幸せな話


11.合縁奇縁

都会の隅に我が物顔で構える裏カジノは、いつもの通り定時ぴったりに開店し、いつものスタッフがいつもの配置でいつものように働いていた。今夜も変わらず、豪奢な照明と華麗な音楽とで人々の欲望と愛憎を演出している。女は女としての武器を手に獲物を求めて徘徊し、男は男として己のプライドをかけた戦いに埋没する。ハイエナは影を潜めて時を待ち、王者ライオンは座を死守しにかかる。

ここは世界の縮図。世界の人生模様。

所変わって舞台裏のセキュリティー室でも、まだ若干の緊張を残してはいたものの、あれだけ抜け殻になって去っていった四世が立ち直って女の復讐に来るのはまだ先だろうと、楽観視する者が多数だった。事実この日の営業は至極平和なもので、たまに我が儘な客を放り出す以外はやることがない。部屋の隅ではこっそりトランプ大会が始まっていたほどだった。

「ルパンあのまま自殺したりして」

「ケケケ。最近の若いのはす〜ぐ自殺に走るからな。…ヨシッ」

中の一人がカードを捨てながらいうと、隣の一人が新しく拾いながら相槌を打つ。

「でもあのルパン三世の子供だぜ?なんだかんだ言っても来るんじゃないのか?」

「ヘッ、それだってホントかどうかわかるもんか。お前だってあいつの顔見たじゃねぇか。ルパン三世ってのは、あんな女みてぇな顔してたかよ…あっ、クソッ」

エージェントたちは言いたい放題言っているが、彼らが七見からの攻撃をかわしながら最後に見た四世の姿は、まるで人生を諦めた高校生のように儚げだったのだから仕方がないのかもしれない。あれから一日や二日で立ち直る人間など、この世にいるとは考えられなかったのである。

そんな、人生に打ち拉がれたただのガキより、数々の偉大なる伝説を作り上げてなお健在の大泥棒に話が移るのも無理はない。

「それを言っちゃあ、おめぇはルパン三世見たことあんのかよ」

「見た!!ひでぇモンキー面だった!!…と、昔の上司が言っていた」

「ホレ見ろ、実際見たことねぇんじゃねぇか。…あ」

「でも、あれは誰がどう見てもサルだって、言ってたぜ。あの人は目だけは良いから間違えるはずがねぇ」

「目が良い悪い以前にな、おめぇ知ってるか?ルパン三世が変装の名人だったってのをよ。ヨシッ、上がり」

「え…そりゃって、あ!!おめぇずりぃぞ!!

「な〜にがだよ、ホレホレ掛け金寄越せ」

「もう一回!!

「俺ももう一回!!

「俺も!!

「何がもう一回なんだね?」

言った瞬間に、目の前で輪を作って座り込んでいたエージェントたちが固まった。もうずっと前から男は背後でトランプ遊びを見ていたのに、声を掛けるまで全く気がつかなかったらしい。一流カジノのエージェントが全く聞いて呆れる。

「一体…」

言い始めるまでもなく弾かれた様に全員が立ち上がると、そのまま散乱していたトランプを踏みつけ(隠しているつもりだろう)、必死に敬礼を返す。

「いっ…いえっ…こ…これは…イカサマを見分けられるように仲間同士でシミュレーションを…」

「金を掛けてか」

「…い、いえ…その…」

「まぁ良い。さっさと配置に着け」

男が溜息混じりにそう言うと、突然、スピーカーが壊れたかのように部屋全体が静まり返った。

「え…?」

必死にいい訳を考え、何とか生き残る道を探していたエージャントが、思わず聞き返す。

「配置に着けといったのだ。何度言えば気が済む」

男の懐に手が伸び、ビクリとエージェントたちは震えたが、出てきたのはゴロワーズとジッポだけだった。一本咥えてカチリと火を着け、それでもまだ動かないので一睨みすると、部下達はやっと慌てて配置に戻っていった。

「落ち込んでいるのは何もルパンだけではないのだよ」

何気なくそう呟いて、男はいつもの自分の席に戻った。腰を掛け、肘を着いて世界をモニター越しに高みから見下ろす。このいつもの風景は、しかしいつもよりも随分、色彩を欠いて見えていた。色彩を欠いてはいたが、いつもの景色には変わりがない。

まさか自分がアンジェラを殺るとは心にも思っていなかった。今までの例を見たって、最後に殺られるのは間違いなく自分のはずだった。それをわかっていながら、男はアンジェラをここまで連れて行くことをしたし、わかっていたからこそ、異常と言われながらも彼女を地下に幽閉するという道を選んだのだ。

なのになぜ…。

なぜ、あの時、俺は正気に戻ったのだ?

