唐橘の花


4
「五ェ門!!いるんでしょ!?」
扉を開けるのも待ちきれないのか、磨り硝子の外で声を張り上げるその主に、五ェ門は構えた斬鉄剣と張り詰めかけた緊張を一気に緩めた。と同時に、この人間に対する時にだけ発動されると言っても過言ではない感情の一部分が、脳味噌を占拠していった。嫌な予感だ。自然と眉間に皺が寄る。
「ちょっと!!五ェ門!!」
開けるかどうか迷っていると、仕舞いにこの女は薄い扉を力任せに叩き出した。コレではじきに破れてしまう。それはどうにか辞めて欲しかった。
「なんだ。騒々しい」
大袈裟に溜息を吐きながら仕方なく引き戸を引いた途端、外から白い腕がにゅっと伸びてきた。それに驚く間もなく、女―不二子は今度は力任せに五ェ門の腕を取る。
「来てっ!!」
「な…一体なんだ。何があった」
その尋常ではない取り乱しぶりに、些か驚きながら声をかける。お宝を掴み損ねた時にだってこれだけ我を忘れる不二子ではない。開けた戸を閉める暇もなく彼女のポルシェ911に無理矢理乗せられた五ェ門は、あっという間に国道から臨海方面へ向かっていた。
「なんで一緒にいないのよ!!」
海沿いの道を乱暴に走りながら主語もなく乱暴に問い詰められる。カブリオレの屋根を開け放して運転している不二子の髪の毛は、焦りも手伝ってかかなり乱れ飛んでいた。直す様子もない。それでもある種の色気を纏い続けているのは、彼女の天性と努力の賜物だろう。
しかし五ェ門にはそんなことはどうでもいい。不二子の発言に心からむっとして、嫌味のように聞いてやった。
「何がだ」
「何がじゃないわよ!!ルパンとよ!!」
「いつも一緒にいるわけがなかろうが」
「お陰で捕まっちゃったじゃないのよ!!」
前方を見据えながらも、不二子は五ェ門に食って掛かるようにして叫んだ。その間にも幾度となく、バックミラー越しに神経質そうな目を向けている。五ェ門にではない。どうやら、追われる心配をしているようだった。
「誰にだ。…お主、先ほどから取り乱しすぎだぞ。もう少し落ち着いたらどうだ」
「これが落ち着いていられるもんですか!!昨日の連中よ!!ルパンが奴らに連れて行かれちゃったのよ!!」
「…ルパンなら自分で何とかするだろう。わざわざ出向くことでもあるまい」
突然、高周波の域に入るのではないかと思うくらい高いブレーキ音が響いた。その音と比例するように五ェ門の体は慣性の法則に従ってフロントガラスに突っ込んでいった。ガラスを突き破る寸前にかろうじで両肘を突き出すと、それでも間に合わなかった顔面だけが不細工に押し付けられる。一体、自分は何でこんな所でこんな事になる羽目に陥っているのだ。
「ちょっと。あなたそれ本気で言ってるの?」
首を抑えながら顔を上げると、今までとは打って変わって冷静な声を出す不二子が、怖い顔をして五ェ門を睨んでいた。
「何か変な事を言ったか」
今度は本気で理解ができなかった。自分がこの世で唯一勝てなかった男。世間に不死身と揶揄される、神出鬼没の「大」泥棒。常に飄々と、自分には決してできないポーカーフェイスでもって隙を伺う男。IQ300とも言われる未知の世界を持つ男に、自分が本当に必要だとは思えなかった。今の五ェ門には。
「呆れた。最近なんか変だとは思ってたけれど、相当重症のようね」
とうとうハンドルから手を離した不二子は、怒りを通り越して哀れみさえも含んだような口調になってそう言った。髪をかき上げ、溜息を吐く。不二子は、己の不調に気づいている。
「一体何の話をしている、不二子」
「あなたの話よ、五ェ門」
「……」
シラも切れない。そういえば、彼女の通り名は「女ルパン」だった、と古い話までも頭の片隅で思い出す。
五ェ門の沈黙に、再び喋りだしたのは不二子だった。
「その言葉の詰まりよう。一応自分でも自覚しているようだから教えてあげるけど」
一息、息を吸い込んだ。これから言うことを、しっかり心に留めておけと。
「どうせあの二人は、長生きするような生き方なんてしてないわ。そしてそんな生き方しかできない彼らを、生かすか殺すか、選択できるのはあなただけよ、五ェ門」
「しかし拙者とて…」
咄嗟に口を吐こうとしたのは言い訳、ではない。自分がルパンの運命を握っているとは到底考えられなかった。何せ、いつになっても肩を並べられない。いつだって一歩先を行くのは奴なのだ。それなのに不二子は五ェ門に否定させる暇を与えず、顔の前に人差し指を突き立てた。「Shut up!」と言わんばかりに。
「あなた自身を、生かすも殺すもルパン次第だったわ。…その意味、あなたにならわかるはずよ」
だからお願い…最後にはそう真摯に呟いて、彼女は再びハンドルを握り直す。一瞬だけ祈るように目を瞑った姿は、とてもじゃないがいつも図太い神経を晒している人物には見えなかった。
 
今度は、ポルシェは静かにエンジンを走らせ始める。
 
しばらく不二子の横顔を見つめて意を汲み取ろうとしていた五ェ門だったが、この人間もまた、自分の感情のコントロールに人一倍長けていることを思い出してそのうちに諦めた。言われた言葉だけを、頭の中で反芻する。そうしていれば、自分の中で何か答えが見つかりそうな気がした。
 
不二子はもう何も喋らない。バックミラーもさほど確認しなくなった。五ェ門はそっと、意識を後方に向け始めた。
目線だけを、国道の外に向ける。
 
日本海の波は高い。
そして容赦なくテトラポットに自らを叩きつける。
特にこの時期は、冬が近いこともあって世界が鉛色に変色していることが多い。鉛色の世界で蠢く鉛色の波。彼らは、地上に何を求めてぶつかり、飛沫を上げ続けているのだろう。
何を求めて、怒りを爆発させているのだろう。
 
先には、一体何があるというのだろう。
 
 
一瞬、微かに五ェ門の瞳が光った。


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