幸せな話
4.優美高妙
寝室に一歩足を踏み入れた瞬間、仄かに甘い香りが四世を迎えた。よく鼻を利かせてみると、一時期凝っていたことのあるアロマキャンドルだ。昔付き合っていた女の子が好きだというのでしばらくいろんな香りで楽しんでいたのだが、その淡い趣味は恋の終わりと共に儚く消えていた。たぶん、クローゼットの奥底から七見が無遠慮に引っ張り出してきたに違いない。デリカシーのない野郎だ。
すっかり忘れていたが有名なアロマキャンドル専門店からわざわざ取り寄せたラベンダー。きつ過ぎもせず、甘すぎもせず、程よく香るキャンドルは女性でなくともほっとする。悪くない。これといって思い入れはないが、久しぶりの香りに少しだけ張り詰めていた自分の空気まで緩んだ気がした。奴は今時古臭いガンマンの癖にこういうところだけやけに気障なことをする。一歩先を越されたと、四世は一人心の中で拗ねてみせた。
静かにベッドへ近づくと、微かに寝息が聞こえてきた。七見の言ったとおり、アンジェラはまだお休み中らしい。綺麗なライトブラウンで覆われた左右対称の輪郭に、通った高い鼻、ぷっくりと膨れた唇はすぐにでもキスを落としたくなる。思わず顔を寄せると、長い睫の先に丸い珠が光っているのが見えた。寝顔は穏やかなのに、両頬は微かに湿った気配がある。うっすらと眉間に残る皺の痕は、うなされた証拠だ。
部屋のカーテンはきつく閉ざされている。今は昼間のはずだが、太陽の光はほとんど防御されていた。薄暗い部屋の中で一人、時々涙を流しながら昏々と眠り続けているのだ。一体彼女は、どんな夢を見ていたのだろう。
と突然、何の前触れもなくベッドの中から伸びてきた手が四世の腕を引っ張った。
「わっ」
バランスを崩した四世が思わず倒れ込むと、キスもしていないのに姫の目が開く。視線は真っ直ぐに四世を射抜いていた。
美女は言った。
「私を…人間にしてくれる…?」
「はっ?」
いつの間にか首に回された腕が唇に向かって引き寄せられる。眠り姫は王子様のキスで目覚めるのであって、寝起きに男を襲う鬼畜だったか。カエル王子はお姫様のキスで人間にはなるが、それは自分から求めたものであったか。四世の頭の中で無意味な童話の整理が行われたが、当然全く意味を成さない。これは童話ではなく現実で、彼女は姫かもしれないが自分は王子ではなく泥棒だ。まぁ、このまま引き摺られるのも悪くはない。子供ではないのだから唇くらい奪われたってどうということはない。むしろ奪いたいと思っていたところだ。が、わけのわからない口づけは危険だと言うことも過去の例を散々見続けて学んでいる。
「ちょ…ちょっと…待って…」
寸前で不二子という魔女を思い出して理性を保った四世は、慌ててアンジェラの両脇に肘を着いた。
「アンジェラ…オレが誰だか分かる?」
よく見ると、彼女の目は据わっている。というより焦点が定まっていない。見つめている相手が誰だか分からない上に、完全に眠りから覚めてもいないようだった。たぶん、睡眠薬が一種の幻覚を見せている。さすがに、自分を自分と理解していない相手とキスをするのは心外だ。
拒まれたアンジェラは、一瞬不思議そうな顔をしてから今度はじっと四世を見つめた。その透き通った黒い瞳は、世の中の悪意という悪意を全て吸い尽くすブラックホールのようだった。思わず、睫に付いた涙の雫を指で掬い上げる。本人はわかって男にその視線を向けているのだろうか?別に媚びている訳でもない。乞うている訳でもない。本能的に、求めているのだ。まるで高価な獲物のようでどうしても目を離せなくなり、同時に彼女を幽閉した男の気持ちがわかってしまいそうな気がした。それでもいいと、思ってしまう魔力がある。自分だけのものにしてしまいたい。他の誰の目にも触れさせたくない。自分と自分の空気だけに触れ、自分だけが愛でることのできるこの世に二つとない華。外に出せば、薄汚れてしまうのではないか。それならこのままここに閉じこめてしまおうか。一緒に帰ってきた七見さえ何とかしてしまえば、ここに彼女がいることは自分以外誰も知らないことになる。うまくいくはずだ。いっそのこと、ナナミヲケシテシマオウカ―。
「…あ」
正気に戻ったアンジェラが声を上げて、四世は我に返った。急激に目の焦点が合うのを感じ、慌てて視線を左右に動かしてみる。自分は今何を考えていた?直前までの思考の黒い部分がフッと飛んでゆき、後には居心地の悪い汗だけが残っていた。息を止めていたのか、妙に呼吸が速い。
改めてアンジェラを見ると、彼女は視界いっぱい広がった人間の顔を見つけて目を見開いている。声は驚きで完全に失っていた。どうやら、自分で四世を引き込んだことすら記憶にないらしい。
「やっと目が覚めた?」
自分に対する動揺を隠し、精一杯紳士的な笑みを浮かべてアンジェラから離れると、四世は鏡台のイスを引っ張りだしてベッド脇に腰掛けた。けだるそうに起きあがろうとする彼女を助け、水差しの水を汲んでやる。
「…ありがとう」
しなやかな手つきで受け取ったアンジェラは、コップの水を一気に飲み干した。口の中に入りきらなかった水が少量、顎を伝う。それを手の平で拭う仕草が何とも色っぽかったが、もう先ほどまでの全てを捨ててしまいたくなるようなオーラは残っていない。タオルを手渡してから試しに目を合わせてみたが、綺麗な瞳には自分の腑抜けた顔が映るだけだった。
一体彼女はどんな魔法を使ったのだ?
