独り立ち
W
AM1:00 都内某所―。
銀座から最終電車を乗り継いでやって来た四世は、真っ暗で狭い路地裏を何ら迷うことなく一つの古いビルの前に辿り着くと、立ち止まって最上階を見上げた。変装していた警官の服はいつの間にやら脱ぎ捨てられており、今は黒のスーツに青いボタンダウンのシャツを着ている。その上緩めているネクタイはブランド物の黒。若い上に派手な顔つきのため、姿はさながら歌舞伎町のホストであったが、帽子こそ被っていないものの彼の父親の相棒、次元大介に似せているのは言うまでもない。
なぜ、そんな格好を制服のごとく当たり前のように着こなしているかはまた別の機会に話すこととして。
「待ってろよ、この間抜けオヤジ…。」
四世はそう呟いて、年季の入った鉄とコンクリートの塊の中に吸い込まれていった。
コンコン。
ノックの音に、机に向かっていた老人は、読んでいた本から目を上げた。
小太りの、典型的な金持ち体形。両手に輝く色とりどりの宝石達は、お世辞にも趣味がいいとは言えないくらい、アクセントにしては大き過ぎた。白いシャツの上に纏われた茶色のベストは、腹が大き過ぎるためにはち切れんばかりの皺を寄せている。横に楕円形の輪郭に、人相が悪いわけではないのにわかる者だったらすぐに気づくであろう狡猾そうな目の光。真っ白に染め上げられたオールバックの髪からは、全く苦労をせずに、そして決して手を汚さずに世の中を渡ってきたわけではないことがわかる。
「何だ。」
「失礼します。」
声と共に開いたドアの向こうに現れたのは、彼の三倍は間違いなく若いであろう一人の女性秘書だった。
艶やかに輝く漆黒の長髪に同じ色をした瞳。対照的な白い肌。ボタン二つ分は開いているというのに、ふくよかなバストは老人と御揃いのように真っ白なシャツに変な皴を寄せさせている。どこかのグラビアモデルかと見紛う様なスーパーボディーは、暗に彼女と老人の関係が主人とその秘書であることに留まらない事を示唆しているようにも見えた。
「社長、ルパン様がお見えになりましたが。」
凛としたよく通る声に、老人はニヤリと腹黒く笑って本を大きなデスクの引き出しにしまった。
「よろしい。お通ししろ。」
「畏まりました。」
深々とお辞儀をして消えた彼女が再び戻ってきた時、その後ろには仏頂面の四世が立っていた。
「まぁ、そうあからさまな顔をするでない。美男子が台無しだぞ。」
チラリと彼を見やった老人は楽しそうにそう言うと、机の前にある応接セットへと彼を促した。動き出した彼を見届けた秘書が、最初と同じように「失礼します。」とだけ言って、静かに部屋を出ていく。
四世は、ポケットに手を突っ込んだまま黒い上等な革のソファに腰を下ろし、老人が向かいに座るのを待ってから不機嫌に口を開いた。
「この店は来店した客に、茶すら出せねぇのかよ。」
「生憎と、ここにはオフィスを構えたばかりでね。必要なものすら揃っていないのだ。失礼を許してくれたまえ。そこら辺で買ってきた粗茶を君に出せるほど、落ちぶれちゃいないしの。」
飄々と老人が答える。
さらさら期待なんてしてなかったのだろう。四世は鼻を鳴らしただけに留め、早速本題に入ることにした。
「約束のモンは持ってきた。親父を返して貰おうか?」
そう言いながら、四世の目がゆっくりと変わり始めた。
「焦るでない。」
気づかない振りをしてゆっくりと言った老人は、懐からパイプを取り出すと、手慣れた手つきで火を付ける。
「日が昇るまではまだだいぶ時間がある。ゆっくり世間話をしながら…でもいいじゃないか。」
フンッ。と再び四世が鼻を鳴らした。
「さっさとした方が身のためだよ。現代っ子はキレやすいんだぜ、じいさん。」
その表情は、すでにさっきデパートで見せたのと同じ顔とは思えない位冷えきっている。女に向けた地を這うような声を出した時だって、もう少しかわいい顔をしていただろう。
無表情。
というのに一番近い気もするが、それすら正しい表現かどうかわからなかった。声だけ聞けば非常に機嫌が悪い事がわかるのだが、それも口を閉ざしてしまえばわからない。本当に怒っているのかどうかすら疑わしかった。微笑むでも、目を吊り上げるでもない。完璧に、何か見えないヴェールのようなもので感情を覆い隠していた。「隠している」という事実だけを残して。
それとは対照的に、老人は暖かな笑みを崩さなかった。これも恐らくは何かを企んでの微笑なのだろうが、端から見ていると、無力な老人と彼を脅迫するインテリヤクザのようにも見えなくはない。いずれにせよ、少なくとも今の四世に比べればその感情はよっぽど人間らしいもののように見えた。
「…そうか。残念だな。まぁいい。取引を始めようか。」
仕方がない、と言うように肩をくすめた老人は、パイプを口に咥えたまま立ち上がる。
「その前に。」
