未来はこの手に
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「じゃあな、チャーリー! 遊びすぎて新学期忘れるなんてことないようにな!」
「マックス! お前こそ忘れんなよ!」
「さようなら、チャールズ・アンダーソン。車にひかれないよう気をつけて帰るのですよ」
「はい、グースさん。また休み明けからよろしくお願いします」
「ハイ、チャーリー! これから帰るの? 素敵な夏休みを!」
「ありがと、アリスもね!」
すれ違う人すれ違う人に声をかけられ、僕は笑顔で言葉を返しながら寮の木製階段を駆け下りる。まるでシンデレラが舞踏会に使うような大きな階段は、子供の足では一段が素晴らしく大股になってしまうため、一段一段両足をついて降りなければならなかった。大昔はそれなりに一流ホテルとして使われていたのだと、初日に寮母のグースさんが教えてくれた。吹き抜けになっているロビーも、食堂に置いてある立派なグランドピアノも、そう言われれば納得がいく。いつか、引退済みではない本物のホテルに宿泊することを夢に見ながら、僕はここで一年を過ごしていたのだ。なかなか向上心をそそられる素敵な寮だ。
「やぁチャーリー、ご機嫌な朝のようだね」
庭師のロジャーが、庭の手入れを終えて帰ってきたようだった。すれ違いざまに似合いのハンチングをひょいと上げた。蓄えた髭がまるでサンタクロースのようだと、初めて会った時に思った覚えがある。そしてロジャー本人もまた、陽気で朗らかな人物だった為(おまけに「ホッホッホ」という笑い方までそっくりだ)、僕はいまだに実は彼はサンタクロースの世を忍ぶ仮の姿なのではないかと疑っているのだ。
「ハイ、ロジャー!
最高な朝だよ!
行ってきます!」
大きく手を振ると、ロジャーは皺くちゃの大きな手を振り返してくれた。
広い玄関ホールを抜けて、クソ重い重厚なドアを開けると、そこにはもう夏が広がっていた。肩にかけたスポーツバックを背負い直して、しばらくの間開きっぱなしだった勉強脳を完全に閉じた。一歩足を踏み出した途端、そこには新しい世界が広がっている。
空は、この夏最高気温を更新しそうだとニュースキャスターがうんざり言うほど晴れていた。それでも、朝特有の清々しい空気は誰にも奪えない。今日から夏休みだと思うだけで僕の気分は最高に明るかった。
「じゃーねー、みんな!」
振り返ってそう叫ぶと、寮の窓から顔を出した仲間達が笑顔で見送ってくれた。一回りも年の離れた同級生や先輩の間では、僕はアイドルなのだ。
オックスフォードにある、世界的な名門大学の経済産業学部。そこに通う若干10歳の天才少年、チャールズ・アンダーソン。という肩書きは気に入っている。父ちゃん―世界的な大泥棒であるルパン三世だ―が僕のために用意した経歴は、何の変哲もないサラリーマンの息子というものだったけれど、僕はそこからいろいろな「資格」を実力で付け足した。各種検定は勿論、あと持っていないのは年齢と身長が受験資格に達していない運転免許くらいだと思う。そんな僕に感動してか、国は特別奨学金を付与してくれた。新聞や雑誌も世界中から取材にきた。父ちゃんほどではないけれど、僕はいつしかそれなりの有名人になっていた。…この世に存在しないはずの人間として、というのが少々癪ではあったけれど。悪い気はしない。
去年の秋からこの大学に入学して、もうすぐ一年がたとうとしている。学業は上々、毎日いろんな知識を頭の中に詰め込んでいくのはとっても楽しい作業だった。スポーツはさすがに周りのみんなと張り合うことは出来なかったけど、チェスの大会ではいつも僕が一番だった。イベントが開催されればいつも僕が主役だった。だから、季節の移り変わりなんか気にしたこともなかった。みんなが帰省するクリスマスとお正月も、グースさんとロジャーがたくさんのご馳走と笑顔でお祝いしてくれた。気がつけば、もう一年も父ちゃんたちに会っていないことだって、すっかり忘れていたんだ。だから、今回試験のあとに父ちゃんから「たまには帰ってこい」って泣き顔付きの手紙が来た時は、時の流れの早さに心から驚いた。
「寮に入れって言ったのは父ちゃんなのに…」
構ってって言えば、忙しい忙しいって答えるくせに、構わないと寂しい寂しいって答える。大人っていうのは本当に不思議だ。
