正義の人
1 「四世」
「…お前、最近ちょっと腹出てきたんじゃねぇか?」
きっかけは、そんな七見の一言だった。
冗談半分に、それか喧嘩の途中にでも勢いよく吐き出された一言だったら、四世だって差ほど気にはしなかっただろう。
だが、その時四世はきちんと当番をこなして二人分の夕食を作っているところだったし、別にテーブルの上で行われていた七見の銃の手入れを邪魔したわけでもない。仕事は終わったばかりで、山分けした報酬はまだたんまり残っているはずだった。
何よりも、普段はぶっきらぼうな七見の、そのちょっと躊躇いがちな、妙に人を気にしつつ迷ったような言い方が、余計に真実を物語っているような気がしていた。
「…まじかよ」
問い返すも、七見は四世の目を見ようともしない。
サッと血の気が引くとはまさにこのことで、それを肯定と受け取った四世は慌てて風呂に入ると己の体を確かめた。まだ「メタボリック」を気にするには若干早いと自負している年頃だ。もしも今からこの怖い単語とお友達になろうものなら、世界中の女の子の60%…いや80%は彼の体型に引いていくだろう。そうとなれば、己の趣味の半減どころか、ルパン一族の存亡にも関わり兼ねない。
「それだけは勘弁!!」
真冬の風呂場、寒さに震えながらシャワーを捻り、大声で叫びながら修行僧のように浴びる。途端目の前に上がった湯煙の、その向こうに鏡に映る己がいる。
ショックはなるべく小さいように…。そろりそろりと横を向いた四世は、暫く立ち尽くした末に心に固く決めたのだ。
よし。
今日からジョギングだ。
そんなわけで、ルパン四世はたった今、防寒用のウインドブレーカーを着込んで、夜も更けた堤防沿いのランニングコースを他のジョガーと一緒になって走っていた。
思い立ったら行動に移るのが早いことが、四世のいいところでもある。「明日になったら」が、万人に通用する魔法のサボり言葉だというのは、仕事以外にはてんでものぐさな自分の師匠達を見ているせいで幼い頃から知っていた。あんな大人にはならない、と心に固く誓ったのはいつの日だったか。とにかく、四世は思い立ったことはとりあえず必ずその日に実行へ移すことに決めている。
周りでは、いろいろな人間がそれぞれのスタイルでそれぞれのジョギングを楽しんでいた。スポーツの練習か、父親と一緒に一生懸命走っている少年。音楽を聴きながら、ポニーテールを揺らしているニューヨーカー風美女。健康の為、張り切って腕を挙げている壮年の夫婦。
彼らは一様に、川沿いの、水銀灯に照らされた道を黙々と進み続けていた。
こうして人間観察をしながら何かをすることも、嫌いではない。たまに自転車を転がして颯爽と追い抜かしていく人間たちには闘争本能を掻き立てられそうになりつつも、四世は順調に川沿いを下っていった。頬に当たる風は、最初は身を切るようだったものの、すぐに体温の上昇を防ぐいいクスリとなった。やがて熱の篭り始めたウインドブレーカーの、シャカシャカという摩擦音は、ペースを保つのに役立っている。心臓の鼓動が、生きていることを実感させる…というのは大袈裟かもしれないが、これは、想像していたよりも楽しいかもしれない。
四世は人知れずにんまりと、新しいおもちゃを見つけた子供のように笑ってみた。
ところが、だ。
神様というのは無慈悲なもので、人が折角いい気分で体の為になるようなことをしている時に限って悪戯心に火をつける。
突然の豪雨がジョガーたちを襲い始めたのだ。ポツリポツリときたかと思ったら、あっという間に嵐に変わった。俗に言う、「ゲリラ豪雨」とやらに間違いが無い。昼間は、この冬一番の快晴だと、お天気お姉さんも言っていたというのに。しかも夏ならともかく、今は真冬だ。
「なんだよ腐れ天気目が!!」
程よく暖まった体はあっという間に熱を奪われた。歯をガチガチ言わせて思いっきり吐いた悪態も豪雨に飲まれながら、四世はとりあえず近場の店の軒先に逃げ込む。古ぼけたシャッターが閉まり、妙に達筆な文字で書かれた「閉店しました」の紙切れも風雨に晒され今にも剥がれ落ちそうだ。時たま吹き込んでくる鉛のような雨粒は四世の体力を消耗させたが、それでも何も無いところにいるよりかは幾分ましだろう。周りにいた他のジョガーたちは別のところに逃げ込んだのか、それとも家が近くて帰ることに成功したのか、この店先にいるのは四世一人だった。
「七見迎えに来てくれないかなぁ…」
そういえば、携帯で電話すれば来てくれるかもしれない。まるで川にでも飛び込んだのではないかと思うほど全身がぐっしょりと濡れているのだ。濡れ鼠になった体をさすりつつ、ウインドブレーカーのポケットに手を突っ込んだ。瞬間、嫌な予感がした。ポケットの中まで水っぽい。
「ゲッ」
思ったとおり、取り出した携帯のディスプレイは電源を落としたわけでもないのに真っ暗だった。どんなにボタンを押しても、機体を振っても、電池パックを外してまた着けてみても、うんともすんとも言わない。
