幸せな話

.春風駘蕩

春の日差しが、冷たい北風に邪魔される事なくカーテン越しの窓から降り注いでいた。

世の中に昼が来たことも知らず、カオスの様に雑然とした自分の部屋で作業をしていたルパン四世が、興奮を抑えつつ右の小指と薬指でパソコンのエンターキーを押す。すると、薄暗い部屋で人工的に延々と輝いている目の前のメインディスプレイは忠実にマスターの指示を守り、電子金庫から次々と大量のドルを指定の口座に送金し始めた。

画面の左上に表示される送金完了までのパーセンテージが少しずつ上がり始めると、四世はやっと安心した心持ちで一息吐いた。側に置いてあるマグカップを手に取ってふと、左手に設置してあるサブディスプレイに目を移す。

「おぉ。慌ててる、慌ててる」

冷め切って酸っぱいコーヒーに眉を顰めても、その口元は緩んでいた。モニターの中では、カジノに雇われたSEが半ベソをかきながら頭を抱えている。何とかしようと必死にキーボードを叩いているようだったが、送金が開始されてしまってからでは何人たりともコンピューターシステムを弄くることは不可能だ。一歩間違えればこの大金は一瞬で電脳世界の彼方に消えてしまう。送金中のシステムエラーを防ぐため、この瞬間のプログラムには核シェルターよりも強固な壁が出来上がっていた。彼の動きは無駄な足掻きといえよう。エンジニアの行く末を想像して十字を切ると、四世は左のモニターの電源を落とした。

あれから12時間が経っていた。

下水道を通って無事に街中に出た三人は、隠してあったマーチでカジノから1時間ほどのこのアジトに戻ってきた。ずっと暗闇にいたせいで光への免疫がなくなってしまった姫君を渋々七見に任せると、四世は落ち着くまもなく、機械やら書籍やらおもちゃやら実に様々な道具の散らばった自室に篭って、毒々しい光を放つコンピューターと格闘し始めなければいけなかった。何とか奪ってきた電子金庫のパスワードを、これまた苦労して何とかハッキングしたプログラムに打ち込み、それからやっとお金様を拝むことができたのだ。奪ってからパスワードを変えてしまわれないよう、プログラムに予めかく乱用のウイルスを送り込んだ手間も含めれば、この仕事には相当な体力と知力が奪われている。

それなのに。

自分が無機質なオンナを相手に四苦八苦している間七見はか弱き絶世の美女のお相手中、その上分け前は五分、そんな労働基準法を違反しまくったような仕事があるか。と四世は思っていた。

まぁ、それでも仕事に成功したこの瞬間の高揚感だけは、今日は四世にしか味わえない。そこらの女の子達をモノにした時にだって到底無理だった。これは彼にとって何にも変えられないほどのご褒美なのだ。それでチャラにしてやろう。

再びメインディスプレイに目をやると、ちょうど送金が100%になったところだった。黒い金は電脳世界を巡り巡って白い金となり、四世の元へ入る。これで本当に、この仕事は終わりを告げた。

マグカップを置いて伸びをして、自分の体に労いの気持ちを込める。今日の自分は頑張った。今回はご褒美にギリシア辺りのリゾート地にでも行こうか、などと考えてみると、気分はもうエーゲ海になってしまった。青い空に白い雲、輝く街並み。頭の中を太ったかもめが飛んでいく。昨日の美女には日差しが強すぎるだろうから、サングラスでもプレゼントしてあげなくては。

上機嫌でパソコンの電源を落とすと、待っていたかのように部屋のドアが開いた。

「よう天才。首尾はどうだ?」

体を思いっきり反らして後方を見遣ると、入れたてのコーヒーを片手に判りきった顔をしている相棒が戸口で逆立ちをしていた。

「天才にはね、出来ないことなんてないのよ」

そのまま勢いをつけて体を起こし、張り付いて根まで生えてしまったかと思うほどの腰をイスから引っぺがす。立った瞬間にちょっとだけ立ち眩みがしたが、これはきっと何も食べていないからだ。

1000万ドル、御落札ですよ」

ニヤリと笑って七見の手からコーヒーを受け取ると、四世は部屋を出て向かいのダイニングに向かった。今まで気づかなかったが、家中にベーコンの香ばしい香りが広がっている。キッチンではきっと、ブランチが用意されているのだろう。

「なんだ、それっぽちかよ。俺はもうちょっと入ってると思った」

後からついてきた七見が不服そうに口を尖らせた。国内屈指の裏カジノでの売り上げと言えば、一晩で1億ドルだって動くと思っていたのかもしれない。確かにまぁ、それは間違いではないが。

「何言ってんの、お前。泥棒稼業で稼げる額としちゃあ、これは中々上等の部類に入ると思うけど?」

向こうだって馬鹿ではないのだ。多額の売り上げを一箇所に集めておく訳はなかろう。一晩でカジノを空にするのはいくら天才とて難しい。一体今まで誰を相手に七見はそれだけ稼いでたんだ、と四世は苦笑した。彼だって一般人と比べれば相当金銭感覚の違う男だったが、1000万ドルを「それっぽち」とは流石に言えなかった。同じ殺し屋だった次元の昔話にだって聞いたことはない。やはりあちらの世界も時代が変わっていたのだろうか?