学校近くのバス停からバスに揺られて一時間半、窓を過ぎる風景に気を取られている間にロンドンのヴィクトリア駅に辿り着いた。イギリス最大のターミナルステーションは、いつ来ても多くの人で賑わっている。よく見かけるのが日本人の観光客で、黒い髪とオドオドした様子の彼らは一様に周りの景色から浮きまくっていた。ちょっと前まで、僕は彼らと一緒に毎日を生活していたのだ。父ちゃんに調合してもらった薬で、茶色い髪とグレーの瞳を手に入れた今となっては信じられない話だけど。でも、なんだか懐かしい風景だ。急に、早くジェーンやせんちゃんに会いたくなってしまった。
近場のパブでランチをとって、僕はしばらく駅の周りをブラブラしながら列車の時間までを潰した。本屋にCDショップ、フジコが好きそうなブランド店にはさすがに近寄れなかったけれど、最後に寄ったおもちゃ屋さんには、子供である僕しか違和感なく入れない。おもちゃが大好きな父ちゃんへのお土産を選びながら、僕はみんなの顔を思い出していた。
「ちょっと! 誰か捕まえて!」
お金を払って外に出た瞬間、通りの向こうから若い女の人の叫び声が聞こえた。何が起きたのかと思って振り向いたとたん、僕は強い衝撃と一緒に地面へ投げ出された。せっかく親切な店員さんに綺麗な包装をしてもらったのに、淡いブルーの包みはアスファルトを滑って破けてしまった。
「バカヤロー!
よそ見してんじゃねぇよ!」
ぶつかってきた男の人は、到底自分のものとは思えないハンドバックを小脇に抱えて、少しよろめきながらもすぐに走り去ってしまった。
「なんだよ! バカって言う方がバカだって、日本のことわざ知らねーのかよ!」
腹が立った僕は日本語でそう叫びながら立ち上がった。この日の為に卸したてのシャツを着てきたのに、埃がついて汚れてしまった。半ズボンから覗く膝小僧はちょっと擦り剥けている。大人だったら、こんなこときっと屁でもないんだろうけれど。こんな時に、追いかけてハンドバックを取り返して仕返しが出来ないのがすごく悔しい。
「あらあらボウヤ。大丈夫かい?」
近くを歩いていた親切なおばあさんが荷物を拾ってくれた。包みが破けていると知ると、お店の人に事情を話してもう一度包みなおしてもらうことが出来た。こういうのを、捨てる神あれば拾う神あり、と言うのだろうか。おばあさんの優しさに心から感謝をして、僕はもう一度お店を出た。
「気をつけてね」
「ありがとう!」
笑顔で見送ってくれた(おまけに膝に絆創膏まで貼ってくれた)おばあさんにお礼を言うと、ちょうど列車の時間になったのでヴィクトリア駅に向かう。今度は、道行く人たちの様子はいつもとなんら変わりがなかった。さっきまでの異様な喧騒はあっという間にどこか遠くへ押しやられ、賑やかな町並みに戻っていた。都会というのは、小さな事件くらいあっという間に飲み込んでしまうところがある。そういえば、こないだも車が店の軒先に突っ込んだと新聞の三面記事で読んだけど、今見渡してみたってそんなことを気にして道を歩いている人は全くいない。
すぐそこにある危険に鈍感になった人間は少し悲しいと、僕は思う。
ヴィクトリアから列車で約二時間。海峡の街ドーヴァーでまたバスに乗り換えて、片田舎の小さな街へとたどり着いた。ここまで来ると、すれ違う人はほとんどいない。アスファルトの道すらない。午後の日差しが、舗装されていない道と牧草地に燦燦と降り注いでいるだけだった。都会では目立つから被らなかった麦藁帽子をスポーツバックから取り出すと、僕はジェーンの真似をして目深に被る。こうすると世界が少しだけ濃くなる。少しだけ大人の目線で見れるような気がするんだ。
そこからまた少し森の方へ歩いていくと、やがて煙突屋根の小さな家が見えてくる。褐色の煉瓦造りに白い木製の柵。ガーデニングの施された大きな庭。色とりどりに咲く季節の花。涼しげな風が吹く大きな木の下、僕のために父ちゃんとジェーンが一生懸命取り付けてくれた手作りのブランコ。最後に来たときと一つも変わっていなかった。日本にあったらメルヘンチック過ぎるその造りも、イギリスの片田舎だとそれとなくなじんでしまうから不思議だといつも思う。そして、そのメルヘンチックなおとぎの家が、今回ルパン三世一味がアジトとして使っているはずの家だった。
僕の足は、家に近づくにつれて早足になる。ジェーンに会いたい。せんちゃんに会いたい。フジコに会いたい。何より、僕の世界一自慢な父ちゃんに会いたい。最後はもう全速力で走るようにして、僕は家の門を勢いよく開けた。
変だと思ったのは、庭の小道を抜けて玄関の扉を開ける一瞬前だった。いつもなら、僕が開けなくても中から勝手に父ちゃんが飛び出して僕を抱きしめに襲ってくる。ところが今日は、全くそんな気配が感じられない。というより、家の中からすら人の気配が全くしなかった。
どうしたんだろう?
