幸せな話
四世が言ったのと七見が飛び込んだのは同時だった。四世は慌てて後に続き、内側から戸を閉める。なぜか内鍵がない。念のために扉の下部に市販の防犯ベルを装着させる。開いた途端に音が鳴り響くよう、紐を壁に引っ掛け、本体をドアにくっつけたのだ。敵が開けたら暗くてもすぐにわかる。
「バレてねぇだろうな…」
息を切らしながら七見の声が聞いた。荒い息遣いがよく聞こえるのは辺りが静かになった証拠だ。
「たぶん、見えるところまでは来てなかったはずだ」
扉の向こうで足音が通り過ぎるのを待って、四世はホッと息を吐いた。今のところは取り敢えず、銃弾の嵐を切り抜けた。寿命は少しだけ延びたらしい。
息を整えてからグロックをしまい、代わりにマグライトを取り出して明かりをつける。本当に真っ暗なこの空間では足元と扉側だけ果てを照らすものの、向かいの壁にはLEDマグの強力な光すら届かない。どこまでも底なし沼のように闇が続いていた。
「なんだここは…」
左下に七見の声が聞こえ、それからジッポを擦る音がして小さな明かりが灯った。揺れる明かり越しにチラリと相棒の無事を確認すると、四世は右手の壁を伝ってそろりそろりと歩き出した。相変わらずここも人工の岩壁は続いている。さっきから微妙に掛かるエコーとひんやりと湿った空気が、ここが尋常でない部屋であることを証明しているようにも思えた。
「…監禁部屋か…それとも拷問部屋か…。」
「なんでだよ、穏やかじゃねぇな」
四世の呟きに答えながらゆらりと炎が揺れ、静かに上方へ移動すると後に続いた。
「内鍵がなかった」
「ここまで誘導された可能性もあるってことか」
「寿命はちょっと延びたと思ったけど」
「逆に縮んだ可能性もある」
「そう。でも…歌が聴こえたんだ」
「…歌?」
「この中から、高いソプラノが」
「でも今は聴こえない」
「……」
「どうした、ルパン?」
ピタリと四世が止まった。同時にマグの明かりも消す。
「おい…」
言いかけた七見のジッポの炎も消えた。驚いたのか四世の後頭部に鼻っ柱辺りをぶつけ、辺りはあっという間に暗闇に包まれる。
「ちょっ!!」
「シッ!!」
七見の袖口を掴んで黙らせた。
「いきなり何すんだよ!!」
「オレらがいるせいで歌えないのかもよ、恥ずかしがりやの歌姫は。」
小さい抗議に小さく答える。こっちから向こうが見えなくとも、向こうからならマグとジッポの光ぐらいは簡単に確認できてしまうだろう。不審がって息を潜めているのかもしれない。四世はついでにドアの閉まる音まで声マネで演出し、二人は完全に気配を消した。
やがて。
何分経った頃か、それは小さく聴こえ出した。
「Freude trinken alle Wesen an den Brusten der Natur…」
「聴こえた…」
思わず呟いた四世は後ろに小突かれる。慌てて口を押さえたものの、それはもういらぬ心配のようで歌声が再び掻き消えることはなかった。ホッと一息ついて、マグはつけずに声の方向へ壁を伝って歩き出す。
「alle Guten,alle Bosen folgen ihrer Rosenspur…」
「…何の歌だ…?」
今度は七見が小さく囁く。
「どっかで聴いたことある気がするんだよな…」
「英語じゃねぇな…ドイツ語か…?」
「Kusse gab sie uns und Reben,einen Freund,gepruft im Tod…」
「あ、わかった」
四世は振り返ると、今度はこっそりマグをつけて光が漏れないように七見に当てる。
「第九だ」
「Wollust ward dem Wurm gegeben,und der Cherub steht vor Gott.」
「第九…?第九って、あの、ベートーベンの?」
「そう、歓喜の歌。もうすぐ小休止だ。急ぐよ」
少し早足になった二人は、それでもまるで忍者かのように静かに歩いた。やがて伝っていた壁の感触が人工岩から鉄らしき金属の棒に変化したところで再び立ち止まると、曲はちょうど一章節を終えたところだった。
「素敵な歌声だね、お嬢さん」
突然、マグをつけずに四世が声だけ発した。危険な賭けだった。歌っている相手が武器を持っていれば、驚いて攻撃してきたかもしれない。それでも賭けたのはその歌声があまりにも邪気のない澄んだ声だったのと、もしいざという時は後ろの七見が何とかしてくれるという確信があったからだ。
案の定、声の主からは何の反応もなかった。怯えて息を飲んでいるような空気が伝わってきた。攻撃の心配も、敵である心配もないようだ。四世は覚悟を決めて、マグをつけると声の主の方向へと光を滑らせた。
檻であるのか…最初に鉄枠が手前に見え、扉が見える。声の主は監禁されているのか。と思ったが扉の鍵は掛かっていない。長年ここにいて逃げる心配がないと踏んでいるのだろうか?それとも何か罠か…?