「…私の顔に…何か…?」
四世がじっと見つめていることに気付いて、タオルで口元を拭ったアンジェラが小首を傾げた。
「あ、いや、別に何も…綺麗な顔だと思って…」
口から出たのは自分でも恥ずかしくなるくらい、しどろもどろな声だった。全く、らしくない。いつもなら歯の浮くような台詞の一言や二言は平気で言い放って、女の子達を骨抜きにしてしまうのに。まるで中学生男子になってしまった気分だった。何に恥ずかしがっているのかもわからなくなり、その恥ずかしさと意味のわからなさが四世の耳を赤くさせた。薄い闇の中、アンジェラが気づかないことだけを祈ろう。
「…そんな、褒められるようなほどでもないわ…」
しかし言われたアンジェラの方がよっぽど恥ずかしかったらしく、今度は布団で自分の顔を隠してしまった。今の彼女は、普通の女の子と変わらない。四世はやっと平常心を取り戻すと、少しだけ椅子を引いた。
「オレの名前はルパン四世。君をここまで案内したヒゲのムサい男は相棒の七見っていうんだ」
「…ルパン…。泥棒?ルパン三世なら昔よくニュースで耳にしたんだけど…」
アンジェラが布団の向こうでまた小首を傾げる。
「そう。それオレの親父。流行の二世タレントってヤツ。…いや…親父の爺様も世間を賑わせてたのを入れると、名前のとおり四世タレントか」
「すごいのね」
目を丸くした彼女は布団を下ろし、代わりに片手で四代にわたる年月を計算した。どうやら興味を持ったらしい。たまには七光りも役に立つものだ。
「そうでもないよ。代々揃って自分で何かを開拓できないだけ」
「でもやり続けることって、難しいことよ。やっぱりすごいわ」
「ありがとう。素直に受け止めておく」
本気でアンジェラが褒めてくれているのを見て、四世の口元に素直な笑みが漏れた。彼女は神妙な顔で頷いている。なんだか照れくさいのはなぜだろう?考えてみれば、人に褒められることが人生の中であまりなかったからかもしれない。
「それじゃあ、あそこにも泥棒に入ったの?なぜあのカジノを選んだの?」
立て続けに質問し始めたアンジェラは、今度は幼い少女のように見えた。起き掛けには妖艶な光を瞳に湛え、ついさっきまでは普通の女の子だった彼女。コロコロ変わる雰囲気は見ていて全く飽きなかった。
「君を盗みに行ったんだよ」
試しに口説き文句を口にしてみた。顔を近づけてみる。彼女はどんな反応をするだろう?
