幸せな話
6.雲煙模糊
結局、目を覚ました次の日からアンジェラは高熱を出して寝込んでしまった。環境の変化だと、親父の代から世話になっている医者は言っていたが、それだけではないと四世は思っている。熱を出して毒が抜けたのか、あれからアンジェラに不思議なオーラは感じられなくなった。美人だが普通の、ちょっとわがままな可愛い女の子だ。一昨日やっと熱が引き、昨日は駄々を捏ねるのを宥めすかして大事をとらせ、今日やっと出てきたのだった。
まるで郊外の大学を思わせる大きな公園の真ん中に、場違いにも主のように居座るアイスクリームショップ。一見、酷く落ち着いた印象の受ける外装の周りに、プラスティック製の派手な赤い椅子が並んでいた。店舗の真上にでんと構える看板は、ポップで甘そうな、それでいて毒々しい魅力を存分に発揮している。取り壊されそうだった建物を、海外進出を狙っていたオーナーが買い取り改築したらしい。どうりでチグハグ。見掛けからして少々カロリーオーバーだと、ネットで見つけた張本人である四世は心の中で苦笑した。
店の中では、若い女の子達がひしめき合ってアイスを選んでいる。さっきまであの中に自分も混ざっていたのかと思うと、少しだけげんなりしてしまった。
「ルパン、好みの女の子でもいた?」
隣からアンジェラに問いかけられて目を向けると、クルリとした目が笑顔で自分を見つめていた。久しぶりに外の空気を吸ったせいか、今日のアンジェラはやけに元気だった。午前中からずっと外を歩き回っているのに、少しも疲れた気配を見せていない。動くたびにワンピースのプリーツがさらさらと揺れて、それだけで四世はドキドキしてしまう。紺のプリーツワンピースに白いジャケット、それに流行のウェッジソールは彼女の魅力を綺麗にまとめている。引き続き春麗らかなこの陽気には、彼女の服装がピッタリだった。実はこれ、翌日出かけると聞いた七見が昨日買って来たものなのだ。彼女を見ただけでピッタリの服を選ぶとは、奴は自分以上のプレイボーイじゃないかと四世はその時心から思ったのだが、そのくせ、本人は甘いものが嫌いだからと今はアジトに残っている。本当に、つくづくわからない奴だ。
「ん~?違うよ、やっぱりチョコレートクランベリースペシャルも良かったかなぁって」
ぺろりと、アンジェラが持っていたストロベリーアイスを舐めてみる。コクのある甘さの間に挟みこまれたイチゴの酸っぱさは、さっぱり感を味わうまもなく溶けて消えてしまった。
「あ、ひどい!!ルパンのもちょうだい!!」
アンジェラはわざわざ反対側に回って四世が持っていたチョコレートアイスにかぶり付く。四世が舐めた量よりもだいぶ大量に連れ去って満足したようだった。チョコレートストロベリーもよかったな、などと言いながらまた自分の手元に夢中になった。
公園は、平日だと言うのにたくさんのカップルや家族連れで賑わっていた。広い芝生の他に植物園やミニ動物園、ミニ遊園地に美術館まで揃えているので客には事欠かない。たまに、そこへ混じった営業中のサラリーマンが、酷く憂鬱気にベンチで寝転がっている。最近はGPS付き携帯電話の普及のお陰で絶滅寸前らしいが、企業戦士の哀愁は今でも全世界さして変わらないようだった。
「私達も恋人同士に見えるかな?」
歩きながら、アンジェラが空いている手を四世の腕に絡ませる。別に大丈夫だと言ったのに、彼女は道行きで薄手の白い手袋を買って付けていた。軽やかな日に照らされた若干季節はずれなそれは、何となく儚げな光を返しているようにも見える。
「そうだろうねぇ。こんな美男と美女が街歩いてたら、100人中100人だってそう思うに違いないよ」
手袋から目を離し、冗談めかして大袈裟に頷くと、隣から軽やかな笑い声が返ってくる。なんだか、本当に「普通の」カップルみたいだった。ハードボイルドよろしく毎日違う女の子をとっかえひっかえするのも悪くないが、もうそろそろ腰を落ち着けてもいいんじゃないかと、夢物語でも思ってしまう。
「そこら辺に座ろうか。食べ終わったら観覧車に乗ろう」
木陰を指すと、提案は軽い悲鳴のような歓声と共に受け入れられた。飽きたらずにぴょんぴょん跳ねるアンジェラに腕を引っ張られて鼻がアイスを食ってしまった。それを見てまた笑う彼女に、ツーンとする鼻を押さえながらも笑みを返してしまう。本当は、彼女の洋服やその他日常品を買い足さなくてはならなかったのだが、まぁ、少しくらいはのんびりしたっていいだろう。
何より、天使が日の光の中で笑っている姿を、まだ見ていたかった。
「あ、あそこにしよ」
程よい具合に光を遮る木陰を見つけて座ると、アンジェラは自分の両膝を叩いた。膝枕をしてあげようというのだろう。溶けてきたアイスを慌てて口に放り込んでから、お言葉に甘えて横になることにした。
