正義の人
3 「七見」
ガタンッ!!
強い衝撃と共に、七見は目を覚ました。天井がひっくり返っている。左腕は、何故か咄嗟にグラスを掴んでいた。何が起きたかと足元に力を入れて空を蹴り上げてみたところで、自分はソファから転げ落ちたのだと気がついた。
力の入らない腹筋を奮い立たせながら、なんとかテーブルとソファの間から抜け出す。頭を振り辺りを見回して、カーテンの隙間から明るい日の光が漏れているのを確認した。いつの間にか、朝になっていたらしい。
「ルパンの野郎…はまだか」
テーブルの上に乗っかっていた水割り用の水をグラスに注ぐと、一気に飲み干して喉を潤す。室温ほどに温められた水の塊が喉を無理矢理通過していく。しかしそれでもまだ飲み足りないほど体は水分を欲していた。生ぬるい水ほど飲んで気分の悪くなるものはないと思っている七見だが、背に腹は変えられない。ヤケクソとばかりに、今度はボトルから直接水をかっくらった。
「ったく、どこほっつき歩いてんだ」
袖で口元を拭いながら、ここにはいない相棒に向かって悪態を吐く。昨日、浴室から飛び出してくるなり「ジョギングしてくる」と言ってマンションを出て行った四世は、そのまま帰ってこなかった。途中で豪雨が襲ってきていたから、どっかで雨宿りでもしているんだろうと最初は気に留めなかった。しかし、いまだに切られた野菜は鍋に入れられることもなく干からびていたし、塩抜き中のアサリは塩水の中で窒息している。七見は、四世が出て行く直前に宣言していた。「俺は絶対に続きはやんねえぞ!」。勿論料理についてだが、結局、こうして七見一人が晩飯抜きで泣く思いをすることになるのだ。
「クソッ」
なんだか最近いつも自分が損をしているような気分になる。この間の仕事だってそうだった。四世が地下で仕事をしている間、自分は地上で見張りの役目。一応ターゲットの持ち主が日本に滞在中の香港マフィアの幹部だというからそれなりの緊張感でもって張っていたというのに、銃声は地下でしか聞こえなかった。無線で応援を呼ばれた時には、ヤツは一人で全員伸してしまっていたのだ。ただ、札束を運びきれないという理由だけで、かつてはマフィアを一団体消したこともある七見を動かした。
四世は、「退屈はさせない」と言ってこの世界に引きずり込んだのではなかったか。
まぁ、そんなこと、今更言っても始まらないが。
七見は溜息を吐きながら重い腰を上げると、台所に向かい、鍋をしまってフライパンを出した。四世が酒蒸しにすると意気込んでいたアサリは結局、鍋になるはずだった他の野菜と共に一緒くたにバターで炒められて終わった。「続き」はやっていない。
一人では食べきれないほど大量のバター炒めをダイニングテーブルに置いた七見は、イスに座ると両手を組んだ。一人の時はなるべくやるようにしているのだが、別にキリストを信じているわけではない。どちらかといえば、信じているのは過去だった。幼少期、自分を育てた青い目の父親が、毎回欠かさず食事の前に祈りを捧げていたのを、意味も判らず真似ていた時の癖。彼もまた、腕のいい殺し屋だったと人づてに聞いたことがある。実際に銃を持っている姿を見たことはないが、七見は父親を尊敬していた。この世に生きる誰よりも。もしかしたら、今この瞬間もどこかで息をしているかもしれない自分の本当の両親よりも。
じっくり一分間かけて祈った七見は、やっと食事にありつけることに安堵しながらフォークを取った。
しかし、彼の不幸はこれで終了したわけではなかったのだ。
アサリを一口頬張ったその瞬間、無慈悲なチャイムが部屋中に響いた。
「……」
海鮮エキスと、バターの成分が絶妙に絡まりあった口内を堪能しながら、七見はどうしたものかと頭を巡らせた。ここの場所は、四世と七見以外に利用している者はいない。四世は自分で鍵を持っているから、わざわざチャイムを鳴らしたりなどしない。普段からそんな習慣もない。訪ねてくるような客も、味方にはいない。警察に嗅ぎ付けられたか、新聞の勧誘か、訪問販売か、それともこないだの香港マフィアに見つかったか。どちらにしても、応答はしない方がよさそうだ。ここは運よくオートロック式のマンションである。居留守を使ってもバレはしないだろう。無理矢理入り込もうとしなければ。
だが。
