独り立ち
V
四世が囮の人形を階下に放して屋上に上がった時、彼の計算ではそこはもぬけの殻のはずだった。誰もいない中悠々とヘリに乗り込む手はずだったのに、綺麗な女が一人で行く手を塞いでいるだなんて、相当のナルシストでなければ想像すら出来ないだろう。
「あらら。」
その想像すらしていなかったことが現実に起こり、四世は足を止め一瞬だけ身構える。
「おねいさん、どなた?」
ヘリと自分との間に、警察から奪ったのであろう機関銃を手に仁王立ちしている姿は、さながら東洋版ミラ・ジョヴォヴィッチかハル・ベリーかというところである。
女は女で四世のその見た目に驚いていたようだったが、すぐに気を取り直してじっと睨み付けながら機関銃を構えた。
「あなたがルパン四世ね?」
「どうだと思う?」
銃口は間違いなく四世に向いているというのに、彼はまったく怯む様子もなく口元には笑みさえ浮かんでいる。
「父親そっくりの笑い方。目元は母親似かしら?間違いなく、どう見てもルパン三世と峰不二子の間に生まれた子供だと思うわ。」
「ふうん。あいつら見た事あんのか。じゃああんたも警察の人間か…それとも同業者かな?」
四世の口調が子供っぽいものから若干変わった。相手を値踏みしている証拠だ。敵であることは間違いないようだったが、彼女はどこからやってきたのか。組織の者か、警察の者か、個人的に恨みを持つ者か。そして、自分が相手をするに値する命か。
「どっちも違うわね。」
女が答えた。
「まさかこんなところで会うとは思ってもみなかったけど。」
私はね。そう言いながら引き金に手をかける。
「あんたの父親に人生をめちゃくちゃにされた女よ!!」
凄まじい破裂音が耳を劈く。どこかで訓練したのか、素人にしては彼女の射撃技術は様になっていた。だが、所詮相手はルパンの名を継ぐ者である。あっという間に背後に回られてしまった。
「おねいさんに銃は似合わないよ。」
後ろからそっと抱きすくめるように、しかし1mmたりとも身動きの取れぬように、四世は女を拘束した。
「あんた達に何がわかるのよ…。他人から大切な物を奪うだけのあんた達に。」
無駄だとわかっていても、力付くではないのになぜか全身が動かない事に恐怖を覚えていても、投げつけずにはいられない言葉。
「ねぇ。わかる?今まで何不自由なく幸せに暮らして来た者が、一夜にして全てを無くすのよ?昨日までは私のものだったピアノも、犬も、洋服も、自分の母親でさえも!!全て無くなってしまったのよ?それもこれも、あんた達のせいで…。」
「うちの親父はあんたの父親から何を盗った?金、地位、名声。さあどれだ?」
遮って耳元で四世は囁く。口調は変わらず至って柔らかいのに、厳しい台詞は女を逆上させた。
「全部よ!!父のお金も地位も名声も、私達が幸せになれる要素を全て盗んでいったのよ!!」
「じゃあ質問を変えよう。あんたの父親の金と地位と名声は、誰から奪った物だったんだ。」
ぴたりと、女の動きが止まる。
「あんたの父親とうちの親父の、どこに差がある?」
「どういうことよ…。」
「その世界では有名な企業だったみたいだね。色々とあくどい事に手をつけていたらしいし。」
弾かれた様に女は四世を突き飛ばした。反動で自身がよろめき、思わず尻餅をついてしまう。
「うそ…。」
自分が尻餅をついたことよりも、四世がなぜか自分の素性を知っていたことよりも、たった今知らされた衝撃的な事実に驚き、言葉を失っていた。
「バカなこと言わないで。いくら自分の親を正当化しようったって私は騙されないわよ。」
「信じないなら信じないで構わないけど。どうせ調べりゃわかるこった。」
こんなことで言い争うなんてばかばかしいとでも言うように、四世は肩をくすめて見せた。
「オレはね、親父みたく優しくないんだ。事実を隠して自分ばっかり罪を被るなんてくっさいことしないよ。」
遠くで乱雑な足音が聞こえてくる。ようやく催涙ガスの効果の切れ始めた警官たちが、大慌てで後を追ってくる音だ。
「そろそろ行かなくちゃ。」
まるで映画の中のヒーローのように、四世は女に向かって微笑む。違うのは、座り込んでいる彼女に手を差し伸べるわけでもなく、震えている彼女に上着をかけてやるでもないところ。これで瞳の色が優しくなければ、バカな女を見下す男のようにも見える。
さようなら。そう言って右足を一歩後ろに下げた時だった。
「待ちなさい。」
思い出したように女が口を開いた。
「まだ何かあるの?」
「あたりまえでしょう。首飾りを返しなさい。」
健気にも自分が当初ここにやってきた本来の目的を思い出した彼女は、再び立ち上がって機関銃を四世に突きつける。
「いやだっつったら?」
「今度こそあなたのかわいいお顔に真っ赤な花が咲くわね。」
自分の任務に邪魔になる思考を一切排除し、その時々でもっとも的確な言動を取る。それはある種彼女の特技だった。復讐に失敗したと見るや否や、首飾り奪還のみを図る。銃口は、今度こそ一ミリも違わず心臓に突きつけられている。避ける暇はないはずだった。
「しょうがないなあ。」
観念しましたと、四世が懐に手を入れる。しゅんとしたその表情に、女の顔には思わず勝利の笑みが浮かんだ。
だが。
「手荒な真似はしたくなかったんだけど。」
そう言いながら右手が外に出たと思った時、彼女の脳が認識したのは、ゴールドの塊ではなく真っ黒なプラスチックの塊だった。おもちゃのピストルの形をした…。
銃口がゆっくりと女の心臓へと向かう。
舐めてんの?
