幸せな話
7.往事渺茫
地下駐車場に停めていた車へ乗り込もうとした男の目の隅に、異物が映った。柱の影から、ナイフのような目が唐突に姿を現す。男がこっそり眉を寄せて無視を決め込むよりも早く、それはこちらに向かって声をかけてきてしまった。
「お帰りですか?」
長い事そこにあったものがゆらりと動く気配。ルパン四世を追いかけているはずの大岡だった。
男はちょうど地元の代議士の元へ寄った帰りだった。もちろん公な会合などではない。長い説得に告ぐ説得の末にうまい話がまとまりそうで、なかなか良い気分だったのだ。それなのに、この刑事の出現で不吉な予感すらよぎる。
一瞬対象から完全に目を逸らした男は、ベンツのドアの陰で目を瞑って天を仰ぎ、神を恨んでから諦めたように決心を固めた。ついていた三人の部下たちに小さく合図を送ると、大袈裟に両手を開いて歓迎モードに入ることにする。
「あぁ、刑事さんではありませんか。奇遇ですね。こちらにご用が?」
大岡が自分を追ってきたことは火を見るより明らかな話だったが、あくまでそれは口にしない。本当はこの場所で思い切り蹴りでも入れてやりたい気分だったが、その欲望もかろうじで飲み込んだ。奴の後ろに誰かがついているのか、いないのか、まだわからない。
「えぇ、ちょっと。そちらはご商談か何かですか?」
「えぇ、ちょっと」
敢えてはぐらかしたのであろう大岡に男も笑顔で返す。大人気ない。普段の自分が聞いたらげんなりするほど子供じみた返事だと思ったが、それをやらずにはいられないほど、今の男は大岡に対して嫌悪感を抱いていた。調べるべきは自分ではなく、ルパン四世ではないのか。これほどまでに男に対してストーカー的行動を起こすのなら、奴の居所の一つでも捕まえる努力でもしたらどうなのだ。もっとも、それを見つけるのはうちの方が先だろうが。ついさっき、それらしき人物を見つけたと連絡が入っていた。
「そうですか、お忙しい所足止めをしてしまい申し訳ありません。しかし、ここで会ったのも何かのご縁。耳寄りな情報をお伝えしましょう」
ここで大岡は薄ら笑いを浮かべた。まるで同業者のような薄暗さが感じられて気味が悪い。この間は、ちょっと頭の回転の早いだけの堅物警察官だと思ったが、もしかしたらそれはとんだ見当違いだったかもしれない。
「何です?良いお話かな?」
「ルパン四世の居所がつかめそうなのです」
「何?」
さらりと言ってのけた大岡に一瞬、さきほどまでの心が読まれたかと思った。思わず語気が太くなって、自分の声にはっとした。男は咳払いを一つして気を落ち着かせる。煙草が必要だ。手を伸ばした先で部下の一人が懐を探っていた。
「それはまたお見事ですね、刑事さん。うちのアンジェラも?」
「えぇ、奴の元にいると思われます。お嬢さんは、我々が責任を持って確保させていただきます」
モタモタしている部下からやっとゴロワーズを受け取ろうとしていた腕が止まった。思わず殺気を込めて大岡を睨みつけてしまう。
「確保?」
男を見つめる大岡の笑みがでかくなった。ような気がした。本当に気味が悪い。悪党はこっちのはずではなかったかと、演出家がいるのなら思いっきり文句を吐けたい気分だった。これではまるで逆だ。大岡は何が言いたい。自分を逮捕したいのか?いや、これは、この笑みは違う。男は踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったと感じていたが、今更後悔しても遅い。
「アンジェラ・ルイスをあなたが見つけた場所は、どちらでしたか?」
さらに一つ。大岡のテクニカルヒット。無意識にこめかみが反応する。目の前にいるこの男は、何を見つけ出した。
「…さぁ…どこでしたかな…なんせあの国はどこもかしこも瓦礫の山でね。あそこには地理ってものがまるでなかっ」
「地下の女性用独居房は、空襲を逃れたはずですが?」
「……」
「一部屋だけ、集中攻撃にあったようだったとの証言が取れました。別に、あの刑務所は重要攻撃区域に指定されていたわけでもないのに」
「何が言いたい」
男は観念して、煙草を受け取らずに伸ばしていた手を下ろした。そんなに言うのなら発表させてやろう。この短い時間に、一体どこまで調べ上げてきたのだ。
「13人」
と、大岡はゆっくりと、男の反応を楽しむように口をすぼめて言った。
「殺しているそうですね?」
「私が?」
「まさか。アンジェラ・ルイスですよ。あなたの天使。」
背中から冷や汗が流れたのはいつ振りだろう?この国でアンジェラの罪を公表されるとも思っていなかった。その上さらに奴は男の後ろ暗い面まで暗に叩いている。
「男ばかり13人、必ず自分に夢中にさせてから殺しているそうですね。学校の同級生から行きずりの中年、魚屋の主人からマフィアのドンまで。まるで切り裂きジャックだ。しかも、本物とは逆の思想を持った切り裂きジャック」
「それは知らなかったな」
咄嗟に口をついた言葉とはいえ、それはなかなか上出来のように思えた。
「知っていたら普通、連れては来ないでしょう。次のターゲットは自分になるかもしれないのに。それとも実は私は男ではないとでも言いますか?流石に言えないでしょう?バカバカしい」
一気に言って溜息を吐く。段々喉が乾いてきた。車の中に水はあっただろうか?
