはずだった。オックスフォードにある小さな古城に眠っている、とあるお宝の鍵を盗み出す。たったそれだけだった。古城は随分前に持ち主に死なれて荒れ放題だったし、一応観光地に指定されているものの訪れる客は数えるほどで、セキュリティーらしきものはルパンからしてみればおもちゃのようなものだった。銭形に予告状は出さなかったし(出すほどのものでもなかった)、不二子が状況を撹乱させることも、変な同業者がライバル意識を剥き出しにして同じものを狙ってくることもなかった。「ほんの小手調べ」になるはずだったのだ。
 でも確かに、ルパンは当初から「オックスフォード」という単語一つに難色を示していた。お宝本体はルパンの興味を大変に引く、歴史的価値も金銭的価値も十分に備わったものだったにも拘らず、その「鍵」一つがかの地に隠されていると知るなり仕事を放棄しようとすらした。
「なんだってんだよ、ルパン! 準備はもう全部整っちまってんだぞ! 後はお前がこっちに来るだけだ! これだけ人に下準備させといて『やっぱやめた』が通用すると思うなよ!」
『だぁーって! まさか鍵があんな所にあるとは誰も思わねえだろっがよ! 頼むからよぉ。次元一人で何とかしてくれ!』
 電話口で騒ぐルパンの声は、いつもと一つも変わらなかった。だから次元は何も気にせずルパンの気まぐれをなじり続けた。それが結局、あんなに危ない目にあわせる羽目になってしまうとは全く気付かずに。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! どうせまたどっかの女にでも入れ込んでんだろう!? てめえの獲物くらいてめえで何とかしやがれ!」
 勢いで切った携帯電話は、壁に叩きつけられて大破してしまった。おかげで何日か音信不通になり、本当に縁を切られたとでも思ったのか、結局ルパンの方が先に折れてアジトにやってきた。
 本当は、その頃にはルパンがここで仕事をしたくない理由が何となくわかっていたのだ。どんな小さな仕事だろうが、息子の住む地では何かが起きたときにただでは済まないだろう。しかし、だからといってそんなことで「ルパン三世」が仕事に支障をきたすなど、次元には思ってもみないことだった。
「次元、腹減った。なんか食いに行こうぜ」
 案の定、現れたルパンはいつもと何も変わらないそぶりで、次元に対して開口一番そう言った。最初はいちいち小言を返していたものの、パブで食事を済ませで満腹になるとどうでもよくなってしまった。さすが学術の街は知的なベッピンさんが多いねぇ、などとルパンが上機嫌で道行く女たちを物色し始める頃には、次元も奴が仕事を渋っていたことなどすっかり忘れていた。
 借りていた安アパートで最後の詰めの作業に入り、一、二度ルパンと共に下見へ行くと、一週間後には決行の日がやってきた。特に特別な準備は要らない。その頃には携帯電話も復活していた。ルパンはいつもの赤いジャケットを着ていたし、次元も得物はマグナム一丁だけだった。
 それが油断に繋がったと思うと、否と言い切れない自分が悔しい。
 結局次元は、あれだけ長く相棒を自負していたにも拘らず、ルパンの気持ちを汲み間違えたのだ。原因として考えられるのはそれしかなかった。最初に渋った時、ルパンではなく五ェ門を連れて来ればよかったのだ。それくらいの配慮がなされてもよかった。
 決行の深夜。逃走前に地元の警察に見つかった。それは派手好きなルパンのことだからワザと見つかったと考えてもいいだろう。もしかしたら事前に予告でもしていたのかもしれない。銭形とまでは行かないが、少しくらいのスリルが欲しかったのだ。とにかく、普段なら(少なくとも次元が下調べをしていた期間には)いるはずのないところで警察が張っていた。
 逃げている最中も、ルパンの様子はいつもと変わらなかった。公道を小さな大衆車で所狭しと動き回りながら、顔面にはいつもの人をおちょくったような笑みを絶やさなかった。たまに気まぐれで人にパトカーのタイヤを潰させ、警察の怒りの火に油を注ぎ、自分の車のサイドミラーを大破させたりなんかしていた。
