幸せな話
8.死中求活
辺りはいつも暗闇だった。何も見えず、何も聞こえない。何も見ず、何も聞かない。最初のうちはひんやりと私を包んでいた湿気だらけの空気も、いつしか身じろぎしない私に愛想をつかして出て行ってしまった。触ってみればゴツゴツヌルヌルと薄気味悪い感触で私を怯えさせていた壁や床や天井も、自分と変わらず薄気味悪い感触の私に飽きて消えてしまった。強烈な匂いを放っていた名も知らぬ虫達は私と同化し、たまに運ばれてくる食事は私に食されることを拒絶していた。
ねぇルパン。
ここは私に相応しい場所でしょう?例え話なんかじゃなく、愛した男も愛された男も全ての男を死に追いやる死神は、闇の中でジッと、死ぬことも許さず、生きることも許さず、中途半端に呼吸だけをしていることしかできないと思うの。
もう何年ここにいるのだろう。…何年…。ではないのかもしれない。何分かもしれないし、何日、あるいは何ヶ月かもしれない。ここは私が生まれてからずっと私がここにいるべく存在していたようにも思えるし、ついさっき前の住人が私の為に部屋を明け渡したようにも思える。時間の観念なんて、全くない。昔はあったのかもしれないけれど、もうとっくに闇の中に陥落していた。
でもね。
あなたが私の歌に誘われてここに現れた時、私はあなたの目から放たれた小さな、だけれどとても強い光に、夢を見てしまったの。
この光に攫われてしまえば、今度こそ新しい人生を、もう一度やり直せるんじゃないのかなって。
私のせいで狂って行く男たちを見る事もなく、私のせいで死んでいく男たちを見る事もなく。
静かで、平凡な人生を、その昔いたはずの私の友達が、たった今この瞬間も送っているだろう幸せな人生を。
あなたとならば、過ごせるのかなって。
それが間違いだったとは、今でも思いたくないわ。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚も。それから感情でさえ、いつから私のものでなくなったのか。人間として…もしくは動物としてのありとあらゆる感覚がなくなってしまった私は、きっと人間の入れ物を借りた物体でしかないのだろう。
否。
男がここに来た。たまになのか、しょっちゅうなのか、そんなことは知らないけれど。男は背中に私の知らない白く輝く物を背負い、真っ黒な私と私の世界を薄ぼけた灰色の光へと変身させた。薄ぼけた光の中で私は男に抱かれ、そして抱かれた時だけ、私は自分が人間であることを認識させられた。私は、人間である。そして私は、女である…と。
あなたの家で目が覚めて、あなたに触れて初めて目に入ったもの。
二度と見る事もないと思っていた恐ろしいものを見たわ。
これ以上の希望はないと思わせたあなたの目に宿る永遠の闇。
それまで見たどの男の闇よりも、深くて暗い、底なし沼のような、ねっとりとした地獄の闇。
それは、何よりも明確な「絶望」の神。
私はあなたの持つ綺麗な綺麗な希望まで完全に消してしまったの。
いいえ。消したんじゃない。
私は今、あなたから奪った光で生きている。
男は何も喋らず私を抱いた。ただひたすらに私を求め続ける。それはある種の神聖な儀式のようで、それでいて単なる本能の暴走のようで、そこに生まれる曖昧さが私は嫌いではなかった。この時間がもっと続けば、私は本物の人間に戻れるのかもしれない。そんな希望まで生まれそうになる。曖昧な希望は曖昧な現実しか生まないというのに。
あなたの目からこれ以上希望を奪いたくなくて、私は生まれて初めて自分に枷を填める決心をしたの。
不思議ね、今まで誰かのために何かをしようなんて考えたことなかったのに。
ねぇルパン。私の努力は報われたかしら?
とてもささやかな願いを叶えてくれてありがとう。あなたのおかげで私は今、とても幸せよ。
ほら、そこにあなたの光が見える。
ルパン。あなたの目の光。これだけ暗い、暗くて冷たい闇の中でもすぐに見つけられる。灯台のような、月の様な、夜道に光る道しるべ。
「やめろアンジェラ!!」
光の先で、ルパンの呼ぶ声がする。
ルパン。
ねぇルパン。
お願いがあるの。
ううん。そんなにわがままなお願いじゃないと思うんだけれど…。
ねぇルパン。
お願い。
「もう一度、私の名前を呼んで?」
そして私を包む全てものは去って行き、最後に、静寂が戻る。