「…まずいな…。ここに通じてたのか」
細くて曲がりくねった道を走り続けるとやがて、見失ったのか銭形は追ってこなくなった。どうやら、一般人と思われた男はそれなりに高性能なナビ機能も備えていたようだ。しばらくすると、徐々に見覚えのある町並みが広がってくる。
薄汚れたコンクリートの今にも崩れそうな古いビルに、何をぶちまけたんだかわかりゃしない道路の汚れ。どこから漂って来るのか、常に異臭が鼻を突く。錆付いたガードレールはありえない方向にひん曲がっている。
そして極めつけは、そこらを歩いている、とてもじゃないがまともとは思えない人間共だ。
一本道を入っただけで、この国でもまだこんな世界が広がっている。
「なんだ?治安の悪い場所は嫌いか?」
そんな風には見えないけどな、そう言いながら前を歩いていた男が振り返った。
「いや…そうじゃないんだけっどな…」
言いながら、向かいの閉まった店のシャッターへ目を遣り思わず一瞬立ち止まる。落書きがあった。もう剥げ掛けて、他人には何が書いてあったんだかわかりゃしないだろうが俺にはわかる。
『Un idiot』
この場所で昔、悪さをやらかしたことがあった。100%、己の自己顕示欲を満たすためだけの悪さを。人は往々にして、若い頃の過ちを思い出すとやたらと胸糞が悪くなるものだが、その感情は俺にだってある。何を考えていたんだかわかりゃしない。二度と戻りたくない過去だ。
「もうすぐこの道は抜けるから、ちょっとの辛抱だ」
俺が気分でも悪くしたと思ったのか、男のスピードが少しだけ緩まった。もしかしたら、連れてきてしまった自分に軽く反省すらしているかもしれない。さっき喫茶店で女を軽くいなしていた男と同一人物だとはとても思えない行動だ。あの強引な誘導といい、ったく、一般人に心配されるようになっちゃ俺様もお終いだ。
「お前、女にもてんだろ?」
気を取り直して男の隣に並びながら、俺はその自分より少し低い位置にある肩を組んだ。
「は?」
この状況で何を突拍子もないことを、と男の目が丸くなる(もしかしたら別方面の心配をしていたのかもしれないが…)。その表情が可笑しくて、俺は幾分機嫌を取り戻した。人間の驚いた顔は大好物なのだ。俺の存在意義と言ってもいいくらいだ。
「要所要所でさりげない優しさと鉄壁の冷たさを使い分ける男ってのは、女にモテるって相場が決まってんだよ。大方アレだろ。さっきの女も、調子に乗ってお前の逆鱗に触れる何かをやらかしたんだろっがよ?」
「…な」
「そ〜んな風に感情を旨く使い分けられるってのは、長男だ。下には…そうだな、年の離れた妹が一人か二人…いんや、一人だな。最近会話がなくて寂しいって顔してるぜ」
「なんなんだよ!!お前は!!」
図星だ。叫んだ男の顔は真っ赤になっていた。必死に俺の手を振り払おうとするが、俺の方はそうもいかない。『ちょっとの辛抱』も待てなかった物騒な人間達が、徐々に俺達を取り囲み始めていた。さらにからかってやりたいのをどうにか堪えて、俺はやるべき事を開始する。
「いいか?合図したらあそこの物陰に飛び込め。俺が気を引くから、その間に表通りに出るんだ」
耳元でそう呟くと、腕の中の男が大人しくなった。険しい表情になったのは状況を少しは理解したからだろう。
「…何が起きてる?」
辺りを見回すように目だけを動かして男が言う。だが、敵も腐ってはいそうだがプロだ。こんな素人に姿を見せるようなヘマはしないはずだ。
「お巡りさんよりちょーっとばかし恐いお兄さん達が、俺っちを捕まえにきたのよ」
行け!!そう言って男の背中を突き飛ばした瞬間、それまで俺達のいたアスファルトの上に小さな穴が開いた。
「チッ。気の早えぇ男ってのは嫌われるぜっ!!」
弾道を読みながら、敵のいそうな場所にワルサーを数発撃ち込んだ。返される弾を避けながら止まっているベンツの影に逃げ込む。向こうが倒れた気配はない。だが十分俺は囮になったようで、あの男の後を追うことなく物陰に息を潜め続けていた。