「触れる男の好みのままに変わるそうですね、あの天使は。彼女のためならなんだってしたくなる、麻薬のような人間。麻薬への独占欲に溺れて男たちは死んでいったのだとまで言う者がいる。女性警官でなければ彼女を逮捕できなかったと言う者もいる。嘘なのか、誠なのか。それはわかりませんが」
一方の大岡は、表情一つ変えずに薄ら笑いを顔に貼り付けて喋り続けていた。
「独房の姫の噂を聞きつけたあなたは、麻薬に魅せられて力ずくで「密輸」してきたのではありませんか?」
「……」
自分とアンジェラがどこでどのようにして出会ったのか、それだけは男に言う気はなかった。言った所で、今アンジェラがこの国にいるという事実は変わらないし、大岡には関係がない。過去も消えない。13人を死に追いやった女を男が連れて帰ってきた。その点では間違っていない。それだけだ。
無言を貫く男に、大岡は溜息を吐いた。諦めか、哀れみか。どちらにせよ、男を嘲っているのは確かなようだった。
「まぁ、それは今更どうでもいいことです。ICPOから彼女の捜索を依頼されているわけでもない」
そこでふと、大岡の目が変わった。
「ということで、私と取引をしませんか?」
「何?」
急な提案に対して訝しげな表情の男に、大岡は懐から紙切れを取り出した。四つ折のあとが綺麗についた、A4サイズのコピー用紙。
「契約書です。私とあなたで結ぶ協定。そして不可侵条約だ」
「どういう意味です?」
「私は『盗みを繰り返す』ルパン四世を逮捕したい。あなたはルパン四世からアンジェラ・ルイスを取り戻したい。」
「…アンジェラを見逃すから、ルパンの居場所を教えろと?それなら取引は不成立のはずでしょう?あなた方は奴の居場所はほぼ掴んだと先ほど仰った」
部下へ男の腕が伸びる。今度こそすんなりとゴロワーズを受け取った。
「教えて頂かなくても結構です」
ジッポライターの火が一瞬だけ男のいる場所を明るく照らしだす。一緒に照らされた大岡の影が壁に大きく写ったが、カチンと言う乾いた音と共に消えていった。香りだけが、男を包み込む。
「ただ、引き渡していただきたいのですよ、ルパン四世を」
吐いた煙が天井を伝って消える。消えたように見えるが漂ってはいるはずだった。
「引き渡すって…。私は素人ですよ?」
相手が何を考えているのかわからない以上、話に乗るわけには行かなかった。これは相手が警官だろうが誰だろうが変わらない。ビジネスの常識だ。再び煙草に口をつけ、吐き出した煙は天井へ向かう。ゆらゆらと、まるで意思を持った幽霊のように。
「別に、絶対に生きて引き渡せとは言いませんよ。手段は選びません。今はそんな時代じゃない」
煙には見向きもしない大岡は、真っ直ぐに男を見つめ続ける。「そんな時代」という口調だけ、少し柔らかくなっていたことに男は気付いた。もしかしたら、この男も鬼ではないのかもしれない。
「ほう」
「アンジェラ・ルイスを見逃すので、ルパン四世を引き渡して下さい。どうです?悪い話ではないでしょう?」
アンジェラを返してもらえる上に、ルパンの死体の処理もしなくて済むのはありがたい。ありがたいが…。自信を持って聞いてくる大岡に、男は目を合わせた。しかし、相変わらず狐目の向こう側は何を考えているかわからなかった。
「…わかりました」
しばらく考え込んでから、男は結論を出した。大岡の「そんな時代」に残された何かを信じることにしよう。そうすれば、こちらにもまだ勝機はあると睨んだのだ。
咥え煙草で二枚の契約書にサインをし、一枚を自分の懐に入れた。「ルパンを張っている刑事達はすぐに退かせますので」と言ってもう一枚を受け取り、悠々と去ろうとした大岡に男は一つだけ聞いてみることにした。
「…これも、「捜査」の一環ですか?」
警察手帳を覗かせて大っぴらにやってきた前回と今回では、明らかに大岡の態度が違いすぎた。まるで同じ入れ物に入った別人のようではないか。道徳も、法律も、この前あったものが全て今回は抜け落ちている。
「まさか」
言われて振り返った大岡の口元に、真っ赤な笑みが浮かんだ。
「今日は半日非番なんです。趣味ですよ、趣味」
奴は、コーヒーカップに毒が盛られていることに気付いていた。この一言で理解してしまった男は、大岡が消えるのを待って短くなった煙草を思い切り部下に突き出した。瞬間、数倍エコーのかかった断末魔の叫びが地下にこだまする。
「主人の煙草ぐらいまともに出せ」
それだけ言い残すと、残った二人の部下を連れて、今度こそ男はベンツに乗り込んだ。
しばらくして、懐の携帯電話が鳴る。
「ルパン四世、捕捉しました」