敷石が靴の裏を叩いた。
感触は、冷たい。
「よう、久しぶりだなぁ」
俺は奴に向かっていつもと同じ顔をしていることができただろうか?
何者にでもなれるはずだった。
できないことなど何一つないと思っていた。
…いや、今でも思っている。
この俺は。





Slight Memory





俺としたことが。
「あんた一体この人の何なのよ!!」
ヘマをやらかした。
「あんたこそ!!彼女面してんじゃないわよ!!」
全身全霊の力を込めて、これだけはないようにしていたはずなのに。
「何言ってんの!?私は三郎の彼女ですけれど!?」
まさか、こんな所に彼女がいるとは思わない。
「ハッ。三郎?だっさい偽名信じてんじゃねぇよ。この人は私のエドガー!!」
…どっちも違いますけれど。
「どっちがダサい偽名だよ!!てめえこそいい様に遊ばれてんだよ!!」
化けの皮が剥がれた女ほど怖いものはない。
「この際名前なんてどうでもいい!!」
「ねぇ!!どっちにするの!?選んでよ!!」
精一杯両眉を下げて、俺は困ったとばかりに頬を掻いた。情けなく両目を泳がせるその周りは、春の休日特有の和やかな雰囲気が充満している。店内に燦々と降り注ぐ午後の日差し。流れる洒落たカフェソング。斜め向かいの席で両手を取り合うパステルカラーのカップルを心底羨ましく思いながら、目の前に置かれたアイスコーヒーを啜った。…本当に情けない。
「さぁ!!」
あまりの勢いに思わず肩が跳ね、仰け反った。
「黙ってないでなんか言って!!」
ここで、「俺は不二子一筋だ」なんて大真面目な顔して言ってみたらどうなるだろうか?二人とも諦めてさめざめと泣きながら引き下がってくれるだろうか?それとも逆上して夜道で背中でも刺されるだろうか?…たぶん後者なような気がして、俺は心の中で大きく溜息をついた。
「まぁまぁお二人さん。ここは一つ落ち着いて。ゆっくり―」
「てめえが一番落ち着いてんじゃねぇよ!!」
敵対しているはずの二人の声が見事にハモッた。コントならテッパン。お見事。俺の狙った通りの筋書き。もう少しだ。片方が勢い良く水の入ったグラスを掴み取り、もう片方が便乗する。特注のジャケットが二方向から水に濡れてしまうのは忍びないが、この状態でもう一時間居座られるほうがもっと忍びない。可愛い女の子達だったから惜しいけれど、ここはもう潮時だろう。
それ、もうすぐちょっと早い水浴びだ。
 
バシャン…ッ!!
 
一瞬目を瞑った俺の両耳には、サラウンドの水音は聞こえてこなかった。代わりに突拍子もない方向から、他人の水浴びの音と盛大な罵詈雑言が飛んできた。
「ふっざけてんじゃないわよ!!あんたには人の心ってのが皆無な訳!?」
その威力は、ガヤついていた喫茶店の中が一瞬で静寂に代わるほどだった。グラスを手にした俺のカワイ子ちゃんたちもタイミングを完全に失った形で握り締めたまま、唖然として声の方向を見ている。例に漏れず、俺も窮地を救ってくれた(そして筋書きを完璧に壊してくれた)思わぬ救世主の顔を拝もうと首を傾けた。
「…で、俺にどうして欲しいんだよ」
冷ややかな目で女を見遣る水の滴る救世主がいる。あぁ、俺にとっちゃ救世主だが、どう見たって周りからすればろくでもない最低男だろう。見た目がいいから水をかけられてもなかなか様になってはいるが、この期に及んで傷ついた女にそんな言葉を投げかけるなんざ、十年前はともかく今の俺にはとてもできやしない。
バチンッ!!と今度は見事に平手打ちをクリーンヒットさせた女は、零れ落ちる涙を拭おうともせずに席を立った。早い調子のメトロノームのようにヒールの音が俺の脇を通り過ぎていく。ガラン、と終幕のドアベルが鳴ってから漸く、店は先ほどまでの活気を取り戻した。ほっとしたような空気が、店全体を奇妙な連帯感と共に覆っている。と同時に、こちらのテーブルを震わせていた怒りも一緒に連れ去られていったようだった。
「…なんか」
グラスから手を離しながらカワイ子ちゃんそのイチが呟いた。
「馬鹿馬鹿しくなってきちゃったわ」
溜息をついて、髪を掻き揚げカワイ子ちゃんそのニが言う。
『人の振り見て我が振り直せ』という日本の格言がこれほど的確に表された事例はないのではないだろうか?彼女達は、きっちり耳を揃えて頼んだコーヒー代を置いていくと、「さようなら」とだけ言い残してこれまたきっちり二人並んで店を出て行った。さきほどまでの激昂は嘘の様に消え去り、代わりに支配しているのはとてつもない疲労感だけのようだった。
ま、元凶は俺なんだけど。
肩を落として道の向こうへ消えていった二人を窓越しに見送ってから、俺は再び救世主の方へと目を向ける。顔にぶっ掛けられた水を拭おうともせず、思いっきり殴られた平手の跡を抑えようともせず、そいつはぼうっとした目で自分の正面を見つめていた。たまにチラチラと周りの視線がぶつかっていったが、あまりに微動だにしないのでそのうち奴は風景の一部に溶けてしまった。
俺はその男に興味を持った。
原因は、なんだろう?別段怪しい匂いがしていたわけでもない。裏の世界を生業にしているようにも到底思えない。俺の頭を擽る様な何かを持っているようにも見えない。
ただ、そいつのその一見空虚な目を俺は知っていると思ったのだ。
「よう、色男が台無しだぜ」
何となく男のテーブルに近づいて、持っていたハンカチ(それは大体女の子の涙を拭うために存在しているのに)を手渡す。チラリと俺を見上げた男は、ぺこりと頭を下げてそれを受け取った。
なんだ、同年代じゃないか?
パーカにジーンズという至って若者くさい出で立ちの上に、降ろされた前髪が幼さを倍増させていた。その上童顔だから遠くから見れば明らかに20そこそこだが、刻まれた細かい皺や弛みまでは年を偽っちゃくれない。そういう観察が得意なのだ、俺は(不二子には本気で嫌がられるけれど)。
「すみません」
一通り濡れた箇所を拭いた男は、きちんと折りたたんでハンカチを返した。儀礼的でもなく偽善的でもないその返し方を俺は気に入った。だから、席を立って会計を済ませ帰ろうとする男についていくことにしたのだ。