「せっかくいい気分で恩返ししようと思ってたのによ」
もう戻ってくることはあるまい。久しぶりに気に入った人間を見つけたと思ったのに、邪魔しやがって。
タンタンタンッ、と軽い音と衝撃が暫く続く。最後の弾がサイドウィンドウを一枚貫通したのか、音と共に反対側のドアにまで振動がきた。あぁ、持ち主はさぞかしびっくりするんだろう。まさかこの平和大国日本で自分の車が穴だらけになるとは思わない。ベンツE300。ピッカピカのインジウムグレーも、反対側は凄まじい事になっているはずだ。
これ以上ベンツを犠牲にするのも良心が痛む為(あくまで良心の問題だ)、俺は頃合を見計らって道路の上に躍り出た。銃声を聞いたのか、路上に人間の姿はない。ということは、ここに感じる全ての気配は敵だということか。背中を預ける相棒がいないのがちっとばかし寂しかったが、たまには一人もいいだろう。
改めてワルサーを構えると、撃鉄を起こす音が四方で聞こえた。敵は5人。俺を相手にするには少なすぎる。
最初の一発を放つ音と同時にその方向へ一発。呻き声と銃を落とす音が聞こえた(俺の半分は優しさでできている)。直後、背後から獣の唸り声と共に体当たりを図った男が一人。長い足でもって思い切り後ろへ蹴飛ばす。右側に建つ小さなビルの屋上からライフルで狙う男が一人。次元の半分もない実力でM40A3なんざ100万年早いと、汚いアスファルトを蹴り付け転がりながらスコープに向かって一発。避けられれば生きて地上に降りられるだろう。
あと二人。
「久しぶりだな、小僧」
不意に背後で低い声が聞こえて、俺はその場で固まった。さっきまで20メートル先に感じていた気配が、突然2メートル後ろに移動していた。まさか、俺に気づかれずに背後に回る人間がいるとは。
ここが日本だということで完全に油断していた。
「こっちへ向いて、そいつを捨ててもらおうか」
「要望は一つずつにしてくんねぇか。俺ぁ、頭が悪いモンでね」
ソロリと立ち上がりながら、銃と共に両腕を頭の上に挙げる。この近距離で突然撃たれたらいくら俺でも生きてはいられない。時間を、稼がなくては。
「相変わらず人を笑わせることが得意だね」
ちっとも笑っていない声でもって、リーダー格らしき男は鼻を大袈裟に鳴らした。
「まぁいい、まずはそいつを捨てろ」
「ほいよ」
わざとらしいくらいに思いっきり敵側へ銃を投げ捨てる。
「それからこちらを向け」
「ほいよ」
これまたわざとらしいくらい思いっきり振り向いて、相手の顔を見ながら俺は些か驚いた。
「タロー」か。
当時はその喧嘩っ早い性格で鉄砲玉としてヤクザに飼われていたチンピラだった。あの日も奴は過分に俺のパラベラム弾を浴びていたし、てっきりとっくにくたばってるかと思っていたんだが。顔は継ぎ接ぎだらけなものの、ゴキブリ並みにしぶとく生きていやがった。
しかし、傷だらけのトカレフを握った奴の米噛にはぶっとい青筋が立っている。イラつきを精一杯我慢していた。気が早いのはそのままだ。
「フッ。ふてぶてしいサル面までもそのままか」
「この俺の美貌をサル面だなんて言うお前の審美眼は、どうかしてんじゃないのかい?」
答えて俺は口の端を持ち上げた。奴の台詞が強がりだと俺にはわかる。そんな虚勢も昔っから何も変わっちゃいねぇ。変わっちゃいねぇが、確実に成長している。なんせこの俺に気配を察せさせなかったのだ。ただの鉄砲玉の生き残りだと思っていると、まずしくじるだろう。
隣の子分そのイチにしても然り。日本人にありがちな鉄壁のポーカーフェイスに今時珍しい七三分、浅黒い肌は国籍を一瞬見紛わせるのに十分だ。白いポロシャツに茶のジャケットとなんてことのない服装は、それでも一流ブランドで固められている。見たことのない面だが、俺はこの時ほど相棒達が隣にいないことを後悔した事はねえ。なぜこの国にいるのかわからないほどには本物のプロだ。一人なら殺れる。だが、同じレベルを二人となると事情が変わる。畜生。こんな時に銭形の苦労が痛いほどわかっちまうぜ。