ガスレンジの上のフライパンを覗くと、思った通りベーコンエッグが美味しそうな色と香りで四世を誘惑してきた。待ちきれなくてそのまま手で摘もうとすると、横から七見の手が遮る。それこそ不服だとばかりに四世が睨むと、遮った手はそのままダイニングテーブルを指さした。どうやら用意をしてくれるらしい。

「まぁ。誰かの見世物になって稼ぐ1億より、自分の手で掴む1000万の方がよほど価値はあるな」
宝石のように輝くベーコンを皿に移し、サラダとパンとフォークを一緒に持ってきた七見は、やっとニンマリ笑った。それを見て四世は安心する。本当に不満だったわけではないようだ。

「不服ならもう一回あのカジノに忍び込もうか?どうせ売上金はまだまだタンマリどっかに隠してあるんだろうし。きっと1000万なんてあいつ等屁でもないよ」

「やめとくよ。あんな場所でお前の気紛れにつき合わされるのは暫く御免だ」

大仰に肩を竦めた七見は、そのまま向かいに座って煙草に火をつける。四世が食べ終わるのを待って後片付けに入る気だろう。

「言うと思った。行かないよだ」

それだけ言って、四世は食事に専念することにする。彼とて本当にカジノに再度潜入しようとしたわけではない。一度入った場所に間を置かずもう一度入るというのは、泥棒にとっては本当にリスクが高い。こちらの手を向こうに知られてしまっているというのもあるし、あれだけのカジノだ。「ルパン対策」として想像以上にセキュリティを強化するに違いないのだから。相手の油断に付け入るというのが、四世の生きがいでもあったから、これでは面白くもなんともない。

とは言っても、ルパンを名乗るこの男は中途半端が大嫌いだった。遅かれ早かれ、いずれあそこの金は売り上げから資本から全て彼の懐に入ることになるだろう。狙った獲物を欠片でも逃がすようではご先祖様の血が許さない。今は時期ではないというだけのことだ。

「そう言えば、真っ赤なオレのエンジェルの身元はわかった?」

トロトロに蕩けた半熟の黄身を口の中に流し込み、パンの最後の一欠けらでそれを味わうと、四世の腹はやっと満足したようだった。食器を自分で台所へ戻すと、食後のオレンジジュースを注いで戻ってくる。もう立ち眩みも何もない。

「おうおうやっと来たか」

その質問を待っていたのだろう。四世の自分勝手な主張すら無視をしたのは珍しい。いつにも増して乗り気な七見は、身を乗り出して相棒の前へプリントアウトした書類を差し出した。たぶんこれを本人が聞いたら激怒するに違いないが、四世から見ればその瞬間の七見の姿は、獲物を捕まえてきてご主人様に褒めて欲しがるペットにしか見えなかった。頼み事をしたときの七見はいつもそうだ。自分の得意なこと以外にはとんと疎いので、ちょっとしたことでもすぐに「俺よくやっただろ」オーラを出してくる。これが可笑しくてたまらない。言いたくて言いたくて仕方がないのだが、激怒して出て行かれたらそれこそ溜まったものではないので、あくまで口には出さず、代わりに差し出された書類に目を向けることにした。

「…アンジェラ…ルイス…?」

DATA」と書かれたそれは、恐らくこの国の住民台帳か何かを失敬したものだろう。今より少し幼めに写った彼女の写真の脇に、出生に関する情報が事細かく記載されていた。が、内容よりも四世はまずその写真の美しさに眼を奪われてしまう。幼い顔とはいっても十分にあの魅力は開花している。若干、写真の方が生命力に溢れているだろうか?健康的で、太陽に当たっていない感じは微塵もない。これは、紛れもなくあの牢屋に閉じ込められる前の彼女だ。

しばらく写真の中の彼女に見惚れてからようやっと文字に目を移し、そこで四世は奇妙な内容に気がついた。

1998年より当国に居住…って…。彼女、この国の人間じゃないのか?」

「前は内乱の激しい地域に住んでたみたいだな。難民として渡ってきたのを、その年にあの男が拾ってる」

言いながら、七見は二本目の煙草に火をつけた。彼からしてみれば難民なんて珍しくもなんともないのだろう。

「こっちに移ってくる前の事はそこには何も書いちゃいねぇ。どこぞのデータベースにも全くねぇ。たぶん、戦乱に紛れて消失しちまったんだろう」

気のせいか、四世の喉を通るオレンジジュースがいつもより酸っぱく感じる。命からがら逃げてきて、やっとの事で拾われた先があの地下牢だとしたら、それは一体幸福と言えるのだろうか。無意識に彼女のいる部屋に目をやってその半生を想像してみるが、「ガキ」と呼ばれる時代を比較的恵まれた環境で育ってきた四世にはうまく思い浮かべる事ができなかった。

「あれからずっと牢屋の中…」

「いや―」思わず呟いた一言を、すぐさま七見が否定した。「数年前までは普通に外にも出て、買い物なんかもしていたらしいぞ。これはあの町の住人が言ってたから間違いじゃない。ちょうどその写真の頃だな。ただ、日に日に男と一緒にいる時間が多くなって、そのうち姿を見かけなくなったとも言ってた」

独占欲―。という三文字が瞬時に浮かぶ。権力を欲するものならば、いや、人間ならば誰でも持っている普通の感情だ。しかしそれをあんな風に適用しようとするあの男の気持ちは到底わからない。

「今、あの子何してる?」

考える前に口が動いていた。

「帰ってすぐ薬飲んだから、たぶんまだ寝てると思うぜ」

「ちょっと様子見てくるわ」

いても立ってもいられなくなって、四世は書類もそのままに立ち上がる。危うく後ろにひっくり返りそうになったイスが、寸でのところで留まった。

「おい、ルパン」

部屋を出て行くところを座ったままの七見に引き止められたが、敢えて振り返ろうとは思わなかった。言いたいことは四世にはわかっている。

「オレはお前を見出した男だよ」

それだけ言って部屋を出た。七見にもきっと通じたのだろう。それ以上は追って来ようとも、口を出そうともして来なかった。


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