幸せな話


10.懊悩呻吟

「枷を外すのはお家芸じゃなかったのか?」

そう言いながら、七見が四世の腕に巻き付けていた包帯をはさみで切った。器用に両端を固定させてその手を離すと、途端にだらしなく落ちた両腕の包帯から、徐々に血が滲み出してきた。上に上げとけよ、と七見に言われ、四世は機械的に目の前のカウンターへ手を置く。

その一つ一つの動作は普段の彼にしては緩慢極まりなく、まるで生き物とは思えなかった。その上、情けないこの姿。痣だらけの顔に、頭にも巻かれた包帯、ボロボロのスーツとボロボロの靴。何より、どこにも視線の定まらない死人のような目。まるでゾンビのようだった。しばらく心配そうに見ていた七見は溜息をつきながら席を立ち、救急箱を奥の部屋にしまいに行った。

出来事は、今でも悪夢のように四世の瞼に張り付いていた。手を伸ばせば今にも掴み取れそうだ。掴み取れそうで寸前でするりと身をかわす白夜夢のようなその過去は、四世の生命力をただただ蝕むべく存在している。

自分が手を出すことも出来ないうちに目の前で刺され、悶え、腕の中で魂を手放した女。

いっそ夢ならまだ救われたのに…。四世だけではない。きっと関係した誰もが、そう思っていることだろう。

(アンジェラが死んだ。)

何度繰り返してもその言葉は、刃のこぼれることのない鋭い刀となって切りつけてくる。女は今部屋に寝かせてあるというのに、どうしても手を伸ばせば届くような気がしてならない。声をかければ、髪をなでれば、その不思議な瞳を輝かせて起きてくるのではないか、と。

本当は、四世は四世としてこの名前を背負って生きていくと決めた時から、こんなことは覚悟も経験もしていたし、その為に無駄に女に深く関わることも避けてきたはずだった。

それなのに。わかっていたのに。自身の驕りと油断と焦りで、彼女の人生を潰してしまった。

七見があのカジノへ乗り込んでくるのがもう少し早ければ、アンジェラは助かっていただろうか?それとももう少し遅ければ、あの男を殺し、アンジェラと一緒にあの世へ行くことができただろうか?

どっちも無理な上に現実ではないということは頭の隅ではわかっていたが、どうしてもそんなことを考えてしまう。さっきは危うく七見に詰め寄りそうになって、すんでのところで自分の唇を咬んだ。七見には責任がない。それをしてしまえば余計に死ぬほど後悔することは目に見えていた。責めたいのは、責めなければならないのは、あの場で何も手を出せなかった自分。一番、活かさなければならないところで我を忘れた自分なのだ。

しかし、追っ手を撒きながらカジノから徐々に離れて冷静になってくる頃になると、今度はまた別の感情が自分の心を支配していくことに、四世は気付いてしまっていた。

咬んだ場所はいまだ無駄に生と鉄の味を主張しているというのに。

ずっと隣で様子を見ていただろう当の七見は、何も言わずにボロボロのジープを走らせ続けていてくれたが、エンジンも限界だったらしく、しばらくするととうとう動かなくなってしまった。仕方なく途中で放り出して、町外れにある、元は半地下のバーだったであろう跡地に転がり込んだ。中途半端に人通りが途絶えた場所にあり、中途半端に薄汚いので誰も寄ってくる事はない。おまけに、前の持ち主は夜逃げでもしたのか店の酒が半分以上綺麗に残っていて、蜘蛛の巣が張っていても、意味のわからないゴミ紛いのガラクタが散らばっていても、半ば酒目当てに利用していた。

そこが今、実際の数倍は深い闇に沈んでいる。

「なんか飲むか?」

戻ってきた七見が声をかけてきた。手にはアルミ製のマグカップが二つ。

「…ウォッカ…」

「死にてぇのか」

言葉で四世の主張を両断した七見は、マグカップをカウンターに置くと、酒棚の奥から埃の被ったコーヒーメーカーを引っ張り出した。コーヒーも怪我人にはよくないんじゃないかという疑問は、幸い余裕のない四世からは発せられなかった。さらに奥からカチカチに固まったインスタントコーヒーを見つけだし、匂いを嗅いでみてからお慰みのようにほぐしてゆく。どこからどう見てもまともな状態のコーヒーではなかったが、他に見つからないので仕方がないだろう。ないよりましだと、七見は判断したようだった。

「なぁ、七見」

相棒がやかんに火を掛けたところで、久方ぶりに四世は人間の声らしい声を発した。

「なんだ」

「…ごめん」

「あぁ?」

たった一言の、されどあまりに真摯な物言いになってしまったことに、カウンターの向こうが苛立ったのがわかった。しかし、それでも今の自分にはそれが精一杯だったし、だからと言ってこの瞬間以外に謝るチャンスがあるとも思えなかったのだ。

「それは何に対する謝罪だ」

予想以上に相手の声が硬くなって返ってきた。解っている。今の自分は七見を利用しているだけだということは。しかし、だったらこの感情をどこに持っていけば良いのか、四世にはまだ到底わからなかった。結局自滅するしか道は残されていない。

「……ごめん」

「ごめんだけじゃわからねぇよ。俺は残念ながら日本語はそれほど得意じゃない。それは何に対する謝罪だって聞いてるんだ。アンジェラを目の前でみすみす殺されたことか?俺が助けに行ってやったってのにお前はてんででくの坊でしかなかったってことか?それとも今の発言に俺が心底ガックリ来たことか?」