もう一つの可能性を七見は忘れてはいなかった。宅配便だ。四世は、通販が好きな男だった。あれこれと夜中にネットを徘徊しては、面白そうなものや使えそうなものを物色し、食品、薬品、家電におもちゃまで、大概の物は取り寄せていた。一度など爆薬まで取り寄せたこともあったが、それは本番で不発を起こし、流石に命に関わるということで、以降仕事関係だけは実際に店へ足を運ぶことにしている。しかしそれ以外はだいたい通販に頼っていた。顔を見ないで買い物ができるというのは、自分達のような稼業の者にはありがたい。
だから四世がまた何か注文していたとしても、全く不思議ではなかった。
そう思ったら、七見にはこのチャイムを無視することはできなかった。家にいるのに受け取らなかったと知ったら、ヤツはきっと、いや絶対、自分のことは棚に上げて烈火のごとく怒り出すだろう。怒った時の四世は、自分には到底太刀打ちできないような論理でもって攻めて来る。それだけは勘弁願いたい。七見は思いっきりしかめ面を作った。ちょうど、催促するように二回目の音が鳴る。
仕方なく、ダイニングに設置されている受話器をとった。
「はい」
『○%$#☆‘&’●&‘*+*★!!!!』
「Wha…t!!?」
慌てて受話器を置いた時にはもう遅かった。向こう側での機械音に右耳が完全にイカれている。爆音ではなかったから周囲の人間は異変に気付かないだろう。そういう周波数に合わせて七見に聞かせたのだ。耳のあたりを障ってみると、僅かながら小指に血がついた。もしかしたら、鼓膜が破れたかもしれない。
「クソッ!!」
聞こえない耳にバランス感覚を失いながら、それでも七見は寝室に走った。宅配などと楽観視した自分を呪いたい気分だった。間違いなく、ドアの向こうにいるのは、こちらを殺す気で来ている人間だ。
あちこちをぶつけながら、この家で一番大きいクローゼットの扉を開ける。四世の黒いスーツの替えがぎっしりと並んでいるのをまとめて外に放りだし、二重扉のロックを解除する。ガンガンと、方耳にドアを乱暴に叩く音が聞こえてきた。マンションのロックを解除した覚えはないのに、連中が家の真ん前まで来ている。早い。ここは5階だ。きっと元々上がって来ていたのだ。これだから防犯システムはあてにならない。
やっと開いた武器庫の中から、SIG
SG552を取り出すと急いで組み立てた。その間にも、ドアを叩く音は壊す音に変わっていた。乱入してきたらと考えたらぞっとしたが、幸いなことに、四世が改造していた家のドアはそう簡単には開けられなかったようだ。ついでにサバイバルジャケットを着込んで、手榴弾をポケットに詰め込めるだけ詰め込んだ七見は、今度は慎重に慎重を重ねながら玄関へ向かった。このまま待っていても、このまま逃げ出しても、敵を倒さない限り外には出られないと踏んだのだ。
ガタンッ、とドアを蹴破られた瞬間、七見は間髪をいれずに引き金を引いた。平和な午前中に凄まじい銃撃音が鳴り響く。一番先頭にいた男が悲鳴を上げて倒れたが、それ以降はうまくよけて壁の向こうへ引っ込んでいったようだった。
「てめえら何者だ!!」
自分も洗面所へ続く壁の陰に隠れると、相手の出方を伺いながら質問をする。気配は10個。ベランダ方面にもいる。もしかしたら、ヘリまで出動しているかもしれない。
「それはこっちが聞きたい!!この間盗んだ我々の金を返せ!!」
日本語。ただし片言。声の感じでは20代。七見と大して変わらないか、年下だろう。訛りの感じからするに、アジア圏の人間だ。きっと、香港マフィアの連中だ。ただし下っ端。そいつが率いているチームならば、もしかしたらなんとかなるかもしれない。こんな奴らを差し向けるなんざ、俺らも安く見られたもんだと、七見は一瞬鼻で笑った。だから、あの時俺を参戦させればよかったんだ。そうすれば今頃、新聞の紙面上でしか奴らは生きていなかったはずだ。
「ヘッ、一週間も前の金なんざ、残ってるわけがねえだろうが!!」
その挑発に相手が乗った。一斉にアサルトライフルを連射してきた。81式自動歩槍とは、またけったいな銃だ。中国お得意の「オマージュ」作品。余計に胸糞が悪くなった七見は手榴弾のピンを抜くと、玄関に向かって放り投げた。