「ねえ、ルパン」
ゆっくり味わっていたアンジェラがワッフルコーンの一番固い場所を食べ終えて、残った紙くずをクルクルと指で弄び出した頃、ふいに頭上で話しかけられた。
「…なに?」
プリーツの上から彼女の体温を感じて目を細めていた四世が生ぬるい返事を返すと、上からさらにぬくもりが被さる。女の子に髪を触られるのは、何でこんなに気持ちがいいのだろう?遠くで親子がキャッチボールをしている、平和で単調な姿も眠気を誘っていた。このまま時間が止まってしまえばいいのに。
「どうして私が外に出たがってると思ったの?」
「あ、ナイスボール」
少年が父親の胸のど真ん中にボールを投げた。喜ぶ親子を見届けてからゆっくりと上を振り仰ぐと、アンジェラははぐらかされたと思ったのか頬を膨らませていた。逆光でその表情は見えなかったが、きっと怒っているのだろう。時間ではなく、髪を遊ぶ手が止まってしまった。聞いてるよ、と四世は弁解する。
「ベートーベンはさ、己の魂を全て掲げて「歓喜」というたった一つの曲を作ったんだ」
「…知ってる」
それでも拗ねた声はなかなか変わってくれない。
「喜ぶための歌なのに、きっと鼻からスイカ出すくらい難産だったんだろうね」
「ルパン」
怒りを通り越して呆れ返り遮ろうとしたアンジェラの唇にそっと人差し指を寄せると、四世は続けた。
「あれは、闇の底で歌うような歌じゃないからだよ。究極の「生」の歌だ」
そう言って、寝転がったまま今度は大袈裟に手を広げてみせた。
「喜びよ、汝(な)れたちの太陽が大空を駆るが如く、壮麗なる天の軌道をわたるが如く、駆けよ、兄弟(はらから)よ、おんみらの軌道(みち)を、喜びにみち、勝利に進む英雄の如く!」
「もう、下手なミュージカルじゃないんだから!!」
そのあまりの滑稽さに、アンジェラが堪らず噴き出した。
「だって、こないだはあそこまでしか歌ってくれなかったじゃないか。オレはね、この、光り輝く続きの場面を光り輝く場所でアンジェラに歌って欲しかったんだ」
広げた腕を、そのままアンジェラの顔に持っていこうとする。笑っていたし、とてもリラックスしているように見えたから、もしかしたらうまくいくんじゃないかと思ったのだ。彼女の両頬の体温を、もしかしたら陽だまりの中で直に感じられるのではないかと。
しかしそれは甘い考えだったようで、アンジェラは近づく両手を寸でのところで白い手袋に包み込んでしまった。
「ルパン」
さっきとは違う、優しく諭すような声で四世は呼ばれた。一体、彼女は何種類の声で自分を呼ぶことが出来るのだろう?毎回毎回、同じ発音なのに違う意味を持っている。今まで誰一人として、そんな風に彼を呼んだ者はいなかった。名前とは、もしかしたらただの記号ではないのかもしれないと、四世はこの時生まれて初めて思った。
「ルパンが今言った部分はね、私には歌えないのよ」
静かに両手が下ろされる。降りた先で触った芝生の草が、神経を伝ってひんやりと頭を刺激した。
「どうして?確かに男声しかパートはないけれど、キーを高くすれば歌えるじゃん。」
別に敢えてそうしているわけでもないのに、なぜか四世の声は小さな駄々っ子のようになってしまった。本当は、自分でもわかっているからなのかもしれない。
そしてたぶん、アンジェラも四世が本気で聞いているのではないことをわかっている。その証拠に疑問に答えることはせず、静かに、再び四世の頭を撫で始めた。まるで、子供をあやす母親のように。
「ずっとこんな日が続けば、いつか歌える日が来るのかもしれないね…」
逆光で相変わらず天使の顔は窺うことが出来ない。もどかしいようで、でも起き上がってまで見ようとは思わなかった。見たら、きっと後悔する。アンジェラだって、見て欲しくないだろう。だったら見るべきではないのだ。
四世はそっと目を閉じて、世界の音に、アンジェラの音に、耳を澄ませる事にした。目には見えない本質が聞こえるはずだった。遠くでキャッチボールをする親子と、すぐそこにいるのに決して触れ合うことの出来ない自分達。その間にある存在は、果たして全く異質なものか否か。
やがて遠くから、アンジェラが口ずさむ歌が聴こえてきた。
「alle Menschen werden Bruder, wo dein sanfter Flugel weilt.」
もうちょっと、もうワンコーラスだけその歌声を聴いたら、目を開けて二人で観覧車に乗りに行こう。きっと、だんだん日が暮れて、世にも美しい景色を目に出来るはずだ。
しかし、ついに二人が空から街を見下ろすことはなかったのだ。
七見のiPodから四世の携帯にメールが入ったのは、それからまもなくのことだった。