どうやら携帯はその機能を雨の勢いと共にふっ飛ばしてしまったらしい。この中には、最近知り合った女の子の連絡先がゴマンと入っていたのに…。これではもう二度と、あの子たちには逢えないではないか。
「くっそー!!七見の野郎!!余計なこと言いやがって!!」
わけのわからない八つ当たりをしながら、怒りに任せて携帯を道路に叩きつけようとしたその時だった。
左側からピチャピチャと水を跳ねる足音がした。
雨以外の音がなぜ今耳に届くのか、と思いながら音のした方に目を向けると、水幕の向こうから一人の女がこの軒先を目指して走ってくるところだった。
「わーお、可愛い女の子…」
すぐさま癇癪を取りやめた四世は身なりを整えて走ってくる女の為に場所を少し開ける。自分の為にスペースが開けられたことに気づくと、女は少しだけ足を早めてその場所に入った。
「すみません。弱まったらすぐに出て行くので…」
濡れた手で濡れたコートを払いながら女が言った。トレンチコートにスーツという、ビジネスウーマンのような出で立ち。首に引っかかったカシミヤらしいマフラーは、雨に濡れて暖かさをとうに失っているようだった。意思を持った力の強い瞳は、今はこの雨をどうしようと困り気味で、ふっくらとした唇は青ざめている。肩まである栗色の髪は濡れていてもなお真っ直ぐで、それは触れたらさらさらと流れていきそうだ。正直、四世のタイプである。
「いえいえ、こちらも雨宿り中の身ですから」
精一杯の営業スマイルを返して、四世はすばやく今後の勝算を計算した。自己紹介をして、身近な話題を提供して、話が弾んで雨が止んだらそこらのカフェ…は濡れた身では行けないから、ここは早くもホテルか?
グフフと下品な笑いをもらした四世に、女が振り向いた。しまった、下心を見破られたか。気を取り直すように一つ咳払いをした彼は、まずは様子を見てみようと黙って雨が止むのを待つ振りをすることにした。
女はトレンチコートの襟を掻き集め、白い息を両手に吐きかけながらじっと外を見つめている。何か思いついたのか、肩にかけたトートバッグ(アレは思うにエルメスだ)の中身を暫く漁っていたが、成果は無かったようで小さな溜息を吐いていた。
四世は彼女のために何か寒さをしのげる物でもないかと頭を巡らせてみるものの、同じだけ水分を含んだ今の自分に、与えることができるものは何も無い。こちらも同じように(ただし多量に下心を含んで)溜息を一つ吐いた。
雨はしとしとと…などというには程遠いほどの煩さで降り続いている。このまま降っていたら店先の屋根まで落ちてくるかもしれない。
どこまでも、憂鬱な気分が広がってゆく。
「あの…」
ここは気分を一新しようと、四世は思い切って女に声をかけてみた。さきほどの調子から察するに、とりあえずは邪険に扱われることは無いだろう。
「はい?」
まさか話しかけられるとは思ってもいなかったのか、女は驚いて勢いよく振り向いた。丸く見開かれた瞳がとても澄んでいるのが、街頭の明かりしかない夜でもわかる。
「寒くありませんか?」
「…はぁ」
驚いた顔は見る間に怪訝な顔つきになってゆく。当たり前だ。この状況で寒くない者などいない。
「もし良かったら、雨が止むまでの間お話でもしませんか?ちょっとは暖かくなるかもしれない」
ニッと、四世は白い歯を見せて笑って見せた。屈託の無い笑顔だと、定評のある顔だ。
「…余計に寒くなるかもしれないですけれどね」
暫く逡巡した後、恐い顔でそう言ってからニコリと、女は警戒心を解いたような笑顔を見せた。ハハッ、それは恐い、と今度は本気で噴出してしまった。
今夜は、意外と楽しい夜になるかもしれない。
女は、都内に住む会社員で、そこそこ名の知れた出版社の編集をしていると言う。今日は恵比寿に住む作家先生の家へ原稿を取りに行って、追い返され、意気消沈していたところにこれだと、おどけて嘆いた。
そちらは何をなさっているんですか、と無邪気な瞳を向けられて四世は一瞬言葉に詰まった。まさかこの世の中「泥棒です」と答えるわけにはいかない。
「一言で言うのは難しいんですが…自営業です。何でも承っていますよ。運送から素行調査から錠前開けまで」
嘘ではない。
「何でも屋さんなんですね。凄い!!」
本当にそういう職業の方がいらっしゃるなんて思わなかったわ。そう言って、女はまた無邪気に笑った。
「あの」
やがて先に声をかけたのは女の方だった。
「はい?」
だから四世が悪いわけでは決してない。
「雨、止んできましたね」
「そうですね。そろそろ帰れるかもしれない」
彼自身は今でも信じている。
「あの」
彼女が。
「はい?」
「もし、この後ご予定が無ければ、ご一緒していただけませんか?」
彼女が最初に四世を誘ったのだ。
「ユキ…。私、ユキっていいます…あの…だから…その…」
据え膳食わぬは何とやら。たどたどしく自己紹介を始める彼女の姿はなんとも愛おしかった。
四世にとっては、ただ「予感が当たった」だけに過ぎない。
だから彼が悪いわけでは決してない。
この日に限っては。