次に血…かと思ったがそれはドレスの裾だった。足は二つに折られてロングの裾に仕舞われている。光が当たった瞬間に少し身じろぎしたようだったが、抵抗する気はない様ですぐに諦めた。真新しい真紅のイブニングドレス。ラインに沿って光をなぞって行くと、そのうち怯えたように肩を抱く両腕を捉えた。長く軽いウェーブのかかった髪は胸まで伸びている。そして、両腕で隠れたベアトップの先に、その顔はあった。
「わぉ…」
危うく四世はマグを取り落としそうになってしまった。こんな美女、今までに見たことがあっただろうか?
眩しそうに細める目はそれでもなお人並み以上の大きさを主張していて、長い睫毛のその向こうですら黒い瞳は光り輝いている。しっかりと意思を持った眉は微かに歪められ、化粧をしているわけでもないのに綺麗な桜色をした唇は潤いを湛えていた。白い肌は陶器のようだ。美しい。美しいという言葉すら、この美女の前ではくすんで見えるようだった。
しばらく見とれていた四世は、相手が眩しさに顔を背けて初めて我に返った。慌てて自分たちの正体も明かすべくマグを自分たちの方へ向ける。
「あ…ごめんなさい。あなたがあまりに綺麗だったものだからつい…」
再び見えなくなった美女に向かって、プレイボーイの彼にしては珍しく必死の弁明を展開しだした。
「オレたち道に迷っちゃったんです。外に出たいんだけど、一番近い出口とか…知るわけないよね…」
自分でもなんて無様な姿なんだろうと思った。耳の角まで赤くなっている実感がある。救いは、ここが真っ暗で後ろにいる七見にその様子を見られないで済んだことぐらいだ。ただでさえしどろもどろの口調に後ろで笑いを耐えているのだ。これ以上からかいの対象を作ってなるものか。
「いや…ごめんね…だけど」
咳払いをした後、改めてこちらから会話を再開させようとした時。突然、闇の向こうから歌声と同じ澄んだ声が聞こえてきた。
「このまま左に進めばそのうち下水道に出るわ」
「え?」
思わず聞き返した四世はマグを再び美女に向ける。
「…なんで…?」
「大丈夫。罠じゃないわ。安心して。」
ライトに当たった彼女の目は相変わらず細められてはいるものの、真っ直ぐに四世を見ていた。この瞳に嘘はない。万人にそう思わせるような不思議な目だった。
「わかった。ありがとう。」
戻ることができない以上、彼女の言う通りに進むしか道はなかった。なぜ鍵がかかっていないのに彼女は暗闇から逃げないのか、それを聞くのは不思議と憚られた。丁寧にお礼の言葉を言うと、四世は左の方向にマグを滑らす。
「この恩は忘れないよ!!」
そう言って七見と共に走り出しかけてから、ふと思いついて四世は振り向いた。
「そのままそこにいるつもり?」
何となく出た言葉だった。闇の中に手を伸ばしてみる。もしかしたら、彼女は待っていたのではないか。自分をここから連れ出してくれる誰かを。光の世界で守ってくれる誰かを。直感でしかなかったがそんな気がした。そしたら、彼女を救い出せるのは自分しかいないと思ったのだ。
しかししばらく経ってもその手は誰にも掴まれなかった。真っ暗な沈黙。やはり四世の予想は、外れたのかもしれない。小さな思い上がりと自惚れだったか。
「…ルパン…」
いい加減に七見が先を促そうとしたその時。
静かに布の擦れる音がして、空気が動いた。息を飲んでいると小さな金属音がして、扉が開く気配を感じる。
「…連れて行って…」
さっき道を教えた時とは別人のようなか細い声がどこからか響いた。もしかしたら、彼女は泣いているのだろうか?
指先に、小さく控えめに触れた相手の指の感触を見つけた。四世は、無くしてしまわないように手を手繰り寄せてぎゅっと握り返した。
「わかった」
それが、この物語の始まりだった。