正義の人
5 「ユキ」
突然の大雨に打たれた、その日に出会った運命の人。
暗い夜、街灯の光が乱反射する雨粒の向こうに。
一点の曇りもブレもなく鋭い眼光を向ける目は、まるで百獣の王のようで。
一瞬にして私は射抜かれた。
きっと、囚われたのだ。
もう一生、この男からは離れられない。
そんな気がした。
携帯の目覚まし音にユキが目を覚ますと、隣で眠っていたはずの四世の姿がなかった。何となく不安になってあたりを見回す。カーテンの向こうから透けて見える朝日はまだ清々しい。テーブルに散乱した酒瓶やグラスは二人分なのに、ソファに散乱した洋服は一人分。日を浴びて見るそれらは、毎朝のことながらとても頼りない幻のように見える。昨日のことは全て夢だったんじゃないかと。しかし、ユキはサイドテーブルの上に走り書きを見つけて安堵した。「ショウユ買ってくる」。昨日の夜に切らしたと言ったのを覚えていたのだ。何もこんな朝早くに出かけなくてもいいのにと、苦笑しながらユキは紙切れにキスをした。
嵐の夜に出会ってから何となく一緒に夜を明かし、あれよあれよと離れがたく思っている間にこんなところまで来てしまった。自分の家にも帰っているし、きちんと仕事もしている。それでも連日男に会いに来てしまっているというのは、意識していなくとも相当入れ込んでいる証拠だろう。我ながら己の体力と気力に脱帽する。
ベッドから出ると、洋服を拾い集めながら着替えて部屋を出る。四世が醤油を買ってきてくれるのならば、朝御飯もそれに合わせて作るというのが礼儀だろう。さて、冷蔵庫の中には何があったか。考えながらユキの一日は始まった。
「おい、お前何やってんだよ」
「『お前』じゃありません。ユキです」
対面式のキッチンカウンター。家族の団欒を盛り上げるために作られたこの様式が、七見が部屋に入ってきた途端に一触即発の危険性をかろうじで阻む大事な防護壁となっていた。キッチンの中では七見に睨まれたユキが目も合わせずに葱を刻み、カウンターに左手を着いた七見はそんなユキから片時も目を離すまいと動きを追っていた。
「名前なんてどうでもいいんだよ」と、七見はユキの反論に怯まず続ける。「どうせ偽名だろうが。怪しいにもほどがある」
「偽名…ね。どっちが。じゃあ言わせて貰うけど、あなたの隣にいつもいるあのイケメンさんはどうなるわけ?『ルパン四世』なんて名前、どう考えたっておかしいじゃないの」
「……」
言ってやった。今度こそ七見が言葉に詰まったのと同時に、カラスがどこかで「カァ」と鳴いた。
車の中から見ているだけで終わった前の部屋もそうだが、ここも南の日差しがとてもよく入る構造になっている。ユキは、「ルパン四世の家」にどうしても入りたいと駄々を捏ねた。四世は得体の知れない人物だ。その心を知りたくなるのは女としての本能だと思っている。幸い、今のところ四世はユキに対して盲目的と言っても過言ではないほどの愛を捧げてくれていた(ようにユキには思えた)し、二つ返事で快く家へ招待しようとしてくれた。なのに、待ったをかけたのが七見という「相棒」だった。仕事の合間を縫って毎日チャレンジするも全て門前払い。結局、中に入れたのは数日前の夜が初めて。七見の留守を狙って四世が招いてくれたのだった。人の恋路を邪魔するヤツほどこの世に不要なものはない。
ユキは葱を刻み続けながら、正面で日差しを遮る続ける男の様子を窺った。
「何見てんだよ」
すかさず七見の嫌そうな文句が飛んでくる。むさいくせにやたらと察しがいいのはどこからきているんだろう。
「自意識過剰なんじゃないの?暗くなるからどいてくれません?」
「テメェに毒盛られたら敵わないからな。文句あんならすぐそれ止めて出て行けよ」
『お前』が『テメェ』に変わった。七見も相当イライラしている。
「ふん」