自分より三倍以上の年齢は重ねてきたと思われる老人の動きを、突然、たった一言で四世は制した。
「何だね?現代っ子はキレやすいんじゃなかったのかね?」
「気が変わった。現代っ子は気も変わりやすいんだよ。…一つ質問したいことがある。」
「…よかろう。」
老人は仕方ないとでも言うように再びソファに腰を下ろすと、大理石のテーブルに両肘をついて手を組んだ。
「何だね?」
「親父をどうやって拉致した?」
「…というと?」
「あいつは腐っても天下の大泥棒ルパン三世だ。捕まるにしてもそう簡単にはいかねぇよ。」
「ほほう。」
老人は目を細めると楽しそうに笑った。
「随分と君は親父さんを尊敬しているんだね。現代の若者にも見習って欲しいものだ。」
「話を逸らすんじゃねぇ。」
一方の四世はびくりともせずに目だけ凄みを利かせて老人に迫る。
「言ったろ?現代っ子はキレやすいんだ。」
「分かった分かった。すまなかったよ。」
お話しよう、と首を竦ませた老人はさっきの秘書を再び呼んだ。
「彼女に協力してもらったんだよ。」
「色仕掛け…。」
思ったとおりの協力者に、四世は思わず笑ってしまう。
「確かに、これじゃああのエロ親父も引っ掛かるわ。」
しかし彼の笑みは長くは続かなかった。何かに気づいたようにしばらく彼女を見つめると、ふと呟く。
「不二子か…。」
不意を突いたこの言葉に、老人と秘書が流石面食らった。
「な、何だと!?」
「てめぇの年の半分もいってねぇからって、俺を見くびんじゃねぇぞ。自分を生んだ親の体型くらい、いくら声や顔変えたってわかんだよ。手抜きしやがって。」
「…そう、さすがねボウヤ。」
秘書は、急に四世の聞きなれた声でそう言うと、諦めよく自分の顔を掴んで思いっきり引っ張った。
ベリッという音がして奥から出てきたその素顔はまさしく、かつて世界中の男を虜にした美貌の持ち主、峰不二子だった。結構な年になったはずの彼女だったが、見た目だけではそうとは思えないほど美しい。それどころか、年を重ねたせいでますます妖艶になっていた。
「その年になってまで、まだ商売するつもりか?」
自分の母親にも関わらず、四世は口調を和らげようともせずに聞いた。過去によほど酷い目に遭わされたのかもしれない。
「ウフフ。母親に対して随分な言い様ね。」
「ハンッ。お前に一回でも母親らしいことしてもらったことがあったかよっ。オカアサン!」
「そうね、あなたを育てたのはほとんど次元ですものね。その口調、そっくりだわ。」
不二子はさして悪びれるようでもなくそう言うと、老人の隣に腰を下ろした。
「ルパンを拉致してあなたを脅迫したのは、もちろんお金の為に私が仕組んだことよ。悲しいけれど、私もそろそろ老後の心配をしなきゃいけない年になっちゃったんですもの。どうしようと思っていたら、ここの社長が『女王の首飾り』を手に入れたら30億払ってもいいって言ってくださったのよ。だからルパンを餌にあなたにお願いしたって訳。」
「なるほどね。」
四世は片眉を上げて生意気に笑ってみせた。
「ところで親父はどこ?」
「その前に首飾りが先でしょ、ボウヤ?」
不二子はすかさず両手を差し出して催促した。
「オレもうボウヤって年じゃないんだけどなぁ…。にしても全く、ひでぇ母親がいたもんだよ。」
四世はスーツの内ポケットから、無造作にハンカチで包まれた物を取り出すと、ポイと二人の方へ放り投げた。
「うわっ!」
「キャッ!」
二人が心臓の止まるほど驚いたのは言うまでもない。不二子がかろうじで受け止める。
「何すんのよ!!壊れちゃうじゃない!!」
「わりぃわりぃ。」と、今度は四世が全然悪びれた様子もなく言った。
「オレ、宝石類には興味ないんだ。ま、見定めるのは天才だけどねん。」
その言葉に溜息をつきながら、不二子は中身を確認する。
「…確かに本物のようね。」
そして老人にそのまま手渡すと、彼女は立ち上がった。
「あとはボウヤに任せたわよ。無事パパを連れて帰ってきてちょうだい。私はもう疲れたわ。あ、社長。お金振り込むの忘れたら承知しないわよ。」
やっぱり年ってやぁね。とぼやきながら不二子は部屋を出ていった。その様子を見ていた四世の目が光る。
「どうしたね?」
すかさず老人は四世の変化を見つけ出す。
「ん?あぁ、何でもない。それより親父は?」
「親父親父って、君はよっぽどルパン三世のことが好きなようだね。」
老人は本当に感心したようにそう言って立ち上がると、机の方へ向かった。
「きっとルパンも喜んでいるよ。」
そして首飾りを丁寧に引き出しの中にしまうと、かわりに100円ライター位の大きさの四角い物を取り出した。
「これがなんだかわかるかね?」
しばらく訝しげにそれを見ていた四世だったが、やがて半信半疑に答える。
「…スイッチ…?」
「ご名答。」
言うや否や、老人はニヤリと笑ってその頭を押した。
ドゴンッッッ!!!!
