幸せな話
2.泰然自若
「逃げられた?」
カジノの二階にあるセキュリティールームは、未だかつてないほどの慌ただしさに捕らわれていた。部屋を出たり入ったりしている者もいれば、隅から隅まで走り回って指示を飛ばす者、パソコンのキーボードを必死に叩いている者もいる。現代のありとあらゆる防犯設備をかき集めたようなこの部屋で、筋肉質の男たちが小さなコンピュータを相手に背中を丸めて格闘している姿はなんだか滑稽だった。これでは、泥棒が敵なのか機械が敵なのか、わかったものではない。
そんなつまらないコントのような室内でただ一人、先ほどからずっと黙って様子を眺めている男がいた。部屋の中央にある半円のデスクの上に両肘を着いて座り、狼のように鋭い目線は正面の巨大モニターをじっと睨み付けている。側にスーツのエージェントらしき人物がやってきて耳打ちをすると初めて、男はチラリと驚きの表情を見せた。
「あの包囲からどうやって逃れると言うのだ」
言って、目の前に備え付けられていた18インチのモニターを地下道を映したものに切り替える。確かに、そこにはオロオロする歩兵の姿しか映っていなかった。さらに手元の盤を操作して、今度は赤外線探知機の模様を映す。こちらも、出入り口付近でオロオロうごめく歩兵の赤い点しか映っていなかった。
「…本当に消えたようだな…」
憎々しげに睨んだモニターから目を離すと、彼は着ていたベストの胸ポケットから煙草を取り出した。ゴロワーズ・ブロンド。このカジノのオープンセレモニーで、どこからか現れた変な老人に一本貰ったのが吸い始めたきっかけだった。老人が一体誰なのか男には未だにわからない。方々手を尽くして探したこともあったが、それも全て無駄足に終わっていた。今となっては老人に会ったことすら夢だったのではないかとも思う。確かなのは、彼にゴロワーズを貰って以来、急に歯車が回り出したかのように物事がうまく進むようになっていったことだけだった。今日の日までは、大した壁もなく、こちらが手こずるほど困った客もあまりなく、うまくやって来られたのだ。
今日の日までは。
目を瞑って二、三回煙を吸い込むと、大分気持ちが落ち着いてきた。独特の香りが体を包む。大丈夫だ。自分にはあの爺さんがついている。
「もういい。全員退却させろ」
再び目を開いた彼の瞳には、もう感情的な光は浮かんでいなかった。
「はっ、しかし…」
「いるだけ時間の無駄だ。目の前から消えた瞬間に、奴らは取り逃がしたと思え」
戸惑うエージェントを余所に席を立つと、男は出口に向かって歩きだす。不意に、思い出したことがあった。
「後は任せた」
それだけ言い残して、変に熱気の籠もったセキュリティールームを出る。一瞬、最寄りの地下階段へ向かおうとして思い留まった。消えたとはいえ、ルパン達はまだそう遠くには行っていないはずだ。客に紛れ込んでいる可能性はゼロではない。
念の為、だ。用心するに越したことはないだろう。
きびすを返して、一番近くにあるフロアへの扉を開けた。瞬間、男の全身に煌びやかな光と華やかな音の洪水が襲ってくる。むせ返るような欲望と情熱の色香が薄いベールとなってこのフロア全体を覆っていた。加えて色香に酔った大勢の大人達で、洪水は津波となってさらに男に襲い掛かる。
カジノには毎晩いろいろな人間がやって来た。お遊び程度にルーレットを冷やかしている者もいれば、全財産を投げ出してポーカーに高じている者もいる。自分のステータスを上げる為だけに通い続けている男もいれば、今宵のカモを探そうと目を輝かせている女がいる。まるで世界のように。この世の全てを凝縮して出来上がったのが、この男の、この城なのだった。
男は世界の眩しさに少しだけ目を細め、それから辺りを見回した。ルパンとその相棒は黒いスーツを着ている、とは連絡を受けていた。フロアの反対側にあるもう一つの関係者専用口まで歩きながら、それらしき人物を探してみる。カジノに黒い服を着てくる人間は五万といたが、さっきまで激しい銃撃戦を演じていた奴らの様にボロボロの姿でブラックジャックやクラップスで遊ぶ者はいない。ルパンが紛れ込んでいるとすれば、そう時間はかからずに見つかるはずだ。
人の集るルーレット台をすり抜けて、金持ちが夢中になっているバカラのテーブルを越したところで、不意に自分の姿を見つけた警備員から声をかけられた。周りに聞かれてはまずい件らしく、人気のない場所まで移動する。
「エントランスで刑事が一人、中に入れろとごねているのですが…」
「何の用だ」
「このカジノにルパン四世が侵入したとの通報があったようです」
ピクリと、男は眉を動かした。侵入された被害者である自分が被害届けを出していないというのに、この短時間で一体誰が警察に通報した?ボスに伺いも立てずに、カジノの天敵である警察に連絡を取るという馬鹿をやってのける愚か者を雇った覚えはないから、通報したのは外部の人間だろう。侵入中に奴らが誰かに見られるというヘマをするとは思えない。逃走中に第三者に発見されたか、それとも奴ら自らこの屋敷に警察をおびき寄せたか…。どちらにせよ、警察が来てしまったということはここにルパンがいる可能性はゼロになった、ということだ。
「チッ…」
無駄足だった。もう少し早くわかっていれば、フロアになど寄らずに地下へ入っていたものを。
衝動的に、男は目の前で指示を仰ぐ警備員の足をそれとわからぬよう思いっきり踏みつけた。