本当に腹が立って仕方がないユキは、素っ気無く答えると刻み終わった葱を沸騰した鍋に一気に流し込んだ。葱と一緒にこいつも沈めてやりたいわ、などと物騒なことを考えながら。ここまでそりの合わない人間と、彼女は今まで出会った事がなかった。
そんな事態などつゆ知らず、暢気な声で主が帰ってきたのは、ちょうど葱が香り豊かな味噌汁へと姿を変えた頃のことだった。
「た〜だいま〜ッ!!」
やっと二人きりから開放される。その喜びも手伝ってだろうか。ユキの表情は自分でもわかるほどに一瞬で華やかな笑顔を作ってしまった。
「ルパン!!お帰りなさい!!」
「ただいま、マイハニー!!いい子にしてた?」
「寂しかった!!」
とお玉を片手に飛びつけば、優しく抱きしめて頬にキスをしてくれる。まさに四世は、ユキにとっての理想の恋人そのものだった。カウンターの向こうで顔を顰める誰かさんとは大違いだ。
「コンビニに醤油一つ買いに行っただけで何が『寂しかった』だ」
「自分が相手にされないからって、僻まないでくれませんか?」
「七見もユキちゃんに女の子紹介してもらえよ〜。いいもんだよ、恋ってのは」
二人して抱き合ったまま、ねぇ、と息を合わせて首を傾げる。流石に見ていられないだろう。自棄になったのか、今度こそ七見は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
「…私、あの人になんかした?」
バタンと乱暴に閉じられたドアを見つめながらユキは思わず聞いた。ユキから離れて醤油を袋から取り出していた四世は、綺麗な仕草で顔に笑みを作った。
「可愛い彼女ができたオレに妬いてるんでしょ」
それよりユキちゃんの朝御飯が早く食べたいな〜、おどけて催促されるとこちらとしてもこれ以上突っ込むことができない。本当は、知りたいことを何一つ教えてくれないのは七見ではない。四世なのだ。
「んもう〜。ルパンったら甘え上手なんだからッ」
ユキは仕方なく四世に調子を合わせると、届いたばかりの醤油の口を開ける。その途端に深く味わいのある香りが漂ってきた。どこまで買いに行ってきたのか、パッケージはコンビニの醤油などではない。見たことのないメーカーのものだった。こんなところにまで細かなこだわりがある彼を、思わず尊敬してしまう。きっと、料理だって本当はユキの何倍も上手いのだろう。それなのに、無駄な主張はせずに作ったものを旨い旨いと一つ残らず平らげてくれる。
「ますます惚れちゃうわ…」
溶いた卵に醤油を加えながら、ポツリと呟いた。
「私、そろそろうちに帰ってから仕事に行くけど…大丈夫?」
朝食後の洗い物の後、帰る前にリビングへ顔を出したユキは、二人掛けのソファに腰掛ける四世の後姿に声をかけた。何気ない挨拶だったはずだが、しかし、その途端に四世の背中がビクリと跳ねたのを、ユキは見逃さなかった。
「…ルパン?」
「…ん?」
返事は返ってきた。けれども声が震えている。挙句、こちらへは絶対に向こうとしない。何かが変だ。何もなければそのまま踵を返して帰ろうと思っていたユキだったが、そうもいかずにリビングへ足を踏み入れた。
「ねぇ、ルパン?」
回り込んで、顔を覗いて驚いた。四世の目がまるでウサギのように真っ赤だったのだ。つい先ほどまでは機嫌よく、ユキの作ったご飯を片手にワイドショーに対して文句を言っていたはずだ。それが、ものの数分も立たないうちにこの世の終わりかのような悲痛な表情で俯いていた。
「…やだ…どうしたの?」
「…なんでもない。大丈夫だよ」
そう言いながら弱々しくユキを押しのけようとするその手に、クシャクシャになった便箋らしきものが握られていた。テーブルの上に置かれた封筒には、AIR
MAILの文字。
「何か…悪い知らせでもあったの?」
「……」