「うわぁ!!!」
突然、ソファが真っ二つに割れ、ぽっかりと巨大な穴が出現した。当然ながら、そこに座っていた四世は滑り落ちて闇に飲み込まれていく。
「フフフ。宝石バカにしてっと、カワイコチャンにモテないぜ。」
四世を追いかけるようにして届いた老人のからかった口調に、彼は落下しているにも関わらずニヤリと笑った。
「正体破ったり。」
そこには、もう得体の知れない無表情は存在しない。楽しげで、挑戦的な、そしてどこか怒ったようにも見える人並みな輝きだけが、その目を支配していた。
「ふざけやがって…。」
一言呟くと、四世はスーツの外ポケットの中に仕掛けてあった小さなボタンを押した。次の瞬間、彼の背中からは炎が勢いよく飛び出し、体はくるりと一回転してまっすぐ上昇していく。
「残念だったね。」
すぐに元の社長室に戻ってくると、四世は楽しそうに行って老人の目を見る。
「ジェットエンジンか…。」
老人は忌々しそうに、舞い戻ってきた客の背中に目を向けた。
「備えあれば憂いなしってやつだよ。」
「お前のことを甘く見ていたようだな。」
「それだけじゃない。」
四世は両手を軽く挙げておどけてみせると、老人にゆっくり近づいていった。目の前まで来て真正面に向き合うと、彼はおもむろに老人の顔を鷲掴みにした。
「わっ!やめろっ!何をするんだ!」
「とぼけんなよ。」
そしてその顔を思いっきり引っ張る。
「親父っ。」
べりっという音の後に出てきたのはまさしく、自分の生みの親であり盗みの師匠である、天下一の怪盗ルパン三世であった。
「どういうつもりだぁ?」
拉致されたと思っていた父親の意外な登場方法に、四世は少々怒り気味だった。
フフン、と笑ったルパンは、種明かしだと机の方に戻った。そして先ほどの首飾りを引き出しから再び取り出すと、静かに四世に手渡す。
「よく見てみろよ。」
「…?」
怪しみながらもそれを受け取ると、彼は丹念に調べ始めた。正面から真横から。表から裏から。たまに宝石を摘んで取ろうとしてみたりもした。
そして、ひとしきり眺めた後に200カラットのダイヤが埋め込まれているそのちょうど真裏に何かを見つけると、その顔にニヤリと笑みが漏れた。
「…アルセーヌ・ルパン…一世の物か…。」
ピンポンそのとーり!、とおどけて言うが早いか、ルパンは首飾りを四世から取り上げ大事そうに抱えた。
200カラットのダイヤの裏…。裏とはいえ、表と変わらないくらい、そこには丹念に彫刻が施してある。その細い隙間を縫うようにして、彼らの祖先アルセーヌ・ルパンのサインが、これまた丁寧に彫刻してあった。普通に見ていては、とても気づかないくらい小さな代物ではあったが。
「この首飾りはな、オーストリアのある有名な彫刻家が第一次世界大戦前にとある大富豪の為に作った物だ。こんだけの代物、じいさんが狙わないわけねーだろ?しかもじいさんにとっては思い入れの深〜いお宝とおんなじ名前だ。見事に盗み出したんだが、二度の戦争とじいさんの死によってその行方はいつの間にかわからなくなっていたんだ。」
「それが今回、突然闇オークションに出展されたって訳か…。」
「そう。俺様も頑張ってみたんだけっどもよ、あとちょ〜っとのとこでフランスの実業家なんかに取られちまったんだよなぁ。久々に悔しかったぜ、あん時は!」
さも悔しそうに地団太を踏んでみせる父親に冷ややかな視線を送りつつ、息子は言う。
「なんでそれがこんな大芝居打ってまでの仕事になるんだ?素直に頼んでくれりゃあ、俺だって喜んで奪い返しに行ったのによ。」
「最終試験だよ。」