爆風と衝撃音の中、壁が崩れてドアが塞がった。そこにいた人間達がどうなったかは知らないが、少なくとも玄関から襲ってくる心配はしばらくしないで済みそうだった。
「クソッ、ここのアジトもおしまいじゃねえか」
注意深く辺りを探りながら洗面所を出ると、今度は書斎へと続くドアに手を掛けた。ベランダへ出るにはリビングへ向かうのが一番手っ取り早い道だったが、あそこの窓は些か大きすぎた。採光を求めるならばあれ以上理想的な窓と位置はないだろう。しかし、窓は外から覗けば部屋全体を見渡せる構造になっていたし、位置はこちらにとってこの時間はちょうど逆光だった。敵に立ち向かうのにあの窓と位置では、「敢えて殺してくれ」と言っているようなものだ。
書斎のドアを意識して細く開けた七見は、中の状態を瞬時に観察した。人の気配はない。荒らされた様子もない。おまけのようについている西向きの窓が開けられた痕跡もなかった。するりと部屋の中へ滑り込むと、ドアを閉め、さらに中を見回した。本当に、昨日までと同じ状態が保たれている。
「…おかしいな」
この部屋には、仕事に関する重要なデータが詰まっているパソコンが置いてあった。「金を返せ」と先ほどのアジア人は言っていた。と、いうことは、自分達を殺すことだけが奴らの目的ではないはずだ。金を奪い返すためにこの家の中の情報もそれなりに得ているだろう。七見がもしも敵として襲撃するのならば、何よりもまずこの部屋を重点的に捜索する。データを盗むにしても、壊すにしても。そして自分が玄関に気を取られていた先ほどまでならば、それは容易い仕事のはずだった。
外にいる敵に見つからないよう、一歩一歩確かめるように壁沿いを進んだ七見は、窓の傍まで寄るとこっそり外を窺ってみる。相手もプロなのだから当然だろうが、見える範囲に人影はない。それどころか、先ほどまではひしひしと感じ取っていた殺気までもが、まるで嘘の様に消え去っていた。
一体何が起こったのか、七見には皆目見当がつかなかった。まさか、手榴弾の音に慄いて逃げるほど腑抜けた連中でもあるまい。
でも、確実に相手は「消えていた」。
念のため自分の目で確かめようと、七見は窓に手を掛けた。なにせ気配を察するための最重要ツールである耳が片方やられている。気を抜いた瞬間に後ろからドン、ということにもなりかねない。
溜息を吐いて、自分の腰より少し高い位置にある窓を開けた時だった。
「止まれ」
鋭い命令と共に、こめかみに銃を押し付けられた。言われなくても、七見の動きは一瞬で硬直した。気がつかなかった。なぜ、という疑問符だけが頭の中を支配していた。自分の判断ミスに対する後悔としては先ほどの比ではない。体中の血液がそれこそ一気に引いていった。背中の毛穴という毛穴が全開になり、総毛立ち、血の代わりに、空気の代わりに、汗が噴出した。一瞬で体内時間が一年を経過した。
(死ぬ)
やがてそれだけが、やっと脳から全身に伝達された。見開いた目は、隣を見遣ることもできない。
そろそろと、ゆっくり両手を高く掲げる。途端に、右手のSG552は毟り取られる。腰に差してあったマグナムも。
「外に出てきてもらおうか」
こめかみに当てられた銃でこつんと突かれると、七見は思わず逆上して相手を振り向いた。「誰にものを言っている」と叫びそうになったところで、はっと息を飲み込んだ。これはチャンスだということに気がついたのだ。先ほど迷うことなく引き金を引かれていたら、間違いなく脳みそがミンチになっていた。しかし、相手は自分を外へ出そうとしている。恐らくは、それなりの場所へ連れて行ってじっくり拷問にでも掛けるつもりなのかもしれないが、それは、隙を伺う方の自分にとっては逆に好都合だ。絶対にどこかで隙は生まれる。その「隙」を逃さない自信が七見にはあった。
相手の男を殴りつけたいのをぐっと堪えて、七見は指示に従った。ベランダに縄梯子が掛けられていて、下りるよう指示された。下には黒塗りのベンツが控えている。後部座席からライフルが首を覗かせていた。一つでもルートを違えようものならば、蜂の巣にしてやるという脅しだろう。上空には、思ったとおりに監視ヘリが飛んでいる。その数十メートル先の公園では、主婦が井戸端会議に華を咲かせ、幼稚園にも満たない子供達が走り回っているのが見えた。ヘリを指差し、目を輝かせている姿もある。なんとも不思議な光景だった。
