正義の人





4 「幸代」

「幸代、お前はもういい。下がれ」
和室に銭形の不機嫌な声が響いた。
「え、でもまだ…」
幸代は盆から座卓へ移そうとしていた茶菓子を宙に浮かせたまま、困惑した表情で自分の祖父を見る。細身のジーンズに薄手のセーター。胸元にはきらりと光る小さなネックレス。一見すると休日のキャリアウーマンのような出で立ちだったが、その心情は傍から見ても戸惑っていた。小さい頃から厳しい躾と共に作法を学んでいた彼女は、今までに一度だって祖父の客に茶を出さずにこの部屋を出たことはなかったのだ。
「いいから、下がれ」
幸代をそのように育てた当の本人、銭形のその目は睨み付ける様に前方を見据えている。まるで事件の容疑者でも相手にしているかのようだった。普段家ではそんな表情は滅多に見せない。一度、どこかのテレビのドキュメンタリーが彼を取材した時にチラリと見せた表情が、幸代の祖父に対する「刑事の目」だった。それが、今まさに目の前で再現されている。その視線をなぞると、今度は今日の客とばっちり目が合ってしまった。
「…あ、あの…大岡さん?」
その尋常ではない表情に、思わずたじろいだ。返事ももらえない。あの日以来、何度か二人は顔を合わせているが、会う度に大岡は同じ顔しか見せていない。日本を担う警視庁の警部ともあろう人が、こんな表情でいいのかと思うほど伸びきった鼻の下。完全に我を忘れて幸代を見つめ続けている。幸代自身としては、自分がそんなに魅力のある方だと思っていなかったが、それだけにこの視線はなんとも居心地が悪かった。
「放って置け。お前がいなくなれば直に目が覚める…いや、覚めさせてやる」
銭形の両拳がゆっくりと上がり、胸の前でボキボキと音を立てた。
「…犯罪にだけはしないでね…」
大岡の熱視線と祖父の殺気を背に、幸代は盆を置いて部屋を出ることにした。一挙手一投足に視線を感じると思ったら、扉を閉めるその瞬間まで見つめられ続けていた。
背中がムズムズするような感じを拭えぬままに台所に向かう。大岡の残像と視線を思い出しては消しながらコップ一杯の水を飲みきった。たぶん、問題はなかったはずだ。幸代はふっと一息吐いた。両手を台所の縁にかける。下を向くと、頭に血が上って顔が熱くなる。それまでの人生では一度も、感じたことのない種類の興奮が体中を覆っていた。しばらく深呼吸を繰り返し、高鳴る鼓動を落ち着かせた。
これは、すべての始まりだ。やっと、私の人生も始まるのだ。そう思うと全身が武者震いをしているようにも感じられた。でも、それは誰にも悟られてはいけない。幸代はもう一度深呼吸を繰り返すと、用心深く二階の自室へと戻った。
カーテンを閉め切った二階の部屋は、昼間だというのに蛍光灯の明かりだけでこうこうと輝いていた。パソコンの置いてある業務用デスク、その左側には乱雑に本の押し込まれた大きな本棚が二つ。デスクも本棚も、昔銭形が警視庁でルパン三世相手に大暴れをして使えなくなってしまったものだった。捨てるところだったものを(自分が壊したくせに)勿体無いと銭形が貰い受け、折れた足を補強し、ぶち抜かれた背中を補強し、今では立派に幸代の成長を長年見届けている。パソコンの乗ったそのデスクの右側には飾り気のないパイプベッド。これも払い下げ品だ。寝返りを打つたびにスプリングが死にそうな音を立てる。扉の隣に、申し訳程度に備え付けられたクローゼットの中には、幸代の全洋服類がTシャツもドレスも一緒くたになってしまわれていた。
足の踏み場もないくらい書類の散乱していた床を器用に歩きながら、幸代は自室のブレインであるパソコンの前に座った。キーボードの裏から小さな鍵を取り出すと、それで机の一番上の引き出しを開ける。中には、年代別に新聞記事をまとめたファイルが、ぎっしりと並んでいた。その中の一冊を迷うことなく引き抜き、目的の記事を見つけ出す。
『来日中の香港企業家、襲撃される』
その見出しは、一週間前の新聞各紙にお情け程度に掲載されていた。香港から東京支社建設の視察に訪れていた企業家が、滞在中の別荘を襲撃され、商談の為に持参していた現金約6000万円が強奪された。当局は、このままでは外交問題に発展する恐れもあるとして、慎重かつ迅速に捜査を進めている。とのこと。