ドアノブを握るか否か、僕は右手を中途半端に上げたまま固まってしまった。こんなことは、今までに一度だってなかったのだ。ただでさえ不安定な仕事をしている父ちゃんは、滅多なことでは僕を不安にさせたりなんかしないのだ。突然自分がどっかに行くことになったって、僕の隣にはいつもジェーンかフジコかせんちゃんが残ってくれていた。
なのに、今、この家の中にはきっと誰もいない。
ふと、周りの空気が一度下がったような錯覚を覚えて僕は我に返った。
『コレは、罠だ』
気付いた瞬間、急いでドアノブから離れてそのまま外へ全力疾走した。ここにいたら嵌められる。何者かわからない、けれども大きなものに僕は潰されてしまう。それはまだダメだ!
柵を開ける暇がなくて、飛び越えたらシャツに引っかかって破れてしまった。弾みでつんのめって頭から大きく地面に突っ込む。大きくて重いスポーツバックのせいで全く受身を取ることができなくなって顔面からぶつかったその時。
爆音と爆風が頭上をものすごい勢いで通り抜けていって、僕は息が出来なくなってしまった。辺りに物が飛んでくる音が続き、頭の上に何かが降って来る。慌ててバックを防災頭巾の代わりに乗っけた直後、重いものが飛んできた。このまま僕は死んでしまうのかもしれない、なんて思って怖くなったら今度は動けなくなってしまう。もっと、もっと遠くへ逃げなくてはならないのに、足がすくんで動けない。
「…助けて…」
思わず呟いてみても、人は誰もやってこなかった。ゴウゴウと、そう遠くはない場所で火の燃える音がするだけだった。もしも中にいたら、声がするはずだ。逃げ遅れるはずのないみんななら、僕を絶対に助けに来てくれる。でも、父ちゃんもジェーンも誰も来ない。ここにはいなかった。待っているというあの手紙は、嘘だったのだ。
ということは、誰かが、僕の存在に気付いている。
その考えに行き当たった時、僕は夏に火の傍にいるにも関わらず、背筋が凍るのを実感した。誰かが、僕という人間の存在に気付いていて、僕を殺そうとしている。それ即ち、父ちゃんか「ルパン」の敵だ。
僕のせいで父ちゃんの手を煩わせるわけにはいかない。そう思ったら、右足が自然に動いた。続いて左足。それから右手と左手。少し先に飛ばされていた麦藁帽子を拾い上げると、広い野原を見渡してみる。家が燃えている以外は、特に何もおかしなところはない。人が近くにいる気配もない。青い空と、青い野原と、鬱蒼とした森が平和に広がっているだけだった。
取りあえず、状況を整理しないと。
歩き出そうと右足に力を入れたら、膝に激痛が走った。見れば、おばあさんに貼ってもらった絆創膏はとっくに剥がれ落ち、磨り傷は可愛らしいものから本格的なものへと昇格していた。ずり剥けた皮膚が脛にへばりついて、奥から溢れ出す赤い血が止まらない。
「クソッ!! なんなんだよ!!」
誰にともなく悪態を吐いて、僕はバックの中からハンカチを取り出して取りあえず縛り付けた。空気に触れるだけで痛かったので、少しの慰めくらいにはなるだろう。それから、少し右足を庇いながら今度こそ歩き出す。
確か、森の中にもう一つアジトがあったはずだ。