 ところが、変化は一瞬だった。
 ずっとぶれることのなかったルパンの意識が、一瞬だけ脇に逸れた。ハンドルを任せて後ろからの銃撃を撃退していた次元の照準が、ルパンの息と合わずに僅かにぶれた。結果、当たる事がないと思って放っておいた警官側の狙撃に、ルパン自ら当たりに行くこととなってしまった。助手席から次元が慌ててハンドルを切り返したときにはもう何もかもが遅く、車体は古びた商店の店先に思いっきり突っ込むはめになった。
「ルパン! 大丈夫か!?」
 開いたエアバックに窒息しそうになりながら、次元は白い塊を掻き分けて運転席の男に呼びかけた。いつもなら、すぐにおちゃらけた返事が返ってくる。大喧嘩の一つや二つ軽く交わしているところだ。嫌な予感がしたのはこんな時に限って何の反応もなかったから。それどころか、隣りから生き物が微動だにする気配がなかった。自分を置いてさっさと逃げ出したのならいい。むしろ、そうであって欲しい。頼むから、後で浴びせる盛大な罵声にヘラヘラと笑って答えてくれ。
「おいルパン!」
 やっと安全装置を全て退かし終えたころには、追いついた警察が周囲を包囲していた。ただでさえこの中から脱出するのは困難なところ、一人勝手に逃げ出していたわけではないルパンの様子を見て次元は愕然とした。
「ルパン!」
 耳元で大きく名前を呼ばれた本人は、よろよろと右手を挙げて答えようとし、失敗した。シフトレバーからずり落ちた手の後には醜くどす黒い血の跡が闇の中でもわかるほどくっきりと刻みつけられていた。シートに凭れかかったルパンの顔がゆるりとこちらを見て、それでも笑おうとしたのか片側が無様に歪んだ。
「……ワリ……くじっ…た……」
 それきり、普段は無駄にせわしない相棒の動きが停止した。赤いジャケットが変色していた。出血は胸部から。次元には、エアバックに押しつぶされるがままになっていたその破裂した心臓が、間もなく動きを止めようとしているようしか思えなかった。
「クソッ!」
 幸い、突っ込んだ商店には店の脇に配達用のワゴン車が停めてあった。店を囲んだ警察から見えないようにルパンを抱えて乗り換えると、躊躇することなくアクセルを思いっきり踏み込んだ。突然の暴挙に警察が驚いて道を開け、それと同時に四方から発砲を開始した。すぐにパトカーが追いかけてくる。しかし次元は自分の愛銃で反撃することすら忘れていた。後部座席に縛り付けたルパンにあまり響かないよう、それだけを注意して、このアジトまでの道をがむしゃらに走り続けた。
 
 あと数分処置が遅かったらルパンの命は確実に助からなかった、とは先ほど帰ったドクターの話だった。事実、アジトへ戻った時には相棒の顔は死人のように蒼白だった。本当に死んでしまったかと思ったほどだ。連絡を取った不二子と五ェ門が普段のマイペースさをかなぐり捨ててやってきたところを見るに、電話口での自分も相当参っていたのだろう。少し前までは、こんなことがあってもそれほど慌てたりしなかったはずだ。少なくとも、動転して全員を呼びつけることまではしなかった。なにせ、お互いにいつ死んだって構わない者同士だと思っていたのだから。
「一体いつまで俺達は、こんなにギリギリの中で命のやり取りをしていなきゃなんねぇんだろうな…」
 言ってしまってから、次元は自分の台詞に嗤ってしまった。
 そんな台詞が口を吐いて出るほどには、『死』というものが怖くなってしまっている。誰のせいかは明白だった。
「俺も人の子…か……ク…ククク」
 自然と漏れる笑い声が止まらなくなっていた。極限状態から突然開放されると、人は自分の意思とは無関係に体の一部が動き出すことがある。まさにそれだ。若い頃は何度も経験したが、こんなことは久しぶりだった。
 しばらく体の趣くままに放っておいてみたが、声帯の震えは止みそうになかった。仕方がないのでソファから起き上がると、次元は出来る限り声を押し殺して部屋を出た。
 確か、キッチンの戸棚にブランデーがしまってあったはずだ。







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