首飾りを再び元の引き出しにしまいながら、ニヤリと笑ってルパンは言った。
「お前が本当に四代目アルセーヌ・ルパンの名を語るのにふさわしい怪盗かどうか、のな。」
「なるほど。」
四世は肩をくすませた。
「で、オレは合格したの?」
「わかってんだろっがよ、おめーなら。見事にとっつあん達から首飾り盗んで、その上俺達の正体まで見破ったんだぜ。ま、65点。赤点ギリギリ合格ってとこだがよ。」
「なんでだよ〜。」
途中まで少し気を良くしていた四世は、厳しい点数に肩を落としながらもムッとした様子で返した。
「そこまで教えるほど甘かねーぜ、俺は。」
ルパンは笑ってそう言うと、別の引き出しから一冊の古びた本を取りだした。それは四世が部屋に入ってくる前に、変装した彼が読んでいたものだった。題字が金箔で書かれているフランス語のその本は、もう端々が破れ、中には逆さにしたら落ちてきそうなページもある。大事そうに四世に手渡すとルパンは言った。
「これ読んで勉強し直しな。」
渡された四世は一瞬何かとその本を見つめていたが、題字を読んだ瞬間に嬉しそうに叫んだ。
「盗術書じゃん、これ!!」
盗術書。
それは、初代アルセーヌ・ルパンが己の持つ技すべての極意を示した、ルパン一族に代々伝わる秘伝書。この本を読めば、誰でも簡単に泥棒になれてしまう。ルパンの名にふさわしい大怪盗になれるかどうかは修行次第だったが、本の原本を手に入れるということは四世にとってまさしく一人前になった証拠だった。
我を忘れて子供のようにはしゃぐ息子を見ながら、ルパンは机の椅子に腰を下ろしジダンに火をつけた。
「ところでよ、お前何でわかった?」
「ん〜?何が?」
「俺の正体だよ」
「あぁ。」
ルパンのその言葉に一瞬現実に戻された四世だったが、何でもないよ、というように軽く言うと、目線も上げずにまた本に没頭する。
「不二子の金への執着が甘すぎたんだよ。いつもなら入金を確認してから物を渡す…あるいはそれすら頂いちまうのに。それすなわち、取引相手が身内って事だろ?」
さすがよくわかってんな、とルパンは苦笑して見せた。
「それだけか?」
その言葉に静かに首を振った四世だったが、耐えきれなくなったのかいきなり笑いだした。
「クククッ…親父、俺を穴に落とした瞬間本性が出ただろ…?クククッ…いまどき『カワイコチャン』はねーだろっ…!!」
一瞬ぽかんとしていたルパンだったが、しばらく考えて言葉の意味を理解したとたんに顔を真っ赤にする。
「ウッ…うるせーうるせー!!」
彼は元来からかわれることが大嫌いなのだ。
「あーもういいっ!聞いた俺がバカだったよ!とっとと帰れ!!」
「うははっ。親父、あんまり怒ると血圧上がるよ!次会う時は墓場なんて事ないようになっ。あははっ。じゃーなー…うおっ!?」
笑いながら扉を開けて一歩踏み出した四世は、一瞬でルパンの視界から消えた。
「ぬふふ。ひっかかったな。」
ルパンはざまみろとでも言うように生意気息子の消えた穴を覗き見る。
「そっちにはな、万が一お前がお宝持って逃げ出そうとした時やソファの仕掛けに気づいて出ていこうとした時の為に、こっちの穴と同時に開くようになってる落とし穴があんだよ。律儀にジェットエンジンも使えないようにしてやっといたぜ。ま、安心しろ。下は海だ。俺様に勝とうなんざ10年早いってんだよ。」
ひとしきり可笑しそうに笑った後、悔しそうな四世の雄叫びが聞こえなくなると、ふと真顔に戻ったルパンは一言呟いた。
「あいつは爪の隠し方を知らねぇ鷹だな…。」
煙草の火を灰皿に押しつけると、彼はいつものスーツに着替えるため、クローゼットの扉を開けた。