「うふふ。うそつき。あれは偶然。ホントに欲しかったのはカジノのお金なんでしょ?」
笑ってかわしたアンジェラは、今度は焦らすような目つきで身を引いた。まるで年下の坊やを掌で転がすお姉さんの様に。
「…一体君の中には何人のアンジェラがいるの…?」
思わず思ったことが口をついた。その瞬間。
四世は彼女の顔が固まるのを見てしまった。
「ご、ごめん!!」
調子に乗りすぎたか、核心を突いてしまったか。一瞬、あの嫌な汗が蘇った。忘れていた。彼女は「普通の人間と変わらない」女の子なのだ。それは決して普通ではない。内乱に紛れて消えた過去。軟禁されていた過去。光の与えられない現在。見えない未来。彼女のどこに何があるかなんてわからないのだ。あまりにも色々な魅力を持ち合わせているのですっかり夢中になってしまっていた。これでは周りどころか本人までも見失ってしまう。彼女は、ガラスよりも脆い心を持っているのかもしれないのに。
「…ルパン」
強張る表情の下には、見る間に涙が溜まっていく。
「何?」
あまりにも悲しそうな表情に、四世まで泣きそうになってしまった。こんな辛そうな表情をさせるなんて、自分はなんと愚かなのだろう。
「お願いがあるの」
君の為なら、何でも聞いてあげるよ。
「…コールドストーンのアイスクリームが食べたい」
「…はっ?」
思わず、目の奥でスタンバイしていた涙たちが一斉に総員退避してしまった。
「アイス?」
「ええ。明日になったら、あたし目も慣れてきっと外に出られるわ。そしたらまず、ストロベリーショートケーキセレナーデをあなたと一緒に食べたい」
言いながら自分の計画に気分が乗ってきたのか、アンジェラの目がキラキラと輝きだした。涙のせいではない。どちらかというと、たった今思いついた頭の中のアイスのせいだ。
にっこり微笑んで頷いた四世だったが、ふと思い返して、心の中では思わず溜息を吐いていた。このオレが、今まで人の気分にここまで惑わされたことがあっただろうか?親父の計算しつくされた横暴よりも酷い。なんせ相手は天然なのだ。邪気もなければ計算高さもない。本当に自分の気分でここまで性格を変えている。こんな相手をうまくあしらう方法を、四世は自分の人生の中でまだ学んでいない。どうやら、ある意味とんでもない逸材を引き抜いてきてしまったようだ。
「じゃあ、明日の為に今から体力付けておかなきゃね。お粥でも作ってくるけど、食べられる?」
ありがとう、という声と笑顔で腰を上げた四世は、ようやっと部屋を後にすることにした。そんなに長居はしていないはずだが、なんだか何時間もずっといたような気分だ。椅子を鏡台に戻し、扉へと向かう。
「…ルパン」
ノブに手をかけたところで、もう一度声をかけられた。今度はどんなお願いだろう?振り向いてアンジェラを見るが、薄暗い部屋の中では、アロマキャンドルに照らされた朧気な影を確認するくらいしか出来なかった。
「何だい?」
合図のように声を出す。オレは、ここにいるよという合図。たぶん、向こうからも自分の姿はよく見えないはずだ。
「…お願いがあるの」
少し躊躇ってからアンジェラが口を開いた。それは先ほどまでのささやかな希望を唱える声ではなく、紛れもない、あの時の地下室での震えるような声で、四世は思わず身構える。
「この先、私に触れないで。一度目は大丈夫。でも、二度目以降はないわ。」
思いがけない申し出に、一瞬何のことかと思わず顔を顰める。触れるな…?一度目と言うのは、たぶんさっき首に手を回されたときのことだろう。それ以降は、四世とアンジェラの間には常に洋服という存在があった。直接触れてはいない。これから先、彼女は四世に触れてほしくないということだ。
なぜ?そんなに飢えていそうな表情でもしただろうか?それとも彼女は極度の潔癖症なのか?
瞬時に頭を巡らせるが、こんな事は考えてもわかるわけがない。嫌われたようにも思えない。
直接理由を聞こうとした瞬間、察したかのように頑なな声が降ってきた。
「理由は聞かないで!」
蝋燭の不安定な光越しに写る彼女のシルエットは、抱えた両足に突っ伏していた。
「…ごめんなさい。そのうちに話すから…。わがままだってことはわかってる。こんなに良くしてもらってるのに…。でも…。でも、私はあなた達にだけは、私に触れてほしくないの…」
ジリ…と、炎が芯を燃やす音がした。
揺れている。
風もないのに不安定に揺れる炎は、全ての世界の闇を、心の闇を、無意味に拡大し、無意味に大きく揺らしている。まるで彼女の心の中を代弁しているかのようだった。そして、それすら美しいと思わせてしまうほどの強大な美は、もしかしたら彼女にとっての不幸そのものなのかもしれない。
散々どうしようか迷った後で、四世は結局近づくのを諦めた。今は、そうするべきでない。そうして「やれない」。
「大丈夫。オレたちは君を待ってるよ」
お粥、持って来るね。そう言って、四世は静かに扉を閉めた。