唐橘の花
3
そんな時に限って、というのはよくあることで。
次の日、五ェ門の元に手紙が来た。
なぜここがわかったと一瞬考えて、ブラウン管の中に答えがあったと悟る。
この仕事の為に日本へやってきたのは二週間前のことだった。故郷の空気に気が晴れるかと思えば全くそんなこともなく、鬱々としながらも下調べやら何やらに追われているうちに、頭痛の種が一つ増えていた。ルパンがどこかのテレビ中継に映りこんでしまったらしい。銭形が俄かに煩く嗅ぎ回ってくるのはいつものことだったが、今回はもう一人、その中継を見てしまったのだろう。
墨縄紫――。
かつて、ただ一人、結婚の約束をした彼女。
手紙はルパンが偽名で契約している私書箱に来ていた。たまたま買出し帰りに五ェ門が受け取ったから良かったものの、ルパンや次元が受け取っていたらまた何とからかわれたものかわからない。今の五ェ門では、それこそ血の惨事になっていたに違いない。
アジトに戻ると、買い出した品物を仕舞うこともそこそこに、そそくさと自分の部屋へと戻る。
丁寧に封を開けて、中身を取り出す。迷迭香(マンネンロウ)のあしらわれた綺麗な便箋に、彼女独特の丸い字が並んでいる。それを見るのは実に久しぶりで、五ェ門は知らずのうちに口元を綻ばせた。
手紙の内容はといえば、たわいのない日常の報告、しかし微かに寂しさのような甘えのような、胸が締め付けられる類の何かが篭った一通だった。
さて、なんと返事を返そうか。
「おおぃ、五ェ門」
突然呼びかけられて、慌てて文机の中に手紙を仕舞う。奇跡的に受け取ったのが自分なら、それは隠し通さねばならない。
ひょっこりと、障子の向こうから覗いたサル顔が、慌てた己を不思議そうに捉える。勘のいい奴には隠し事も儘ならないのだったとげんなりした。
「…何か用か」
「何か用かって、つーめてぇなぁ。仕事も終わって暇だからよ、この辺の温泉にでも行こうかって次元と話してたんだけっども、お前も行くだろ?」
「いや…拙者は…」
断りかけて一瞬言葉に詰まる。なんと言って断るというのだ。五ェ門が日本の温泉や食事に目がないというのはルパンも次元も知っていて、だからこそ自分をこうして誘い出そうとしているのだ。
それすら己を嘲笑しているのではないかと思ってしまう今の自分が、心底恨めしかった。
「あ、まさかおめぇ…」
口ごもる五ェ門にルパンが何か気づいた。まさか、ばれたか。
「俺たちに内緒で温泉行って来たな?」
「は?」
「は?じゃねぇよ。俺たちが汗水垂らして下調べだーなんだーって走り回ってる間、お前抜け出して温泉行ってただろ!!」
子供のように口を尖らせて喚くルパンに、五ェ門はことさらなんと返してよいかわからなくなる。確かに、気分転換にでもなるかもしれないと、下調べの帰りに近場の温泉所に立ち寄ったことはある。だが、それはルパンや次元が一息つく為に入る珈琲店のそれと意味合いはさほど変わらない。抜け駆け呼ばわりされる覚えはない。ないのだが。
「うむ。そうだ。だから悪いが、今回は遠慮させてもらおう」
これほど好都合な言い訳も他になかった。ルパンはぶつくさと文句を言っていたが、五ェ門の気持ちに変化が期待できないとわかると、ようやく諦めて去って行った。
暫くして、二人分の足音と、玄関の戸が閉まる音が聞こえた。後に残るは、自分自身の気配のみ。
「……」
やっと、安堵の溜息を吐く。このまま自分は修行にでも出てしまおうかとも思ったが、それはここから逃げ出しているようで、プライドが許さなかった。何も自分は悪いことをしているわけではない。
逡巡した後に引き出しから再び手紙を取り出すと、何か高価な宝石でも扱うかのように丁重に中身を開いた。もう一度、今度は深く味わうように内容を読む。続いて別の引き出しから便箋と筆記用具を取り出し、再びなんと返事を書こうかと、頭を悩ませた。こうして、ここにはいない誰かのことを、ましてや仕事とは全く関係のない誰かのことを、想うのは嫌いではない。
拝啓、墨縄紫殿
それに続く季節の言葉。綴られる文字。迷いながら、一年に何度も会えない恋人に寄せる言葉を紡いでいく。軽すぎず、重すぎず、かと言って真実以外の言葉を吐くことはなく。彼女の日常をほんの少しでも彩ることができるのならと、心を込めた。
「いっその事、この日本で安住の地を見出すべくそなたの元へ」
そこまで書いたところで筆が止まる。
ぽたりと、筆先から墨が一滴垂れた。
直前まで滑らかに筆を滑らせていた紙の上、「へ」の文字に直撃したそれは、じわじわと黒い染みの様に広がって行き、最終的に文字を食い潰してしまった。
一瞬、己の書いたことが何なのか、どういうことなのかわからなかった。途中までは確かに安らかな文章だったはずだ。それが一体どうしてこういう文脈に繋がるのか。
ふと、「安住」とは対極の位置に存在する己の相棒を見遣った。いつでも掴める様自分の左側に、当然のポジションとして静かに居座っている斬鉄剣。まさか自分は、あの剣を捨ててまで、「安住」なるものを欲しているのか?
突然、五ェ門は墨で手が汚れることも気にせずぐしゃりとその手紙を握り潰した。怒りに任せて引き千切ると、そのまま部屋の隅にあった屑篭へと放り投げる。五ェ門によって便箋という機能を無くした紙屑は、しかし主に異議を唱えるかのように、途中で弾けて散った。
畳の上に広がった、乾いた白と濡れた黒の破片を見ながら思う。
まるで己の心のようだ。
押されるはずのないこの家のチャイムが鳴ったのは、五ェ門が散らばった紙をやっと全て捨て終えた時だった。