全国紙、地方紙、共に扱っているスペースは少ないものの、ほぼ全ての新聞に似たような情報を取ってつけている。それらの記事はA4サイズの専用ファイルに綴じてあったが、見る度にこの国の情報規制を目の当たりにしているようで気分が悪かった。本当は、「企業家」ではなく「マフィア」。襲撃には間違いがないだろうけれど、聞いたところによると今回の‘損害‘だって自分達の身から出た錆を処理しようとして用意していただけのはずだ。どこの建設予定地を探してみたって、香港の企業にはまるで「東京支社」など建設の予定はない。しかし、この国でマフィアの取引が行われていたという事実が大々的になると、政府の面目は丸つぶれになるのだろう。だから、少しでも週刊誌のネタになりそうな芽は全て潰しておこうという魂胆。確実に、メディアは政府に買収されていた。
これでは何も変わらない。もしかしたら、いや、もしかしなくとも確実に、時代は繰り返すのだけなのだろう。
「みっともない」
敢えて声に出して呟いて、幸代は記事に唾を吐き掛けたいのをぐっと耐えた。
ジーンズのポケットから取り出した、新たな切抜きを貼ってからファイルを元の引き出しへとしまい、パソコンを立ち上げた。ぎっしりと見慣れないアイコンの並んだデスクトップから、手馴れた動作でいくつかクリックし、ポップアップに合わせてパスワードの入力を繰り返す。するとほどなくして、被っていたヘッドフォンから音が流れ出した。
『…で、課長はそう言ってるんですが…』
『またあの能無しが無駄に暴走しやがったか…いいか、この件というのはだな…』
『はい。では、課長は…』
聞き慣れた声が一つと、先ほどまでとはまるで違う芯の通った声が一つ。幸代が決して間違えることないであろう二つの声は、たった今、一階の和室で密談をしているはずの銭形と大岡のものだった。
「おじいちゃん、許してね」
幸代はボリュームを操作して少し音を大きくすると、ペンを片手に会話の内容をメモし始めた。
紛う事なき、盗聴である。
発信機は、先ほど和室に置いて来た盆の下に取り付けてあった。いくら大岡と銭形が相手とはいえ、彼女も警官の孫娘である。気付かれない自信はあった。まぁ、自分の家で自分の家の会話内容を盗聴するというのもおかしな話だが、幸代にはこれ以外の方法は思いつかなかったのだ。自分が近くにいたら銭形は絶対に核心に触れるような会話をしない。いつからかは知らないが、現役の頃からすでに、家族の中で刑事の顔になることは決してなかったからだ。かといって、その身で警視庁まで出向けば、顔の知れている銭形はマスコミの格好の餌食になる。よって、引退してから久しいにも拘らず相談事は銭形の家で行われるほかはなかった。警察関係者が来る時には家族は部屋から離れるというのが銭形家では暗黙の了解となっている。
『銭形さん、ルパン四世はもう既に国外へ逃亡しているのでしょうか?』
『…いや、その可能性は薄いだろう』
『と、申しますと』
『奴らは必ずカタをつけて仕事を終えるはずだ。香港マフィアが国内にいる限りは出て行かないだろう』
『…銭形さん…マフィアではなく香港の「企業家」ですよ…』
『こんなところでぐらい構わんだろうが。どうせ誰も聞いちゃいねぇよ』
『…はぁ』
(ここで一人、聞いています)
幸代は心の中で小さく舌を出すと、笑みを浮かべながらメモの続きに取り掛かる。だから、おじいちゃんは最後の最後で詰めが甘いと言われたのよ。壁に耳あり障子に目ありとは、よく言ったものだ。
警察は、まだルパン四世の足取りは掴めていないようだった。代わりに、マフィアの居所はガッチリ掴んでいる。やはり、組織は組織の動きに対しては強いのだろうか。櫓を高く建て過ぎて、足元のネズミが見つけられない、なんてことにならなければいいのだけれど、などと思いながらさらに耳をそばだてる。時折ガサゴソと書類らしきものを広げる音がして、「ここ」「そこ」と指示語が飛び交った。話の内容から察するに、どうやらルパンがマフィアの相手をする想定で、双方を一気に逮捕する作戦を練っているらしかった。コツコツと机を叩く先に何があるのか、それが知れないのがとても悔しい。何とかヒントを掴めないかと、言葉の端々に気を配って聞いていた。
