「お、こんなとこにハイランドパーク40年が置いてあるぜ」
「なんだ?ハイランド…?」
「知らねぇのかよ?こないだ世界限定1000本発売されたっつー極上のウイスキーだ」
「俺はウイスキーなんて気障な飲み物飲んだことねぇよ。名前だってニッカかウイスキーボンボンかってとこだ。ハイランドパークっちゃ、那須か浅間だよ」
「ウイスキーボンボンて…ま、いっか。じゃ、人生最初のウイスキーはこいつを頂こうぜ」
「…おいおいおい!!」
開けかけた封を慌てて男の手が遮った。何事かとその顔を見ると、恐い顔をして俺を睨んでいた。
「勝手に店のモン開けんじゃねぇよ」
そういうことか。
俺達は、あの通りからさほど離れていない、潰れかけたクラブの中へ身を隠していた。いくら男が大丈夫だと言い張っていても、実際こいつは腰が抜けてまともに走れる状態じゃなかったし、カワイ子ちゃんならまだしも、大の男一人抱えてじゃあ俺だって逃げ切れる自信はない。大通りはすぐそこのはずだったが、その「すぐそこ」に辿り着くまでにたぶん追いつかれてしまうと踏んだ俺は、男を引き摺って、目に入ったこの店に転がり込んだのだ。といっても今は昼だ。開店には程遠く、ドアを開けるにはちょっとしたテクニックの披露が必要だったのだが。ほとぼりが醒めたら堂々と表に出て鍵を閉めてやればいい。
「あいつらなんかに飲ませるくらいなら、俺達が頂いちまった方がこの酒だって本望だと思うんだけっどもがなぁ」
この期に及んで酒棚に戻そうとする法律に忠実なこの男から、スイと瓶を奪って手の中に戻す。世界中で1000本しかない酒が、どういうわけか350本も日本に配分された。国内にいるならそれなりの確率で手に入れることができただろう。20万もする酒をこの不況下で手に入れようとする輩はそういない。しかし普段世界中を駆け巡っている俺が、この酒に出会える場面もそうとなかった(ネットなんて野暮な手段を使う俺でもない)。
まさかこんな所に隠れていたとはな。
「どういう意味だよ?」
俺の台詞を不審に思って、男がしかめっ面で問い返す。腰が抜けているくせにやる事はいちいち正義漢染みていていけ好かない。まるでいっつも俺の傍にいる誰かさんのようだ。しかしだからこそ俺は助かったのだと思うと、少しばかり己に腹が立った。
「ここら一帯はあいつらが縄張ってる街だぜ?こ〜んなタッケェ酒、場末のクラブでただの客になんざ出すもんか。ぼったくり相手にだって勿体ねぇ。ショバ代代わりにコワ〜い方々がかっくらってるに決まってらぁな」
そう吐き捨てながらボトルに手を掛ける。蓋は難なく開いたが、今度は男も止めはしなかった。
「ふーん。あんた、詳しいんだな。ヤクザか?」
「ヤクザ?」
男らしく直接かっくらえば、口から溢れて琥珀色が喉を伝う。それを見ながら男が「あ〜ぁ、勿体ねぇ」と呟いた。40年。なるほど、その歴史に相応しいほどには複雑な味がする。この年月を尊敬の念と共に味わうには、確かに勿体無い飲み方だろう。次元が見たら嘆くのが目に浮かぶ。
「ヤクザなんて、物騒なモンじゃねぇよ」
ほいっと、男に向かってボトルを投げると、男は不器用に慌てながらもなんとか受け取った。暫く逡巡していたようだったが、やがて覚悟を決めて目を瞑り、一気に中身を呷った。その一挙手一投足が俺には新鮮で、何となくじっと観察してしまう。
「なんだよ、見てんじゃねぇよ。ヤクザ崩れのおっさんが」
再び放られたボトルを、今度は俺が片手でキャッチする。拭ったばかりの口元には、知らずのうちに笑みが零れていた。
「だからヤクザじゃねぇって。泥棒だよ」
「……」
口をあんぐりと開けて絶句した男は、我に返った末に「どっちも同じじゃねえか」と吐き捨てた。
俺達は、9周させてボトルを空にした。男はいい気分に酔っ払ってきたらしく、こんなに旨い酒は初めてだと他の酒まで漁り出す始末だった。それに付き合いながら、俺はこの奇妙な状況をどうしたものかと頭を巡らした。
元々が口数の多い男ではないのだろう。やがて男は無言で酒を飲み、女の子相手じゃなければリップサービスをする必要もないので俺も無言で飲む。小さな沈黙は小一時間ほど続いたが、不思議と気まずい雰囲気は一度も生まなかった。もしかしたら、本当に気が合うのかもしれない。
暫くすると、男は呂律の回らなくなった口を突然開いた。
「優しさと冷たさを持ち合わせた男…」
「なんだ?」
聞いた台詞に、俺の眉間の皺が寄る。
「長男で、年の離れた妹が一人」
どうやらさっき俺がこの男について言ったことを思い返しているらしい。男は、グラスに注がれた琥珀色のジャックダニエルを、ドロンとした目で見つめている。
「その通りだよ。俺は長男で、昔に両親と死別して妹を養ってる」
