幸せな話
9.阿鼻叫喚
「…ジェラ!!」
目の前で何かを抱え込む誰かの叫び声で、男は我に返った。なんだ?ここはどこだ?
真っ暗な闇の中にとってつけた弱々しい明かり。それに照らされるいやに黒光りした鉄の塊の数々。周りを軽く見渡して流石にここがどこかを思い出し、それからゆっくりと、脳内に真っ赤な血飛沫が浸透してきた。あぁ、ここは「部屋」の中だ。
「…アンジェラ…」
たった今まで自分の手の中にいたはずの、女の名を呼ぶ。いつもは誰の目も憚らず、思う存分愛してやっていたが、今日は少し勝手が違っていたことは謝ろう。だが、だがアンジェラ。俺たちの間を、ちょっと横からやってきてたまたま見つけたコソ泥が文字通り泥を塗ってきたんだ。仕返しをしないわけは行かないだろう?俺たちは。血に染まった俺たちは、泥棒なんかにはわからない闇を抱えて生きてきたはずだろう?
なのに、なぜ、お前は俺に刃を向けた。
持っていたナイフの柄をぎゅっと握り締めた男は、改めて目の前の光景を見つめる。しがみ付いているルパンの背に隠れて顔こそ見えないが、白い四肢が、暗闇でもそれとわかるほど浮き立って伸びていた。所々が欠けているのが妙に生々しい。そこに細胞が存在しないのではなく、血が、闇の中でアンジェラの体を侵食しているのだ。真っ赤な、いや真っ黒な血を伴って。女は確かにそこにいる。
自分の刺した、この世の天使は。
しばらくアンジェラの体を蝕んでゆく血を見つめ続け、次第に男は冷静になっていった。一体なぜ、自分はあの女を刺したのだ?
憎かったから?いや違う。なぜ彼女を憎まねばならない。ルパンに奪われたものなど興味がなくなったから?いや違う。アンジェラはそう易々と他人にくれてやるほど安い女ではない。
では、どうして?
殺意を感じたからだ。
自分の身を守るため、反射的に男は隠し持っていたナイフを目の前の人間に突き刺した。その瞬間はいつもそうであるように、一切の思考を削除して、ただ、目の前の異物を排除しにかかったのだ。
異物?アンジェラが?信じられない。向かいの壁で鎖に繋がれ、逃げることも、攻撃することも出来なかったルパン四世から感じられたのなら納得もするだろうが、あの時点でルパンの殺気は少しも動じなかった。高ぶるだけ高ぶった感情が理性を排除し、完全に奴は怒りで我を忘れていた。鎖に繋がれた猛獣は、鎖の扱い方も解らず吠えるだけだった。だから間違いなくあれは、突然火口から噴火したかのようなあれは、アンジェラから感じられたものなのだ。
殺意を感じた元凶を探るべく、視線を前方から左下に移した。自分が刺した直後にそこで何か音がした。器用に隠し持っていたナイフか、カッターか。それともテグスか鉄糸か。
チラリと見遣り、正体に男は自分の目を疑った。実際に落ちていたのはそんな物騒なものではなかったのだ。プラスティックの欠片が一つ、それだけだった。直径五センチほどの、白い、壊れた玩具の欠片といわれれば納得してしまいそうになる、先の尖った小さな欠片。
「…どっかで…」
緩々と拾ってみて男は考える。これと同じものを、そう遠くはない過去に男は目撃していた。しかも、こことはそう違わぬ場所で。
「…防犯ベルか…」
一番最初にルパンがここに逃げ込んできた時に、扉の内鍵代わりに仕込んであった防犯ベル。鳴り響く前に男が踏み潰していた。もっとも、その時にはルパンは逃げ出していたので、鳴ったところで既に意味を成さないものになっていたが。その後掃除はしていない。気がつかなかったが、きっとここに入る時にアンジェラは拾ってきていたのだろう。しかしこんな形で男に襲い掛かってくるとは、誰が想像出来得ただろうか?