それからしばらくの間盗聴を続けていた幸代だったが、やがて目ぼしい情報がなくなるとスイッチを切ることにした。銭形の話がまた過去の栄光自慢に入っている。大岡の声が急激に萎れていったのがわかった。恐らくは、そろそろ潮時だろう。
思ったとおり、パソコンのログオフボタンを押した同じタイミングで、下から怒鳴るような濁声が登ってきた。
「おい!!幸代!!」
「はぁい!!」
負けないくらいの大声で階下へ返事を返した幸代は、散らばった書類を踏みつけないよう再び注意深く歩いていくと、今度は電気を消して部屋を出た。
 
「幸代さんは、どんなことがお好きなんですか?」
隣で歩く大岡に、徐に尋ねられて幸代は我に返った。どこからか焼き魚の匂いが漂ってきた。ちょうど買い物時だ。日の傾きかけた商店街は、このご時勢にも活気に満ち溢れていた。夕日と電飾が溶け合ったどこか懐かしい匂いのするこの通りを活気もそのままに何とか21世紀に残したのも、銭形が幼馴染の町会長に意見をしてからだ。
「幸代さん?」
「え?あぁ、すみません。ちょっと考え事をしていて…」
「…そうですか」
一瞬だけ、大岡の視線が瞳の奥を覗いたような気がした。しかし、不穏な空気はすぐにかき消され、彼はまた自分が幸代の隣にいるという幸福に包まれながら悦に入って一人喋りを再開した。
「僕は普段からクラシック音楽を聴くのが趣味でしてね。お恥ずかしい話、たまの休みとなると一日中ホームシアターでDVDを眺めているほどなんですよ」
「はぁ…」
幸代は今、家から駅までの道を大岡と二人きりで並んで歩いていた。それも、階下から幸代を呼び出した銭形の命で、だ。
「幸代さんは、好きな作曲家などいらっしゃいますか?僕はやっぱりモーツァルトが好きでしてね。あぁ、そんな「王道だなんて」とか思わないで下さいね。やはり、彼は天才なんです。死後何百年も経ってなお人々に愛され続けるなんて、やはりそれは彼の音楽が本物だからに他ならないでしょう?」
「えぇ…そうですね…」
生返事も、ここまでくればいっそ怒られるんではないかと思うほど酷いものになっている。それでも、大岡は返事を貰えるだけで嬉しいようだ。詰まらないマシンガントークに拍車をかけた。
「でね、そのモーツァルトの素晴らしいところっていうのが…」
何かがおかしいのではないか。玄関を出た瞬間から、幸代は大岡が必死に喋りかける言葉を全て聞き流して考え込んでいた。なぜ、銭形は幸代を大岡の送りになど出したのだろうと、そのことばかり。あれだけ、和室での大岡の視線を親の敵でも見るような目で睨みつけていた銭形だ。幸代を見るという行為だけで嫌なのに、二人きりになどするはずがない。銭形は、彼女を厳しく躾けると共に、徹底した過保護を貫いていた。小学校の遠足にだって部下を一人見張りにつけて幸代に悪い虫がつかないよう見張っていた。中学校では、告白して来てくれた男子を陰で脅して去って行かせた。流石に高校生ともなると、幸代の方に知恵がついてきて彼氏ができるところまで漕ぎつけたのだが、それもたった一週間の短い幸せだったことをよく覚えている。以降、「こっそり」と「諦め」の連続。
それがなぜ、今日に限ってこんな鬼の霍乱とも取れる行動に出たのか。
考えられる要因が、たった一つだけあった。銭形が「大岡を送るという名目で幸代を外に出したかった」時だ。それも孫に悪い虫がつくことよりも、銭形にとって重要な何かをやりたい時。幸代の誤魔化しの効かない場所で、幸代の誤魔化しを全て暴きたい時。盆の裏の盗聴器と自室の受信機。そして、ルパン四世が関連したと思わしき事件の記事のスクラップ。全てを見つけ出したい時。
もしかして大岡は、それを承知でワザとこうやって幸代の隣でアホ面を晒しているのではないか。突然気が変わって家に引き返すことがないように、ここで見張っているのではないか?