「ほら見ろ。俺は頭が良いんだ」
男に付き合って無駄に胸を張ると、本人は鼻であしらい俺の自尊心を折る。何て奴だ。
「…一つだけ間違ってることがある」
「…なんだヨ」
「彼女は、俺の逆鱗になんて触れてないんだ」
闇に向かって自嘲する男のその姿を、俺は知っていた。もう長年、そんな姿は見たことがないが。
俺は錆びたスツールに座り直すと、もう何杯目になるかわからないコニャックを自分の(にしているが勿論店の物だ)グラスに注いだ。
「7年付き合ってたんだ」
「そら、情も湧くわな」
「プロポーズされたんだ」
「…お前がか?」
「それを蹴ったんだ」
「お前がか!?」
驚いてカウンターについていた肘を外してしまった。弾みでグラスの中身が袖を濡らした。こんなところで水浴びがやってきた。しかしそんなことはどうでもいい。そら、女もキレるってんだ。不二子流に言わせて貰えば、七年あれば男と恋して結婚だってできちゃうどころか、子供を生んでそいつの為にそろそろランドセルだって買えちゃう年月じゃねぇか。その間本気で付き合っていた男女に、一体何があればそんな事態が起こるのだ。
「…自分が何をしたかはわかってるつもりなんだ」
あっけに取られている俺をちらりと見ながら、男はまた笑った。そろそろ、俺には見るに耐えない顔になってきそうだった。
「でも」
それでも男は先を続ける。それはまるで、信者がキリストに懺悔でもするかのような姿勢で、余計に胸糞が悪くなってくる。
「…俺は、父さんと母さんが死んだ日に誓ったんだ。美奈子を幸せに送り出すその日までは、自分の幸せは決して掴まないって。」
7年付き合った自分を愛してくれる彼女よりも、生まれた時から共にいる最近そっけない妹の方が大事なんだ、そう言って男はグラスの酒を呷った。
最早完璧に潰れそうだった。目は半分閉じている。しかし喫茶店で見せた空虚な目を、崩してはいなかった。俺は知っている。あれは、何かを犠牲にしてまで何かを守った、そこに生まれた喜びではなく憎しみを抱きしめた、かつての「俺達」の目だ。
大なり小なり、人間は毎日戦いながら、取捨選択に迫られながら、生きている証拠だった。俺達だけではない。その証拠だった。
「お前はやっぱり救世主だよ」
俺が三度目そう呟いた直後、男が、座っていたスツールから落ちた。
店の裏から安物の化粧道具を一揃い見つけ出すと、俺達はそれを使って堂々と表から店を出た。とはいっても変装したのは俺だけで、いるだけでグデングデンの酔っ払いになりきった男は変装の必要はない。思った通り裏通りにはタローの配備した物騒な連中がうようよしていたが、俺様の完璧な変装と、男の完璧な酔っ払い加減に誰も近寄ってこようとはしなかった。
俺は半ば担ぐようにして男を表通りまで運んだ。念のためにと離れた場所にあるビジネスホテルまでタクシーで向かい、部屋に入って男をベッドに放り出すと、やっと身の軽さを取り戻した。
「第一の恩返しはここまで」
男の財布の中に入っていた本人のものと思しき名刺を一枚拝借し、部屋にあった便箋に男への伝言を残す。
それだけやると、俺はこの奇妙な一日に終わりを告げて部屋のドアを閉めた。
遠くで銭形の乗るパトカーのサイレンが、しつこく響いていた。
佐伯慎一郎。それがあの男の名前だった。都内の印刷会社に勤める事務員。普段は勤勉実直。とてもじゃないがオンナや悪事に手を染める人間ではない。俺とは正反対の真人間だ。
「あいつらは一週間後、酷い目に遭ってたぜ。向こうが束になってかかってくるんだ。俺達が三人で相手してやったっていいだろう?…ま、印刷会社で働いてたんなら、その噂はお前にも届いていたんだろうがな」
あの時、俺がヤクザの直営宝石店を襲撃し、ついでに組織を壊滅に追いやったことは大々的に報道された。タローは組織の中でもそれなりの地位に居座っていた人物だったらしい。…「だったらしい」。今となっては推定の過去形でしかないが。
「手紙、受け取ったぜ」
俺の右手には、素っ気無いほど真っ白なA4のコピー用紙に男らしく殴り書きされた今回の「依頼」と、もう一枚、懐かしい便箋が握られていた。あの時、ほんの気まぐれで書いた一言に、赤いマーカーでマルがついていた。
『この台詞、忘れたとは言わせねぇぞ!!』
「忘れてなかった。これからも忘れねぇよ」
言いながらやっと、俺はその真新しい墓前に花を手向けた。
「…妹は、必ず俺が守ってやる」
やっと、俺の遅すぎる恩返しが始まりそうだった。
『佐伯慎一郎殿
貴殿の今回の活躍に感謝の意を示し、今度助けが必要な時には必ず駆けつける。
警視庁の銭形という、いけ好かないケツ顎オヤジに手紙なり何なり託すべし。
ルパン三世』
END
2009/04/05
MOSCO