正義の人
2 「大岡」
よく晴れた、それこそ冬晴れというには相応しいある日の午後。
大岡忠之は、埼玉県のとある住宅街の中をもう20分もトボトボと歩いていた。
「…なんで今更…俺がこの道を歩かなきゃなんねぇんだ」
普段はインテリを気取っている彼である。言葉遣いには殊更気を使っていたが、今回ばかりは乱れも目立つ。不本意に上司からご機嫌伺いの役目を押し付けられ、なぜかと聞くと「未だにルパン四世を捕まえられないからだ」と怒鳴られた。車の使用も禁止されてしまった。確かに、この間の予告状から始まった事件でも大岡は四世を捕まえられなかった。それどころか無駄に車を一台炎上させた。警察の怠慢だと、マスコミにも叩かれた。その非は認めるとしよう。己の采配がまたもやルパンに出し抜かれたのだから。しかしだ。捕まえられない犯人など、警視庁にはゴマンといるこのご時勢だ。俺がここを歩いているのなら、捜査一課全員で古畑任三郎にでも菓子折り持って挨拶してこいってんだ。
…いや、こんな田舎の住宅街を歩いているより片隅でも東京の街を歩く方が幾分贅沢か。
心の愚痴の中でも見えぬ何かに負けたことに気がついて、大岡はさらに肩を落とした。所詮ルパンに出会ってしまったのが運の尽き。世界中の警察官の不運を背負って生きていくしかないのだろう…。
溜息を吐きながら歩き続けていると、ようやく坂の向こうに目的の家が見えてきた。赤い屋根が特徴の、見た目にも古いとわかる築三十年の鉄筋コンクリート。
家の目印が追ってきたホシのトレードカラーとあっちゃ、このじいさんも相当イカれてやがるな…。また心の中で呟いて、大岡はニヤリと笑った。今のはちょっと胸がすく。
と、肩口に軽い衝撃が走って、大岡は自分が前をろくに見ていなかったことに気がついた。
「あ、すみません」
ぶつかって倒れかけた女性を咄嗟に抱き止め、自分の土産を落としてしまった。また嫌味の一つでも言われそうで顰めた眉は、しかし一瞬で八の字に垂れさがった。
「いえ…こちらこそ」
そう言って顔を上げた相手は、思いのほか美人だったのだ。何て田舎にそぐわない顔立ちなのだろう。慌てて離れる伏目がちの長い睫を見て、思わず唾を飲み込む。
「お怪我はありませんか?」
落とした土産を拾いながらも、目線は女性から離さない。色白に映える黒髪に、勝気な眉とピンク色の唇。平均よりも少しだけ高い身長が余計に、彼女の都会的な魅力を引き出していた。
「ええ。ありがとうございます」
一瞬だけ微笑んだその顔に見覚えがあるような気がした。もしかしたら、彼女は運命の相手なのかもしれない。インスピレーションや占いなど全く信じない彼だったが、初めて会った相手に対するものとしてこの既視感は尋常ではない。
いつの間にか女性は走り去り、大岡は道路上に一人取り残された。
しかし、初めて彼は思ったのだ。
彼女とは、必ず何処かで再会する。
「またあのボーズに逃げられたのか!?」
これだからお前は土産の一つも満足に持って来られないんだ!!と怒声は続いた。
障子越しに冬の日が入る、南向きの暖かい和室。取り立てて高価な調度品があるわけではなかったが、趣味のよいインテリアと清潔感の保たれた部屋。ここだけ見ればとてもじゃないが古い物件に見えないのは、単に妻の内助の功というやつだろう。
案の上、大岡の報告を聞きながら将棋駒を遊ばせていた銭形の言葉に、容赦はなかった。しかしだ。もし今の言葉をかつての銭形を知る者…とりわけルパン三世などが聞いていたら、腹を抱えて笑い出していたに違いない。思い出は何だって美しく変わるとはいっても、彼がルパン三世を取り逃した回数は半端ではない。
「もう何度目になる?幾らルパン一族と言えど、奴はまだガキに毛の生えたような輩だぞ?昔のワシならばなぁ…」
思った通り、今までと一言一句違わぬ文言で年寄りの武勇伝が始まった。もう一度言うが、彼がルパン三世を取り逃がした数は半端ではないのだ。数少ない成功例。それなのに、目の前で正座をしていた大岡は、入庁以来もう何度目になるかもわからないその話を、それでも尊敬する大先輩の話だと神妙な面持ちでじっと聞いて見せた。これは儀式。修行。慣わし。その類だと己を言い聞かせながら。これでも厳しい難関を潜り抜けてこの地位まで登ってきたのだ。我慢比べなら、そこそこ負けない自信はある。
「ワシは当時の警視庁の技術を全て駆使して、ルパンの情報を血眼になって探し出したのだ」
…あるにはあるが、それにだって限度というものがある。
「その時のルパンといったらもう!!心底悔しそうな顔をしておったわい。奴は完全に丸腰だったからな。ワシが麻酔銃を使わなければ死んでいるところだったのだ」
「いっそ殺してくれればよかったのに…」
「あ?なんか言ったか?」
負けない自信が挫けかけた頃思わず呟いた一言に、惜しくも銭形が反応してしまった。ジロリと睨み付ける仕草はとてもじゃないが引退したようには見えない。確か、マルボウにこんな目をした刑事がいたな…などと余計なことまで考えてしまうが、それは現実逃避だ。銭形はこうなるともう、手がつけられない。