一気に反論をしてくる七見に向かって、一瞬、四世は何か言い返そうと口を開きかけた。が、結局それは言葉にならぬまま呼吸となって消えていってしまった。代わりに溜息と聞き紛うほどの小さな声で一言漏らす。

「…全部」

ガスコンロの火で煙草をつけた相棒は、そのままどっかりカウンターの上に座ると、腰を捻って四世の辛気くさい顔に煙を吐きかけた。

「嘘吐けよ」

少々残酷かとも思えるほどの冷たさで突き放される。

「本当は解ってんだろ。今のてめぇは俺を利用して俺に慰めて貰って自分を甘やかしてぇだけだ。未だやり場のねぇ感情をどこにぶつけていいかわかんねぇだけだろ」

「…そんなんじゃないよ」

七見には、ますます自分が小さく萎んでいっているように見えたのだろうか?それとも微かに震えた消え入りそうな声が、余計に頼りなさを醸し出していたのだろうか?本当に、そんなんじゃないのだ。利用してるのは確かもしれないが、そんなに可愛らしい理由からじゃない。

「じゃあどんなんだよ。言っとくけど俺はお前がそれ以上女みてぇに情けねぇ謝罪を繰り返すなら、マジでぶっ殺すからな。」

いつも以上の口の悪さと眼光の鋭さに、彼が如何に本気で話しているかがわかる。それはもちろん「本気でぶっ殺す」という意味でなく「本気で心配している」方の意味で、だからこそ四世は七見を裏切っている気持ちで一杯になって、そしてまた泣きそうになって声が震える。

オレは本当に最低な人間なんだよ。

「七見に心配して貰えるほど、よくできた人間じゃないんだ…」

言った直後に訪れた一瞬の冷たい沈黙に、四世は今の発言どころか自分の全人生を否定したくなっていた。アンジェラと出会うんじゃなかった。あのカジノには近づいちゃいけなかった。七見を相棒にするんじゃなかった。ルパンなんて継げるはずがなかった。

(何よりも、この世に生まれてしまったこと自体が犯罪だ。)

「…どういう意味だよ」

しかしもちろんそんな事を考えているのは四世だけで、実際聞き返してきたその時の七見の目は、至極真っ直ぐに四世を見つめていたのだが。

「…この設計図に載ってる場所にあるものを、全部集めて欲しいんだ」

半ば諦め、半ば絶望的な気持ちで四世は懐に入っていた紙切れを差し出した。すると、今度は逆に、上から四世を見下ろしていた七見の全ての動作が止まった。

「…お前…まさかこれ…」

クツクツと、傍でお湯の沸きそうな音がしていたが、驚いている七見は気づかない。

「…あの地下のだよ。赤印の場所全てに隠し戸があるはずだ」

「いつの間に…?」

設計図を手に取りながら呆然と問いかける相棒の前で、四世は泣き笑いの顔を見せた。

「別に意に反するならやらなくて良い。オレ独りでも何とかなるから」

「…お前」

「なぁ、七見」

この期に及んで先を続けて欲しくなくて、咄嗟に名を呼び言葉を遮る。自分は何ていう臆病者なのだろう。顔に笑顔を貼り付けたまま、目元を見られない様に右手で額を押さえるフリをした。そのままカウンターに肘を吐くと自然に下を向く。下を向くと、今にも四世の中の何かが壊れ落ちそうだった。

「…なんだ」

頭の上で、七見の声が返ってきた。その声の奥で、お前は何を考えている?どんな表情でオレを見下ろしている?しかし、それを聞く事が出来ない。顔を上げることもできない。今のオレにはそれすら考えている余裕がないんだ。

「オレは本当に人間かな?」

思わず呟いた一言だった。七見に聞こえたかどうかはわからない。奴はしばらく無言で煙草をふかした後、本格的に鳴り出したやかんの警告音に気付いて、沸騰した熱湯を、カウンターの中で静かに注ぎ出した。

カタン、と音がして、やかんはコンロに戻される。代わりに今度はコーヒーメーカーから、コポコポと薄いコーヒーが生まれ落ちてきていた。

合間に、人工呼吸器が呼吸をさせるような音を立てて七見が煙を吐き出す。

「一つだけ聞いて良いか」

静かな室内に、その静かな低音は心地よいほどよく響く。

「俺がこれを集めてる間、お前は何をするつもりだ」

一度置いた設計図を再び手に取って、じっくり眺めながら七見は聞いた。そこには、たった二度ほどそこを通っただけでは到底気づかないような情報が、まるで手に取ってわかるかのように事細かく書き込んである。

「…そうだな…」

相棒の問いに、唇だけ動かして四世は考えた。復讐や仇討ちなんていう美しいものではない。かといってあの男のようにただ本能に任せて動いた結果でもない。

「偽善事業かな…」

顔を上げながら思いついた言葉を何となく口にして、なかなかしっくりきた。まさしく、これからの行動は「偽善」と呼ぶに一番ふさわしい行動だった。自分で自分を繕いたいのだ。それはあまりの的確さに、こんな時にこんな場所でもか、と自然に自嘲的な笑みが漏れてくるほどに。

なるほどね、と一方の七見は肩を竦ませた。

OK、相棒。この仕事、乗ってやるよ」

何がOKなのか。一体どこまで理解しているのか、四世には全くわからなかった。しかし、七見の一言が、果てしなく自分を安堵させるのも事実だった。

短くなった煙草がキッチンのヘリに押し付けられ、のろしの様に最後の煙を上げた。

「心配するな。お前が人間じゃなくて例えば悪魔でも、俺はその側で人間を狩る死神だ」

 

そして二つのマグカップには、中途半端に茶色い液体が注がれる。


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