下まで降りると、ライフルが覗いている方とは反対のドアから後部座席に押し込められた。目隠しや拘束具の類はない。どれだけ無用心なのかと思いながらライフルの狙撃主を見てまた驚いた。ちょうど窓を閉め切って銃を置いた狙撃主は、女だ。着ている制服は男のそれと変わらないが、細い肩のライン、ジャケットの上からでもわかる胸の膨らみは間違いない。
男は気にする様子もなくそのまま運転席に乗り込むと、助手席に銃を置いて走り出した。
舐められているのか。それとも何か仕掛けがあるのか。七見はしばし考えを巡らせた。運転席と後部座席の間には防弾プレートが填め込まれていたが、女から銃を奪って至近距離から撃ち込めば割れないこともないだろう。女に銃を突きつけて、降ろすよう脅したっていい。
できなくはない。いや、七見にとっては朝飯前にも等しい。
だが。
「鼓膜破れただろう。大丈夫か?」
聞き慣れた声でそう聞かれた瞬間、頭の中からは全てが吹き飛んだ。勢いに任せて運転手を見る。いつの間にか防弾プレートの取り払われている運転席から、バックミラー越しに目を遣っていたのはなんと相棒だった。
途端に七見は合点がいった。四世は全て見ていたのだ。自宅に侵入しようとしていた台湾マフィアを見つけ、うまく潜り込んだ。ベランダから突入する部隊にくっついていき、手榴弾が炸裂するタイミングで、ドサクサ紛れに全員伸した。これなら、書斎にマフィアが入って来られなかったのも、七見のいる場所が突然見破られたのも説明がつく。気配ではなく行動パターン。相棒なら、わかって当然だ。
「…ッテメェ!!」
「ワッ!!七見、前!!前!!」
思わず四世に飛び掛った七見だったが、当然、走行中の車内である。四世がバランスを崩したのに合わせてタイヤが蛇行を始めると、振り回された車内で七見はあっという間にバックシートに叩きつけられた。四世が首を抑えて咽込んでいるのが見えたが、こっちはこっちで一瞬息ができなくなる。
「…ッ!!今までどこで何してた!!」
悔し紛れにそう叫ぶ。どうして、いつもいつもいつも、こうやって貧乏くじを引くのは俺なんだ!!お前はどうせ一晩この女とよろしくやってたんだろうが、なんで俺はここで台湾のガキなんか相手にしなきゃなんねえんだ!!
口から吐いた言葉は止まらなかった。隣に赤の他人がいるのもすっかり忘れ、ついでに我をも忘れて七見は四世に食って掛かった。おかげでこっちは方耳しばらく使えなくなっちまったじゃねぇか!!
「ごめん!!ごめんってば、七見〜!!あのヘリを撒いたら、ちゃんと説明するからさぁ」
チラリと四世は上空を見上げる。例のヘリは、いまだベンツの上を飛行していた。怪しいと思っているのか、単に向かう方角が同じだから着いて来ているだけなのか。いずれにせよ、他の人間は全部マンションに置いてきていたから、敵はあのヘリ一機になる。
四世につられて上を見上げた七見は、一瞬外の立地を確認してから助手席に手を伸ばすと、自分のマグナムを掴み取った。
「何?何する気なの?七見さん?」
心配そうに呟いた四世を無視して、弾を詰め替え、後部座席の窓を全開にした七見は身を乗り出して照準を定めた。気付いたヘリが一気に減速を試みようとする。
「待て七見!!」
「遅いっ」
発射された弾は、見事にエンジンを撃ち抜いていた。次の瞬間、まるでハリウッド映画のクライマックスのようにヘリが大爆発した。クルクルと舞いながら、残骸は煙を上げて隣の川の中に突っ込んでいく。
「おいおい、ここは日本だよ〜…」
運転していた四世は、破片を浴びないように必死でハンドルを捌いていき、それが済むと今度は逃走の為にスピードを上げた。いくら器用な彼でも、余裕があるわけがなかった。
そんな四世を嘲笑するかのように七見が言う。
「さて、ルパン四世君。説明してもらおうか」
形勢は逆転された。
まるで巨大企業の重役のように深々とシートに沈んだ七見は、胸元からラッキーストライクを取り出して火をつける。深々と、勝利の一服を吸い込んだ。日本だろうがアメリカだろうが、そんなことは全く関係がない。立ちはだかるものには、立ち向かう。これが昔からのスタイルだ。
それからしばらくネチネチと四世を攻撃して、飽きた七見はやっと隣を見た。
「ところでこの女、誰だ?」