「…イッ、いえ…」
「だから最近の若い刑事は駄目だといっとるんだ!!忍耐が足りん!!忍耐が!!大岡!!お前は明日の飯もわからん生活をしたことがあるか!?」
「…い、いえ…」
こっそり正座をずらすとまた怒鳴られた。興奮すると前後の見境なく怒鳴り散らすのは、いつものことだが勘弁して欲しい。大岡は入庁以来特別銭形の説教につき合わされていた。「気に入られてんだよ」と警視庁の先輩にはよく慰め半分言われたが、自分には後輩イビリだとしか思えない。こんな酷い怒り方をする人間は、警察学校でだって見たことがない。その役目も、最近はやっと若い人間に変わって安心していたのに。
難事件が発生するたびにこうやって意見を聞きに行くほど銭形は今でも有能だ。正確に経理に問い合わせたことはないが、謝礼だけで探偵としての商売が成り立つのではないかと思うほどである。解決した事件は一件や二件ではない。しかしその解決の裏で、毎回若い刑事が「生贄」にされているのも事実だ。時代が違うのだ、時代が。今の日本、どこの刑事が明日の飯も食えないような生活をしているというのだろう。
「お前ら若モンには『不屈の精神』ってもんが足りんのだ!!こないだうちに来た刑事なんぞ、ワシが説教してやってる最中だというのに途中で泣きべそ掻きながら逃げ帰って行きよったぞ!!おい、大岡!!お前は部下にどんな躾をしてるんだ!!」
「ハッ、申し訳ありません!!」
本当は、部下の女々しさなんて自分には関係がないと思っている。「不屈の精神」の時代ももう古い。大岡も、部下達も、仕事だからこうして一緒に機械的に組織の一部となって捜査をしているだけで、一歩警察を出れば赤の他人にも等しいのだ。決められた命令を出し、それに対して決められた成果を出してくれば、それ以外の何も(ましてや人間性なんて)知ったこっちゃない!!
思わず口から飛び出しかけた文句をかろうじで飲み込んで頭を下げた時だった。上から天使のような涼やかな助け舟が出されたのは。
「そんなに怒鳴りつけちゃ、刑事さんが可哀相じゃないの」
「ヌッ…」
まさしく鶴の一声だった。止まることのなかった銭形の濁声が、一瞬で止んでしまった。
「仮にもおじいちゃんを頼ってきたお客様でしょう?」
「す、すまん…」
天変地異というものは、起こるものなのだ。あの銭形が謝った…。それどころか、鉄壁の自分勝手を誇るあの説教をたった一言で抑えた。なんということだろう。信じられないその人物は、一体何者か。奇跡を体験した気分で思わず大岡が顔を上げた瞬間、目に飛び込んできたのはなんとも眩しいばかりの生足だった。
捨てる神あれば拾う神あり。大岡は思わず拝みたくなるような勢いで足の主を仰いだ。
ところがだ。
「え?」
顔を見合わせてお互いに固まってしまった。
「あなたは…」
「なんだ!?ナンパでもされたか!?」
「…おじいちゃんは黙ってて!!」
銭形の大声を一蹴した女性が、ぺこりとばつが悪そうに頭を下げた。デジャヴ。その姿は、大岡がついさっき道ばたで目にしたばかりだった。
「まさかあなたが祖父を訪ねていらっしゃったお客様だったとは…。先ほどは失礼致しました。私、銭形の孫で幸代と申します。祖父がいつもお世話になっております」
彼女はまた、はにかんだ様なかわいらしい笑みを浮かべる。しかし大岡はそれどころではない。あまりのショックに声が出ない。
「なんだ!!貴様、せっかく幸代が挨拶してるというのに、まともな挨拶もできんのか!!」
「おじいちゃん!!」
銭形に小突かれて、やっと大岡は正気に戻った。しかし、きっと顔面は蒼白だったに違いない。自分でも分かるほど、首から上に血が通っていなかった。
「あ、いや、その、先ほどはこちらこそ…失礼を…あの、大岡…大岡忠之、と申します」
それだけをやっと言う。
「…あの、大岡さん?差し出がましいようですが…お顔の色がよろしくないかと…大丈夫ですか?」
「い…いや、大丈夫です…」
「貴様!!孫に色目を使ってないでシャキッとせんか!!」
これが色目を使ってる目かよ…。そう思ったのと同時に、ガツンと脳天に振動が響いた。銭形が、拳を振るったのだと想像がついたが、今の大岡には避ける事も防御することも全くできなかった。いつもならば、この手の攻撃はうまくかわして土下座に持って行く彼である。それほどまでに美女の正体は衝撃的だった。
薄れ行く意識の中で最後に目に映った銭形は、その大岡の腑抜ぶりに目を白黒させて驚いていた。まさか自分がまともに拳を受けるとは思ってなかったのだろう。
しかし。そんなことはどうでもいい。
暗闇の中で大岡は思った。
まさか、生まれて初めて運命を感じたオンナが銭形の孫だったとは…。
そりゃあ、容姿に見覚えがあるはずだ。目元なんて特にそっくりなんだから。
こりゃあ、先が思いやられる…。
夢なら早く醒めてくれ。
(そして目が覚めたら、「銭形の血縁ではない」あの女性が隣にいてくれますように)
勿論、大岡の切実な願いが適う見込みは、確実にゼロパーセントであった。