短くなった口先の煙草を揉み潰し、新しい一本に火をつけようと再び懐に手を伸ばした時、何かが指に当たって男の気を削いだ。取り出してみると、いつか大岡と交わした契約書だった。

「…これも今やただの紙か」

四世の逃亡とアンジェラの死は、早くも大岡の耳には届いているらしく、さっき本人から契約無効の電話がかかってきた。つまり、大岡は切っ先を四世から自分に方向転換したということだ。

「本当に残念ですが」

哀れみを込めた声で大岡はそう言った。しかしその口元は笑っていただろう。あの男は自分と同じ臭いがするのだ。何層にも膜を張って決して自分の正体を現そうとしない。本当に彼の中にあるのは正義なのか、それとも正義の皮をかぶった悪なのか、悪をも被る正義なのか、結局はわからずじまいだったが、どちらにせよ、もう男に残された道はない。こちらも向こうの弱みを握ったつもりで油断をすれば、確実にやられるだろう。夢現で相手にできるほどの人間ではないのだ。

ちょっとやそっとで尻尾を出すような組織構造にはしていないが、そろそろこのカジノも見切りをつけるべきかもしれない。

そう思いながらセキュリティーモニターに目を移すと、ちょうど入り口に止まったリムジンから新たな客が降りてくる所だった。

その顔を見て、男は思わず立ち上がり、座っていた椅子を勢いで蹴り飛ばした。

「…まさかっ!?」

突然の大声に驚く周りの人間を尻目に慌てて部屋を飛び出すと、フロアへの道を一目散に進み出す。しばらく呆然と見送っていた彼の部下達は、それでもすぐにただ事ではないと察し、後を追って数人が駆け出した。

金持ちが夢中になっているバカラのテーブルを越し、人の集るルーレット台をすり抜けて、バタ臭い初心者が金を注ぎこむスロット台を進んでエントランスロビーに辿り着くと、ちょうど男は先ほど画面に映っていた人物と行き当たった。

「おや。オーナー自ら御出迎えしていただけるとは光栄ですな」

男の姿を見つけると、クロークで連れにコートを預けさせていた老人が微笑んだ。

ロマンスグレーに見事な口髭、長身ではないがシャンと伸びた背筋に似合ったタキシード。足が悪いのか右手に杖を持っているが、添え物程度にしか男には見えない。真紅の蝶ネクタイが誰よりも似合う老人だった。

「そのご様子だと、私のことを覚えてくださったらしい」

一歩二歩と歩み寄り、老人が握手を求めてきて初めて男は我に返った。慌てて自分を持ち直すと、両手を広げて老人を迎えた。

「これはこれは。いやまさか覚えていないはずがありません。私はあなたのおかげで今の成功を手に入れる事が出来たのですから」

「またご冗談を。私はあなたに煙草を一本差し出しただけだ」

破顔した老人の瞳はあの頃となんら変わっていなかった。これだけ日々目まぐるしく変化して行く世界で変わらないものを見つけて、男は少しだけ安堵する。

「よろしければVIPルームにご案内致します。カジノで遊ばれる前に、お飲み物でもいかがですか」

「ほう、それは忝い。」

お言葉に甘えさせていただきましょう、と老人は言って快く申し出を受けた。男は、老人をVIPルームに案内しながら、これは、もしかしたらここで何かが変わるかもしれないと思った。

 

その部屋は片面が全面窓ガラスになっていて、カジノのフロアが一望できるようになっていた。置いてあるテーブルではバカラもルーレットも、ビリヤードだってできるようになっていたし、片隅には小さいながら専用バーカウンターまでついていた。置いてある調度品の類は全てが高級品で、ともすれば美術館と見紛えるような、贅沢な造りになっていた。壁にはゴッホの本物まで飾ってある。

