独り立ち
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「尚子!!」
鈍い気だるさに目を覚ますと、視界に薄っすらと自分を呼んでいる声に気がついた。
「よかった、気がついた。もうこのまま目を覚まさないんじゃないかと心配したよ。」
よく見れば、自分の寝かされている病院のベッドの傍らの丸椅子にあのルパンキチガイが座っている。
辺りが眩しい。なんとなく空気も暖かい。ちらりと外を見やって、もう夜が明けて久しいことに気がついた。
「・・・社長・・・。」
呟いてみて、尚子は自分の喉が張り付きそうなほど渇いていることに初めて気づき、傍にあった水差しを取ろうと腕を伸ばした。
が。
体が動かない。まるで全て鋼で作られた体に変えられてしまったかのように、腕はもちろん指の一本でさえも全く動かなかったのだ。おかしい。自分はもしかしたら改造人間にされてしまったのか・・・。
まともな思考すら持てないほど困惑しきっている尚子を肌で感じ取って、多嶋は彼女をゆっくりと起き上がらせると、代わりに水を飲ませてやった。
「大丈夫かい?」
その優しい声に、尚子はこくりと頷いた。水を飲んだせいか、徐々に感覚が戻って来る。改造人間なんて、いるわけがない。
「社長。」
今度は至極まっとうな口調でもって呼んだ。それでも、いつもよりは幾分声に生気がないような気がするのは、いたしかたないのだろう。
「ん?どうした?」
水差しを元あった位置に戻すと、彼は聞き逃すまいと顔を尚子へ近づける。昔、大好きだった先輩とこういうシュチュエーションになることに憧れていたと、尚子はまだ半分ボーっとした頭の中で思った。そう考えると、今日の多嶋はいつもより幾分かっこよく見える。社内の女の子から見たら、彼はいつもこんな風に見えているのかもしれない。
「ルパン四世は、捕まったのですか?」
その質問に、多嶋はゆっくりと首を振った。
つまりは。
逃げられたのだ、四世には。
全くの撃たれ損。啖呵の切り損である。しかし、今の尚子には不思議と怒りは沸いてこなかった。仕方がない。そんな諦めにも似た感情が、彼女の心の中を支配していた。
「君は一人で危ない目に遭って、麻酔弾にまで撃たれたというのに…。」
私はただ警察の言うとおりに社長室で待機していただけだ、と多嶋が悲しげに言った。
「麻酔弾・・・だったの・・・。」
尚子の目が幾分開かれる。今までに撃たれたことはないけれど、あの衝撃はてっきり本物かと思っていた。
「なんだ・・・。」
この気だるい感覚は、傷口を手術したために起こったのではなく、ただ四世に麻酔を撃たれたためだけだったのだ。
「なんだ。」
もう一度呟くと、尚子の顔からは自然と笑みが零れた。口に両手を当てて笑い出す声に合わせて、その華奢な肩が小さく震える。
「蛙の子は蛙じゃない。」
そんな彼女に不思議そうな顔を向けていた多嶋が、何かに思い至ったのか口を開こうとしたその時。
「尚子〜っっ!!」
突然開いた病室のドアの向こうから、大の男が号泣しながら飛び込んできた。
「わっ!!ちょっ・・・!!」
さっと避けた多嶋なんてまるで目に入らなかったかのように、男は尚子に縋り付きながら何やら喚いている。
「尚子〜!!私が悪かった!!許してくれ!!ルパン一族が大好きだったばっかりにお前の苦悩に気づいてやれなかった!!」
「え・・・?」
何がなんだかわからない尚子は、ふと男の入ってきた入り口に目を向けた。そこには、警視庁捜査二課の大岡警部ともう一人、でっぷりと太った金持ちそうな白人の男が、同じように目をまんまるくして突っ立っていた。
「え・・・?」
もう一度、今度は先ほどまで傍らに座っていた多嶋を見直す。彼は彼で、後ろにあった棚に背中をへばり付かせて目を丸くさせている。
一体、何が起こったというのだ。
暫し場の硬直。否、尚子に何やら一生懸命懺悔をしている一人の男を除いては。
「お、お前・・・まさか・・・」
口を開いたのは、さすが大岡だった。それでもまだ体は反応しないのか、ピクリとも動かない。
「・・・ルパン四世・・・?」
信じられないといったように、震える人差指をやっとのことで相手に向けると、さすがに喚いていた男も顔を上げた。
「ルパン四世・・・?」
大岡の言葉を繰り返しつつ、ゆっくりとその方向に目を向ける。
一緒にくっついてきた外国人はというと、日本語がわからないのか喋り出す事はなかったものの、一体何が起きているのかと好奇の目で行く先を見つめていた。
「ったく・・・来るのが早すぎるんだよねぇ。大岡さんは。」
力を入れていた肩をフッと脱力させた彼は、背中と一緒にへばりついていた右手を顔にやる。
「もうちょっとだったってのにさ。」