フッと、男の口元に笑みが浮かんだ。
まるで因果な世界じゃないか、なぁアンジェラ。これを仕掛けた時点ではお前の存在すら知らなかった男の為に、そうとは知らず男の物で俺を殺そうとしていたのか。そんなもので俺が殺せると思ったか。男の仕掛けた玩具のせいで殺され、そいつは、今はお前を抱いている。お前の名前を、がむしゃらに呼び続けている。なんとも皮肉なもんじゃないか。
クックッと、声まで漏らしそうになって視線を正面に戻す。相変わらず、ルパンの両脇からは白い手足が伸びている。目を細めてみて、男はふと頭の隅に疑問を感じた。
そう言えば、ルパンはどうやって鎖を外した?頭の足りない猛獣は、鎖に繋がれ吠えるだけ。まさか怒りに任せて鎖を壁から引っこ抜くほどの怪力の持ち主ではあるまい。
しかし男がそれについて深く考える前に、物事は一つ大きく動き出した。
「アンジェラ!!」
男は一瞬、再び叫んだルパンの怒りが振動となって壁をぶち破ったと見紛った。それほど、タイミングとしてはハリウッド映画のようにピッタリだった。
実際には、幌のとっくに撃ち抜かれたジープが一台、轟音と、大量の銃弾と煙とを伴って、隠し扉を力ずくで破ったのだった。
拷問部屋が星の数ほどある地下とはいえ、その広さは部屋がどれだけあっても足りないほどである。爆音にはエコーがかかり、閃光が闇を切り裂き、ジープは急ハンドルを切りながら追っ手を轢き殺し、この場はあっという間に戦場と化した。
「ルパン!!そこを出ろ!!」
こちらの牢を見つけてそう叫んだのは、運転席の人間だった。国際指名手配犯テツヤ・ナナミ。この間もルパンと行動を共にしていたから、どうやら助けに来たらしいと納得するのにそう時間はかからない。奴はハンドル片手に男の部下達を一掃すると、そのままこちらへ向かってきた。かろうじで残った者たちがMP5で応戦していたが、これもあっという間にコンバット・マグナムの餌食となった。男は、何丁ものサブマシンガンがたった一丁のハンドガンに勝てない有様を、生まれて始めて目のあたりにした。
「ルパン!!早く乗れ!!追っ手はまだウジャウジャいるぞ!!」
彼なりに必死なのだろう。男の姿が見えていないのか、ナナミはひたすらルパンだけに呼びかけ続ける。しかしまた、ルパンにもアンジェラしか見えていないのだ。戦士の怒声は虚しく響き、悲劇の王子は未だひたすら女を離さなかった。
「おい!!ルパン!!…チッ」
ほどなくして、上から男の部下たちが応援に駆けつけてきた後も、ルパンの態度は変わらず、敵のサブマシンガンを奪ってまで戦い続けるナナミの苦戦だけが、徐々に目立って来た。一人というだけならまだしも、びくとも動こうとしない非戦力を抱えて戦うには、流石に相手の人数が多すぎるのだ。やがて業を煮やしたナナミはとうとう最終手段に出た。
突然、まるで狂った闘牛のようにジープで思いっきり牢屋へ突っ込み、体当たりを繰り返しだしたのだ。
一度。二度。三度。
止まらぬ摩擦音の叫びと衝撃音とに、何人かの人間が悪魔でも見たかのような顔をして銃を下ろした。
四度。五度。
「止めてくれ…」と小さな声で呟きながら耳を塞ぐ者が現れた。エコーの効果も手伝って、どうにかすると鼓膜の破れた者がいたかもしれない。しかしおかげで、ナナミに降りかかる銃弾は1/3くらいにはなっていた。
そして、その果てに、「部屋」を隔離していた鉄格子を大破させたのだ。どうやらジープは超合金で出来ているらしいと、男は勝手に解釈した。
「いい加減にしろ!!」
ノロノロと、再び銃を手にしだした追っ手の盾になるよう、さすがに外見はボロボロになった車を二人の影に停め、ナナミは降りてアンジェラを抱えたルパンを無理矢理立ち上がらせる。
その瞬間。
男は見た。男の好きな、真っ赤なドレスを身に纏った天使を。
正確には、アンジェラの体から流れ出た血と、鎖を引き千切ったルパンの手首から流れる血が、立ち上がった拍子に溜まっていた場所から流れ出したのだったが。
男には、アンジェラが自分を肯定してくれているかのように見えた。肯定し、許してくれるから、証拠に赤いドレスを着て見せてくれた。
「アンジェラ…」
思わずそう呟いた瞬間。
轟音と共にマグナム弾が男の頬を掠って奥の壁にめり込んだ。どうやらナナミに気付かれたらしい。主を射程圏内に捕らえられた部下たちの銃声が、パタリと一斉に止んだ。突如降って湧いた、糸の張った沈黙。
「そんなトコに居たのかよ」
静かな低音が、同じ人物の必死の怒鳴り声よりもずっと大きく響く。片手で得物を構えた殺し屋の殺気は、先ほどまでのルパンの比ではなかった。彼もまた、アンジェラの死に激しい怒りを感じているのだ。訓練された人間の冷たい感情は、時に核のような爆弾となる。
これには勝てまい。男は、自分でも意外なほどあっさりと覚悟を決めた。アンジェラが許してくれるのなら、自分はもう死んでも良かろう。
しかし。
「止めろ」
掠れ声でそう言って、ルパン四世が力のない手で相棒を制した。驚いて男が目を遣ると、ルパンのその目が、自分を睨みつける目だけが、今まで見たどんな猛獣の目よりも鋭く光っていた。
「あいつはオレの獲物だ」
あぁ、俺はまた、思い間違いをしていたのかもしれない、と男は思った。今回は、こんなことばかりだと、また冷静な頭で考え嘲笑する自分がいる。テツヤ・ナナミが核爆弾なら、今、目の前で俺に狙いを定めたあいつは何だというのだ?猛獣なんかではない。あれは、例えて言うならまるで…。
ルパンの言葉に少しの間躊躇していたナナミは、やがて悔しそうに視線と銃口を逸らしてジープに飛び乗った。続いてアンジェラを抱えたルパンがノロノロと這い上がり、そのまま再び集中砲火の中を去って行く。
男は、追う事も逃げることも出来ず、代わりに追ってゆく、自分の優秀な部下たちを他人事のように眺めていた。
ふと、懐にゴロワーズの感触を思い出し、一本取り出すとゆっくりとふかし始める。
放たれた猛獣の恐ろしさを、人間は知らない。否。知っていても、知らない振りをするしかないのだ。