「煙草を吸っても?」

出されたシャンパンで乾杯を済ませると、もう見慣れたゴロワーズのパッケージが、老人の胸元から取り出された。

「えぇ、もちろん。差し支えなければ私もご一緒してもよろしいでしょうか?」

「もちろんだ」

老人の取り出した、綺麗な装飾の施されたゴールドのジッポが男の煙草に火を点けた。吸い込むと、オープンした日の出来事がありありと思い浮かぶような気がした。もう思い出すことも憚られるような、遠い遠い昔の話だ。

「このゴロワーズ、人間の五感を敏感にする機能があることはご存知でしたかな?」

ふぅ、と煙を吐き出した老人が、どこを見つめるともなく言った。

「五感を敏感に?」

「そう。だがこれといって急に劇的な効果が現れるわけではない。万人に同じ効果が現れるわけでもない。だから公には普通の煙草として売られているが…」

老人は立ち上がると、窓からフロアを見渡した。遠くではスロットが、近くではバカラの台が、人々の運命を握っている。

「あなたは、この毒素にかかる才能があったらしい。だから、このカジノはここまで大きく成長した。」

ギャンブルに大切なのは、頭と運と、それから感覚ですからな。そう言ってまた一服、老人の口から煙が吐き出された。それは徐々に部屋中に広まっていき、室内を薄い膜で覆いこんだ。男は自分の煙草に口をつけることも忘れて、老人の言わんとすることを考え続ける。

「一体、あなたは私に何を求めていたのですか…?」

「ここは私にとってはなかなか思い入れの深い屋敷でしてね」

窓から目を離した老人は、顔に微笑を湛えたまま部屋の中を見回した。

「この部屋は、その昔私の書斎だった…。そこにある花瓶も、燭台も、暖炉も、ゴッホの絵も、全てそのまま残してくださったことに、私は感謝しなければならない」

「…あなたはまさか…」

男の煙草から灰がこぼれ落ち、床に敷き詰められていた真っ白な絨毯を染める。しかし、そのことにも男は気付いていなかった。事実は衝撃的だった。

「ジャン・ダンドレジー…?」

この屋敷を買い取る前、その土地の前の持ち主について調べた事がある。もちろん、それは合法的なものではない。裏の裏まで、この先自分がその男の尻拭いをしなければならない事がないよう、屋敷と持ち主について徹底的に洗い出したのであった。拷問部屋まで出てきたのでそうしたのだったが、結局、これといって黒い事実は見つからなかったはずだ。その、中途半端に小説の中から抜け出たような不可思議な名前以外には。

「ジャン・ダンドレジー…懐かしい名前だ。そう名乗っていた時もありましたかな」

老人は、クククと笑いながら灰皿に手を伸ばし、煙草の火を消した。悪あがきのようにのろしが上がり、ゴロワーズは一本尽きていった。

「私の本当の名前は…ジャン・ルパン」

聞いた瞬間、感覚という感覚が男の神経から消えた。幻聴かとすら思った。指の間から、まだ長さのある煙草が落ちた。

「…ま…まさか…」

「そう。ルパン二世、と呼ばれることもありましたかな。この屋敷は、私が事業を拡大するために作らせた別宅のようなものでしてね。引退と共に手放した」

男の動揺に悪戯小僧のような目をして笑うと、老人の顔は少年のように若返った。

「まさか!!ご冗談も大概にして下さい!!ルパン二世は、随分と前に裏の歴史から姿を消した。よっぽどの事がない限り、もう生きているはずがない!!

「そうですよ。もう生きてはいないはずだ。あなたがその昔に見たのは恐らく人前に現れた最後の姿。そこまでわかって、まだお気づきになりませんか?」

さらに老人の笑みが大きくなり、男はやっと混乱した頭の中で一つの答えを導き出した。

「…ルパン…ルパン、四世…」

ビンゴ!!と老人が叫んだ瞬間、突然どこかで何かが爆発した。地震でも起きたかの様に部屋が揺れ、フロアでは人が蟻の様に出口へ殺到し始めていた。同時にどこからか火の手が上がり、部屋の扉の隙間から、尋常でない量の煙が吹き込んできた。

「決着をつけにきたぜ、ご主人様よ」

マスクを剥ぎながら煙越しにそう笑った四世の、真っ赤な口だけが男には際立って見えた。


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