「…っぐぅっ」
あまりの痛さに屈強な警備員は呻き声を漏らす。男の履いている革靴の踵は、常にスパイク状に尖っていた。そんな代物でやられたこの警備員は、今後一ヶ月歩くことすらままならないだろう。フロアで蹲りでもすれば、あとで「お客様にいらぬ心配をお掛けした」として消してしまうこともできたが、それをわかっている警備員は、気丈にもその場での直立不動を守っていた。
「我々は警察に用事はない。丁重にお断りしてさしあげろ」
「…はっ」
頭を下げる警備員をそのままに、今度は少し早足でフロアを抜ける。ここまで来てしまったら、もう戻るより進んでしまった方が地下道には早く着くだろう。途中、馴染みの客と挨拶を交わし、ドリンクをこぼしたマダムにハンカチを差し出すと、男はそのまま真っ直ぐ扉に向かった。
カジノフロアには全部で12箇所の関係者通用口が配置されている。この堅くて重い大きな防音扉は、音も照明も、欲望も情熱も、全てを表からシャットアウトしていた。目映い光も裏までは届かない。纏わりつく音を振り切って最寄りの扉の中に滑り込むと、フロアを支配していた浮遊感が途端に消えた。男は久しぶりに現実に戻った感覚で、一つ小さな溜息を吐く。
薄暗い通路を早足で進み、最初に見える階段を降りられるところまで降りると、突き当たりにまた大きな鉄扉が見えた。その先が、侵入者がやってきた時に追い込むための地下道だった。この古い屋敷には、男が買い取った時から継ぎ足し継ぎ足しどんどん新たなセキュリティーシステムが追加されている。その頻度は見回りをしている警備員がたまに引っかかるほどだったが、この地下道はそれよりももっと前から、つまりは男の前の持ち主の時には既に存在していた。何代にも渡る人間の醜い栄光と挫折が、この場所には染み付いているのだ。
年季の入った分厚い錆で覆われている鉄扉を開けると、まだ新しい人間の血の臭いが男の鼻を突いた。
「チッ…」
吐き気がするほど嫌な気分だった。地下の籠もった空間でこの手の臭いが纏わりつくのはいつものことだが、本来ならば、ここに転がっているのは侵入者の物言わぬ骸のはずで、中途半端に足やら腕やらを撃ち抜かれて転げ回っている部下達ではないはずだ。
「…ボ…ボス…」
「…お許しを…」
呻き声の隙間から、情けないくらいか細い声がいくつも聞こえた。等間隔に備え付けられている暗い照明に照らされて、血だらけの手や足が、そしてボスの顔に怯える顔が見え隠れしていた。男は一人一人止めを刺して回りたいのをぐっと堪え、大量の薬莢が転がる通路を用心深く進んでいく。逃がした敵に情けを掛けられ生かされて、その上自分に命を助けろとは無様極まりない話だ。中には出血多量で事切れている者もいたが、その他の者に関しても男はここから出すつもりがなかった。それはつまり、地獄に堕ちたも同然ということだ。
しばらく戦の跡と化した通路を進むと、急に人間も血も薬莢も途絶えた場所に辿り着いた。どうやら部下達はここでルパンを見失ったらしい。
「やはりここか」
一瞬立ち止まって、この先にトラップが仕掛けられていないかどうか確認した男は、懐に隠し持っていたベレッタを構えて再び先へ進み始める。壁沿いに一歩一歩用心深く進んでいた彼だったが、ある一角で歩みを止めた。いつものようにスラックスのポケットから鍵を取り出し、どうしたって岩壁にしか見えない部分へ差し込む。が、いつもあるはずの手応えが今日はなかった。
「…なるほどな」
この時初めて、男の口元に小さな笑みが浮かんだ。噂には聞いていたが、やはりあのガキはただ者ではない。ここの鍵は特注品で、それほど難しい作りではないものの生半可な開錠技術では決して開かないのだ。久々の大物の予感だった。そういう人間とやり合うのは嫌いではない。
鍵をしまい、笑顔のまま数センチ扉を開けてからまた動きを止める。いつもと違う感触に違和感を覚えた。このまま開かないことはないだろうが、念のため扉の縁を指でなぞると案の定、下部から防犯ブザーが出てきた。開けた瞬間に鳴るように仕掛けたようだったが、これに引っかかると思われていたことは男にとって心外だった。自分はこんなに安い男ではない。
「甘く見ていると火傷をする」
誰にともなしに呟いて、踵でブザーを踏み潰す。本来ならば高らかに鳴り響いて危険を知らせるはずのそれは、役目を果たせずぐしゃりと潰れた。
ただのプラスティックと化した防犯ブザーの残骸を残し、男は中に入ると手探りで明かりをつけた。たちまち、荒い人工の岩壁に囲まれた監禁部屋が煌々と照る蛍光灯の下に姿を現す。だだっ広い湿った空間には大小様々な牢屋が並んでいた。ただ監禁するだけの留置場のような簡素なものから、吊し上げる器具の付いた牢屋、間取りにふさわしくないほど大きなスピーカーの設置された牢屋、床が針で敷き詰められている牢屋もあった。こうやって無機質な光の中で見れば、趣味の悪い異国のテーマパークのように見えなくもない。
「…やはり金だけじゃ済まなかったようだな」
中でも一際大きく、そして本当にオプションの何もない牢屋の前まで来た男は、半分開いた扉を見つめながら言った。中に入り、いつも女が座っていた場所に手をかける。
「まさか連れて行かれるとは」
言いながら、まるでそこに女がいるかのように優しく地面を撫でた。しかしそこにはもう、いつも感じていた温もりの一つも残っていなかった。