気になりだすと、疑惑は次から次へと溢れ出し、関わる全てが疑わしくなってくる。実は、活気のある商店街は全て銭形の息がかかっていて、町の人々は一人残らず幸代を監視しているのではないか。人知れず背筋がぞっと寒くなった幸代は、震えを大岡に悟られないよう、一歩下がって歩いていくことに専念した。
どうか、私の未来が潰されませんよう。一刻も早くこの男を送り出し、家へ飛んで帰れますよう。
「気になりますか」
突然、大岡の口調が変わって幸代は思わず立ち止まった。
「え?」
「なんで銭形さんは幸代さんを僕の送りになんて出したんでしょうね」
「……」
振り向いた大岡の顔は思いのほか真剣だった。あまりに確信をつく言葉に、声が出ない。やはり、プロはプロか。所詮、素人である幸代に出し抜けるわけがなかったのか。
「もしかして、幸代さんの未来は僕に…なぁんて、考えているわけありませんよね」
「……は?」
「あはは。冗談ですよ!!」
幸代が大岡に出会ってから今までのうちで一番能天気な声で笑った大岡は、くるりと前に向き直ると、スキップでもしそうな勢いで再び歩き出した。
「…一体なんなの?」
拍子抜けした幸代のコートのポケットの中で、携帯が鳴った。着信の主は銭形。一瞬ドキリとしたものの、普段通り平静を装って通話ボタンを押した。こちらもまだ、ばれたと決まったわけではない。
「…はい」
『幸代か!!今どこにいる!?』
相変わらず、スピーカーから聞いているような大声で銭形は喋り出す。
「今、もうすぐ駅だけど?」
『そうか、大岡も一緒か?すぐに戻って来い!!』
「え?」
思わず顔を顰めて携帯を耳から話した幸代の声に、大岡が気づいた。電話の声が銭形と知って明らかに表情を暗くしている。
『…やっちまった』
「何を?」
『ぎっくり腰だ…動けん…』
「は!?」
『…階段の下から、動けんのだ!!すぐに戻ってこい!!…ッタタ…』
電話を切った幸代は、慌てて大岡に声をかけると一緒に来た道を戻ることにした。いくらなんでも幸代一人で銭形を布団のある部屋まで運べない。
商店街を走りながら、幸代は思った。一体何をしようとして、ぎっくり腰になったのか。それを今は聞くまい。なんせ、突如千載一遇のチャンスが自分に降って沸いてきたのだ。利用しない手はないだろう。
「…参ったなあ…。次の現場、来てもらおうと思ってたのに…」
大岡が隣で呟いているのが聞こえた。これは願ってもない状況だ。その事実を利用して、何とか現場に潜り込めないかとまた考えを巡らせた。
なんという、幸運の連鎖だろう。
「大岡さん、それ、私が行きます」
「は?」
「祖父の代わりに、私に参加させてください」
「そんな無茶な…」
「無茶かどうかは、私の考えを聞いてから判断してもらっても遅くはないと思います」
 
ルパン四世は、必ず自分が捕まえる。
 
かつて敏腕警部と言われた銭形でも、現役の最前線で追っている大岡でもない。
幸代は決意を新たにして、地面を蹴った。


←BACK TOP NEXT→