そう言いながら顔面の皮を剥がした(ように一同には見えた)のは、紛れもなくあの夜首飾りを盗み出したルパン四世だった。
大岡はすぐに拳銃を抜く。が、四世はやっぱりさして気にするでもなく彼に近づくと、その銃口になんと指を突っ込んだ。
「お、お前・・・。」
絶句する大岡に彼は一つ口の端を吊り上げると、突然フランス語でこう言った。
「日本の警察の悪いところはな、瞬時に引き金を引けないとこだ。」
次の瞬間、意味のわからないフランス語を理解するよりも早く、大柄な大岡の体はあっけなく床に崩れ落ちた。四世の右腕から強烈なボディーブローが放たれたからなのだが、それに気づいた者は恐らくいなかっただろう。それほどまでに速かったのだ。実際受けた大岡ですら、何が起こったかわからなかったに違いない。
隣にいた外国人が、それを見てさっきよりも目を大きくさせる。もう少し見開いたら、何もしなくても眼球がこぼれ落ちてきていたかもしれない。突然フランス語を話し出した少年(のように彼には見える)と、突然その場に倒れた警察官。驚かないわけはないのだが。
「フランスからおいでになった『女王の首飾り』の持ち主の方とお見受けしましたが、ムッシュ?」
「あ、あぁ・・・。」
不意に真っ向から話しかけられて、外国人の男は狼狽した。髪の毛が薄くなって広くなった額からは、ダラダラと汗が流れ落ちている。
「失礼ですがあなたが今回の宝石展に出品なされた首飾り、元々は誰の物だったかご存知で?」
まるでフランス紳士のようなオーラを放つ四世に、男は嘘を吐く事ができなかった。
「…ル・・・ルパン・・・。アルセーヌ・ルパンの物だ。」
「ほう・・・。ご存知でしたか。」
「・・・こう見えても・・・私はアルセーヌ・ルパンの研究家としてその業界では有名なのだ。ただ好きなだけではない。尊敬だってしている。知らないわけがないよ。」
「だったら話は早い!!」
わざとらしく両手を広げて驚いて見せた四世は、次に右手を腹に持っていき、深々とお辞儀をした。
「このルパン四世。先祖の名誉に懸けてでも、その首飾りを手元に戻したいと存じます。どうか、譲っては頂けないでしょうか・・・?」
見守るのは尚子と懺悔の男―本物の多嶋。何を言っているのかはさっぱりわからなかったが、何かを四世が頼んでいることだけはわかる。もしかしたら首飾りの件かもしれないと思うと、迂闊に口を挟めなかった。なんせ下手すればン十億の品物なのだ。
「まぁ・・・。」
しばらく何かを考えていた男は、脂肪たっぷりの眉間に薄い皴を寄せさせると、仕方がないというように言った。
「元々はアルセーヌ家のものだ。…それも致し方ないのだろう。取り返しに来たのが四代目だというならなおさらだ。…私は首飾りを諦める。その代わり、君の出した予告状は警視庁から私の方へ資料として頂くよ。」
いいかね?と問うて来る男に、四世は思わず体を起こすと、もう一度深々とお辞儀をした。
そして次に頭を上げた時、扉ではなく窓へと歩みを進めると、彼はくるりと振り向いて尚子を見つめた。
さて、と言いながら軽く腰に手を当てて。
「あんたの親父はルパン三世の前に全てを失うしか術はなかったかもしれない。けどな、今のあんたなら俺から取り返すことができるんじゃないのか?」
「・・・・・・?」
何のことを言っているのか、尚子にわからないわけではなかった。だが、その質問に対する答えが一体何なのか、彼女は気がつかない。
「幸せってやつをさ。」
四世は腰の手を窓枠にかけるとひらりとそこに飛び乗った。
「それだけ言いたくて来たんだ。」
ちょっと恥ずかしそうに、それでも屈託なく笑ったその顔に、尚子を脅した悪魔のような表情はない。思わず見とれてしまった彼女に投げキスを一つ返すと、四世は昼の光の中へとダイブした。
「お、おい!!ここは五階・・・。」
慌てて駆けつけた多嶋が窓から覗いたのと同時に、車のエンジン音が外から響いた。
「あ〜、サイン貰うのを忘れてしまった・・・。」
車を見送りながら思わずそう呟いた多嶋の頭に、尚子の枕がヒットする。
「この期に及んでまだそんなことを仰っているんですか!!社長は!!」
「わっ!!すまない、尚子!!」
「全く、次にルパン四世が我社にあるものを狙った時には、社長にも作戦に参加していただきますからね!!」
「本当にすまない!!勘弁してくれ!!カン・・・えっ?」
再びベッドの上の尚子に縋り付こうとしていた多嶋は、溢れそうになっていた涙も引っ込めてキョトンとしてしまった。
「もう一度、彼に会ってみるのも、いいんじゃないですか・・・?」
もう一度、今度は幸せを取り返した自分を見て貰うために。今度は年下の男に説教なんてされないから。
彼女の父親になくて、彼女が持っているもの。
それは、清々しいほど真っ直ぐな瞳。
新しい季節は、もうすぐそこまで来ている。