「なぁ」
喫茶店から出て暫く歩いたところで、俺は男へ声をかけた。この先相手に何か用事もあったら声の掛け損だと思って様子を見ていたのだが、そんな心配は無用だったらしい。救世主様はフラフラと街を彷徨っているだけだった。
声に立ち止まった男は、怪訝そうな顔をして俺を見遣った。さっき喫茶店で会った男に自分が声をかけられたことにすら半信半疑の様子だ。そりゃそうだ。次元や五ェ門ならいざ知らず、一般人じゃ俺が降って沸いたとでも思ったかもしれない。それでも俺は言葉を続けた。
「俺に恩返しさせてくんない?」
「は?」
突然何を言い出すんだ、とは色んな人間によく言われる。主語が足りないとも。男の顔にも例外なく眉間の皺が刻まれた。
「だから―」
「二丁目なら、もうちょっと先ですよ」
「は?」
だがしかし。こんな返し方をされたことは未だかつて俺にはない。
「だって、相手が欲しかったんですよね?俺はその気はないので、欲しいならあそこの角を曲がった二丁目周辺に行った方が…」
「だぁーッ!!ちょっと待てちょっと待て!!あんた何の勘違いをしてんだッ!!」
どうやらオトコを探していると思われたらしい。
「俺だってその気なんかゼンッゼン!!コレッポッチもありゃしねぇよ!!」
「…じゃあなんで…?」
本気で男は不思議そうな顔をしている。普段から誘われ慣れているんだろうか?イマドキのホモは、こんな男が好きなのか?しかも今は昼真っ只中だ。お天道様拝みながらいちゃつくのが流行りなのか?全くもって理解ができない(そもそも、この世にはあんなにもカワイ子ちゃんたちが溢れているというのに、よりにもよって自分と同じ「男」に走るという感覚が既に天才の脳味噌をも凌駕している)。
だから、俺はゴホンと咳払いを一つして言ってやることにした。
「君はこの俺の窮地を救ってくれた救世主だ。だから、恩返しをさせてくれないかと思ってだなぁ…」
なのに。
「いたぞ!!逃がすな!!追えッ!!」
俺の渾身の演説は渾身のガナリによって挫かれた。日本にやってきた時から薄々こういう展開は予想していたが、まさか今の今だとは。
後ろの銭形を睨みでもって確認した俺は、ついつい癖で隣の男に呼びかけてしまった。
「おい!!ズラかるぞ!!」
一瞬躊躇した男も、何だか自分が変な立場に陥ってしまったことは悟ったらしい。チラリと後ろを見遣ると、大人しく俺の後について走り始めた。
「あ、こら待て!!…と。一緒にいるのは誰だありゃ?」
銭形の微かな呟きと動揺を背に、頭の地図は瞬時に逃走経路を弾き出す。高性能パトカーと半端ない情熱を有する日本警視庁と、天才的頭脳と何の変哲もない一般人を有するこの俺。
一体どっちに分があるだろうか?
「とりあえず…駅方面まで走るぞ!!」
「ちょっと待て」
スピードを上げようとした俺の腕を、突然男は掴んだ。
「なら、こっちの方が警察の目を欺ける」
「あ?いや、そっちは行き止まりじゃ…」
「一体何年前の話してんだよ。今は行ける」
世界中の道という道を網羅する人間ナビを自称している俺は、その言い様に無性に腹が立って仕方がなかったが、今は背に腹は変えられない。揉めているうちに銭形がかなり距離を縮めていた。
「わぁったよ」
仕方なく引っ張られるままに、俺は路地裏へと足を運んだ。どうせならカワイ子ちゃんに引っ張ってもらいたかったもんだ、という憎まれ口は欠かさずに。



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