「…俺を、殺れるのか?」
何とか岐路を見出そうと、俺は奴の精神を揺さぶりに掛ける。どんなに訓練を積んだって、どんなに修羅場を乗り越えたって、人の心的外傷というのは簡単には拭えない。あの時、浴びるほどの弾を奴に送ってやったのはこの俺なのだ。そんな人間にこんな言葉を投げかけられて、まともなままでいる精神の持ち主とは思えなかった。
「その手に乗るか」
ニヤリと笑ったその顔には、確かに冷や汗らしきものが浮かんでいた。波の発汗量じゃあないことは傍目に見てもわかる。しかし、どうやら照準をブらすまでにはいかなかったようだった。畜生。血管だけじゃなく精神まで図太くなりやがったか。
「積年の恨み、晴らさせて貰うぜ」
奴のトカレフと、子分のブローニング・ハイパワーがぴたりと俺の頭と心臓を捕らえる。ここでタローが意地でも出して「俺が一人でやる」とでも言ってくれればまだ活路は見出せたのだ。だが、ここでも奴は一つ成長していた。決して銃を降ろさせようとはしなかった。自分の能力をわかっている。クソ。まさか日本で日本人のヤクザに俺の人生が奪われるとは思っても見なかったぜ。
とうとう俺は諦めて、素直に全身の力を抜いた。
(何か、きっかけが)
「あばよ」
今時懐かしい捨て台詞。それと同時に力の加わるトリガー。奴の顔に、勝ち誇ったような満面の笑みが浮かんだ。
あぁ、最期に不二子のキスが欲しかった。
生まれて初めて観念というものをして、俺はその両目を瞑った。
(なんでもいい。きっかけさえあれば)
 
「刑事さん!!こっちです!!」
 
突然、通りの向こうで大きな叫び声が聞こえた。
目を開けると、子分の照準が瞬時に向こうへ切り替わったのが見える。発砲。俺の心臓に食い込むはずだった弾丸が、空を切った。
俺はタローの感覚が今度こそ一瞬ブレたのを見逃さなかった。
思いっきり、米噛みを引いて奥歯に仕込んだスイッチを入れる。
ビュシュッ!!
小気味良い音と共に、奴の足元に転がっていたワルサーから催涙ガスが発射される。音に驚いたタローが見当違いの方向へ弾を発射させた。
一緒に仕込んだ煙幕が綺麗に視界を遮った事を確認して、俺は声のした方向へ猛然とダッシュを開始する。あの声は、アイツだ。
「バッカヤロウッ!!なんで戻ってきやがった!!」
刑事なんていやしねぇ。いるのは情けない日本男児が一人っきりだ。
敵二人が涙にしょぼくれながら必死に当たり一面を蜂の巣にしているのを尻目に、ビルの陰へ男を引っ張り込む。子分そのイチが放った弾丸は思いのほかブレて、幸い男の頬を掠って行っただけで済んでいた。しかしそれだけでも素人には十分すぎるほどの威嚇になる。男は、腰を抜かしてガクガクと震えていた。
「おい、大丈夫か?」
「だ、ダイ、だ、大丈夫だよ…あ…あんたは?」
「おかげ様でな。二度も助けられちまった。やっぱりあんたは俺様の救世主だよ」
ニヤリと笑って返すと、やっと男もほっとした顔つきになった。だが安心している暇はない。弾を撃ち尽くした二人がこちら側へ向かって走り始めていた。タローが片手に携帯電話を握っているのは、追加の子分でも呼んでいるんだろう。ガスの効き目もそろそろ切れてきていた。真っ直ぐに、マガジンを交換しながら確実に進んでくる。
「…チッ」
傍で腰を抜かしたままの状態の男と、奴らを見比べながら俺は計算する。このまま、逃げ切れる確率はいかほどのものだろう。
「…走るよ」
壁に寄りかかって必死に立ち上がりながら男が呟いた。
「いけるか?」
目だけを遣って俺は聞く。ワルサーはもうない。攻撃のための道具など、普段からそう多く持っている訳でもない(シカゴでも仕事でもないのにそんなものが必要だとは思ってもみなかった)。奴らを迎え討つ手は、今のところ皆無だった。ということは、ここは逃げるしかないだろう。
「…いける」
震えながら力強く頷いた男の目を信じて、俺は穢れたアスファルトを思いっきり蹴った。


←BACK TOP NEXT→