ずり落ちそうになった四世ををかろうじで支え、ソファへ深く座らせる。中腰のままでいるわけにも行かず、ユキはそのまま隣へ腰掛けた。
「…おじさんが…死んだって」
震える両手はすぐに、ユキを拒絶しようとはしなくなった。言葉をきっかけにして堰を切ったように嗚咽を漏らし始めた四世は、ユキの体を思いっきり抱きしめると、憚ることなく涙を流した。
「黒い帽子と…黒い髭…大好きだったんだ…!!」
ユキは、こんなにも素直に悲しみを表現する大人の男をいまだかつて見たことがなかった。掴みどころのない四世が、こんなにも感情を露わにしているところも見たことがなかった。彼の言う「おじさん」にも会ったことなどない。しかし、だからこそ、四世にとってその人物がいかに大事であったかも痛いほどよくわかる。まるで彼の胸の痛みが溢れ出して、世界中を侵食してしまったかのようだった。いつの間にか、四世の背中をさすりながらユキの頬にも涙が伝っていた。
「…オレ…まだ…何も恩返ししてないのに…」
「…うん」
「…オレ、あの人に迷惑ばっかりかけていたのに…」
「……うん」
「なんで…なんで…ッ!!」
しばらくの間、二人で抱き合いながら泣き続けていた。
「ユキちゃん…ごめんね。仕事、遅れちゃうね…」
「いいのよ。ちょうど行きたくない気分だったし、ルパンの隣にいたかったもの」
アイスノンを目の上に乗せた四世を見ながら、マスカラを付け直したユキは笑った。あれから軽く30分は泣き続けただろう。四世の目も、ユキの目も、すっかり真っ赤に腫れてしまった。軽く頭痛のようなものまでする。これではこのまま行ったって午前中は仕事にならない。
「おじさんのお葬式、いつ?」
「三日後だって」
「そう。行くんでしょう?」
「…わかんないや…」
マスカラをしまってから化粧ポーチをバッグの中に入れると、ユキは四世に向き直った。
「なんで」
「だって…」
たぶん、このままじゃ現実を受け容れられないから、そう言って、四世はアイスノンも上げずに唇だけで弱々しく笑った。
「行った方がいいわ」
前髪の捲れた、ちょっと冷えた額にユキは小さなキスを落とす。お願いだから、行ってちょうだいと。
「あなたは、行かなかったら後悔する」
自分の親族が、昔同じような目に遭っていたのをユキは見ていた。男は強情な生き物だから、と母は笑っていたけれど、その目がとても悲しそうだったのを今でもずっと忘れられない。そしてその通り、強情を張った男がしばらくの間死人のように抜け殻になっていたのを、彼女は知っているのだ。
「絶対に行くのよ」
それから、きっと何もする気が起きないだろう四世の為に、日持ちのする料理を作って冷蔵庫に入れた。
「私、今度こそそろそろ行くけど、冷蔵庫のものだけは食べてね」
今度は、四世はのろのろと後手に手を振って答えた。
マンションのドアを閉じてから、歩いている間も、止まっている間も、ユキには現実を現実として考えることができなかった。アスファルトを踏みしめる足がフワフワする。雑踏の中の話し声がどこか遠くで聞こえている気がする。何が現実で、何が空想かがわからない。
一日はもう始まっている。人々は忙しなく街を歩き、会社へ向かっている。道を囲んでいる賑やかな店たちも、そろそろ開店の準備を始める時間帯に入る。誰もが、今ではなく数時間後の未来を生きている。
この時間独特の、いつもと変わらぬ日常の景色だ。
なのに、何かがおかしい。
その日、ユキは山手線を三周回ってから最寄り駅へ降り立った。
ユキが耳にかけたイヤホンからは、延々と人の話し声が続いていた。
同じところを繰り返し、繰り返し。
『おいルパン、次元大介を勝手に殺してんじゃねぇよ』
『あれ?この手紙?違ったっけ?』
『…お前…それ。次元が知ったらぶっ殺されるぞ…』
何かがおかしい。