思わずそう言い放とうとしたその時、無常にもタイムリミットはきてしまった。
「そこまでだ!!」
いつの間にか、戸口には大岡と警官隊がずらりと並んでいる。一般人に手柄を立てられたと思ったからか、どんな形にしろ女が四世を留まらせているからか、それとも余計な仕事がひとつ増えたからか、はたまたまだ催涙ガスの効き目が消えきっていないからなのか、大岡は目を真っ赤にして二人を睨み付けていた。
「二人とも銃を降ろせ。」
「はいそーですかなんて言う泥棒がどこにいるよ?」
女が四世をちらりと見る。あなたから下ろしなさいよ、とその目は言っていたがもちろん本人にそんな気はない。それどころか心底可笑しそうに彼は笑った。
「そこを通せったって、あんた達は通してくれないでしょ?それと一緒だよ。」
「だが、もうお前に逃げ道はないはずだ。無駄な抵抗はよせ。」
大岡が刑事ドラマのようなべたべたな台詞を吐く。四世はもう一度可笑しそうに笑った。
「あはは。忘れてもらっちゃ困るよ。こっちにだっておねいさんという切り札があるんだよ?」
「バカ言わないで!!」
怒鳴ったのは、女だった。
「どこが切り札なのか説明して欲しいわね。私が人差し指にちょっと力を入れるだけで、あなたは間違いなく蜂の巣なのよ?そんなおもちゃと一緒にしないで。」
「オモチャ?」
驚いた四世は目をまんまるくして、思わず自分の右手に握られているものと女の顔を見比べた。確かにプラスチックに覆われてはいるが、まさかいまだにこの銃をオモチャだという人間が存在するとは思わなかった。まあ、確かにこの日本で本物の拳銃を見る機会なんて警察ややくざでもない限り滅多に無い。TVや映画に出てくる銃なんてカッコばかり良くて実用性の無いものばかりだったから、女にそんなことを思われても仕方の無いことかもしれない。
「違うの?」
半ば確信に満ちた笑顔で、彼女は言葉を返した。明らかに挑発している。
「んじゃ、試し撃ちでもしてみる?」
不敵な笑みには不敵な笑みを。もしもそんな諺があったら、それはこんな時に使うのだろう。美男と美女の微笑み合いは、周りを世界から遮断させた。
「もしもその銃が本物だとしても、ルパンの血を引いた人間に女が撃てるとは思えないけど?」
「ふうん。詳しいんだね。でもさ、何にだって『異分子』ってのは存在するんだ。」
四世の笑みが倍になり、女のそれを吸い取っていく。
「オレにゃ女を撃つことなんて朝飯前なんだよ。」
一言、それだけが地獄の底から聞こえてきたような気がした。メデューサの目を見た者が石と化すように、男の本当の声を聞いたものは動けなくなる。そんな御伽噺でも書けそうなほど、その声は全てを凍らせた。
そして。
二人が反発しあって弾かれたと思った瞬間。
女の体が大きく痙攣した。
破裂音の後の一瞬の沈黙。
どさりと響く生々しい音。
闇の中に広がる、闇よりも黒い赤。
一体ここにいる誰が殺人を目の当たりにすることを予想していたであろうか?指揮官である大岡ですら、昼間まで今日は無駄足に終わると信じていたのだ。
「…っ小僧っ!!」
エレベーターが止まっているためにやっと追いついた老銭形の声が部隊の後方から響いて、再び時間が動き始める。
「貴様っ…一体何をした!?」
「見たまんま!!見たまんまだよ。」
くすくすと、登場したときと同じテンションで四世は笑った。本当に愉快そうだった。ダンスでも踊るようにひらりと舞うと、彼は屋上の淵に飛び乗る。普段は開放しているわけではないので、フェンスや柵の類は一切無い。飛び上がるのは小学生でも出来るようなまねだった。ここが、12階建ての建物の屋上だということを除けば。
「では皆様、当劇はこれにて閉演とさせて頂きます。お忘れ物などないよう、十分に注意してお帰りくださいませ。本日は、ご来場頂き誠にありがとうございました。」
くるりと頭の帽子を回転させて、再び四世はお辞儀をした。
「ふ・・・ふざけるな!!」
とうとう頭にきた大岡が駆け出そうと一歩踏み出すのと、その足元に向かって彼が銃を放ったのは、ほぼ同時だった。
「それ以上は関係者以外立ち入り禁止とさせていただいております。」
「なっ・・・。」
「では皆さん、カーテンコールは空の上から。」
言うや否や、足元のコンクリートを蹴り上げる。
気持ちよさげに両手を広げた四世の体は、一昔前の電脳世界のような夜の町に吸い込まれていった。
「待てっ!!」
一瞬遅れてそこを覗き込んだ大岡からは、もう何も見えない。地面に叩き付けられたのか、途中で何かに引っかかったのか─と、思った瞬間。
目の前を巨大な鳥が横切ったかのように思えた。
大気を自ら風に変え、己の行くべき方向を作り出し、周りを流れに巻き込んで行く、都会にはまずいるはずの無い鳥が。
大岡は目が合ってしまった。
体半分を地上何十メートルの上に突き出したその姿を挑戦的な目付きで笑いながら、ビルに羽根のぶつかるギリギリを飛んでいく鷹と。
「SEE YOU.」
四世はそう言った。間違いなく。
<撃て>
唖然としてしまった大岡には、その二文字の号令をかけることすら出来なかった。
その間に、世紀の大泥棒の跡目を名乗る男の姿は、今度こそ彼のグライダーと共に本当に消えていた。