この愛の歌を歌おう
悪夢の夜から一週間後。 ルパンは一人、病院にいた。まだあどけなさの残る少女が眠る傍らで、時折外から吹き込む午後の風に当たりながら、窓際に座って一時間はたっている。退屈はしない。陰気臭さもない。晴れた空気の穏やかな香りと、外に見える木の緑が、病室に平和をもたらしているだけだった。 そろそろが目を覚ます頃だと、昨日言っていたのは次元だ。会いに行ってやればと提案すると、心配なんかしていないから大丈夫だと断られた。下手な嘘である。得意なはずの射撃が昨日はてんで当たらなかったという。しかしどう宥めても賺しても頑として動かないものだから、絶対安静という医師の診断を無視してまでやってきてしまった。自分のせいでこの2人に溝ができてしまっては困る。一体、この一週間でいくつの「大切なもの」を喪ってしまったのか、ルパンは考えるだけで恐ろしかった。もう、これ以上周りで何かが失われていく事に耐えられなかったのだ。 あの夜から変わってしまったものの一つに、次元がルパンと対等の関係でいることをやめてしまったことがある。今までは頼みもしないのに人の心へズカズカと土足で上がりこんでいたくせに、今は何かとルパンの機嫌を窺うようになった。「ご機嫌取り」というほどのものではない。助けられた相手に常に最上の気分を提供しようという心積もりなのだろうが、それはこっちにとっては距離を置かれたようで腹が立つ。助けられたのはこちらとて同じなのだ。今更突き放されたところで、一体俺にどうしろというんだ。そう怒鳴ってやりたい気分だったが、彼には彼で考えがあるのかもしれないと思うと、もうしばらくはそっとしておくしかなさそうだった。 「…お…兄ちゃん…?」 と、ふいに二人きりの室内で小さく呟く声がして、ルパンはベッドを振り向いた。寝ていたの目がぼんやりと開いてこちらを見ている。次元の言ったとおり、本当に目を覚ましたのだ。 「起きたかい?」 「……?」 起き抜けの顔がルパンの顔を見分けられずに不思議そうな表情をしている。無理も無い。本来ならば、そこには彼女の兄が座っているはずだった。 しかし実際、次元はの無事を確認すると二日前に病院を出て行ってしまっていた。ここにいるのは、役不足としか言えないルパン三世ただ一人だ。 「…え…と…」 はまさか自分の国の未来の帝王がここにいるとは思わずに、隣に座る人物を見定めている。それから急にルパンの正体に気づくと、思い出したように体を起こそうとした。 「あ、いい、いい。そのまま寝てろって」 ふらつくにルパンが慌てて手を添える。申し訳なさそうに枕へ頭を戻した彼女の顔は、どことなく最近の次元の顔に似ていた。 「三世様…申し訳ございません」 生真面目にそんな挨拶を始めるに、ルパンは苦笑を漏らした。その言い方はまるで次元。一体この兄妹は、どこまで俺に忠実なんだ。 「そんな呼び方すんなよ。もう、俺は三世様じゃねぇよ」 「え?」 が眉間に皺を寄せた。自分の言っていることを疑っている。まさかあの国がなくなるなど思っていなかったのだろう。しかしそれでもルパンは話をやめなかった。どうせいつかは事実とばれることだ。 「帝国は、崩壊した」 「……」 「ルパン帝国は、終わっちまったんだ。街は全壊。組織も、今はもう制圧軍の一部しか残っていない。…そいつらも所詮寄せ集めだ。近いうちに内部分裂を起こして消滅するだろう」 不思議なほど穏やかな声で喋っていることにルパンは気付いた。自分の代で帝国が終わる。それは、巨大になりすぎたこの国を背負う者としては些かショックの大きすぎる事実のはずだった。絶対王政の中でキングという人間の反乱を目の当たりにしたことだけではない。裏切った人間達があれほどいたことだけではない。寄せ集めの、下心いっぱいの制圧軍に助けられたことだけではない。ルパンの人生が、存在意義が、全て詰まった国がなくなるということが、どうしてだかそれほど悲しいことだと思えなかった。もしかしたら、自分は壊すきっかけを待っていたのかもしれないとまで思ってしまう。何もかもから、開放されたかったのかもしれない。 「俺は何者でもなくなっちまったんだ」 そう呟く自分に、少しの抵抗も感じなかった。 「…そんな」 唖然、とはこのことを言うのだろう。次第に眉間の皺が取れ、ルパンの分も驚いて目を見開いたは二の句も次げずに口をぽっかり開けている。それが当然の反応なんだろうなと、冷静な目で見ることしかできなかった。 しばらくの沈黙。 それから急に、何の前触れもなくぽたぽたと、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。体は驚きで完全に固まっているのに、涙だけが生物かのように落ち続ける。それは次第に川となり、とめどなく流れるようになると嗚咽が止まらなくなっていた。 「…申し訳…あ…アリマ…センッ!!私が…私がキングを止め切れなかったから!!」 その言葉に今度はルパンが目を丸くする番だった。 「な…まさか!!その為にワザとキングに捕まったってのか?」 「だ…だって!!私ができることといったら、それくらいしか!!キングは、私が仲間になれば兄とルパン様の命は助けると…。私は…私は、大好きなあの帝国をなくしたくなかったんです!!」 「バカな!!」 あの国に一体、彼女の命を賭けるどれほど価値があったというのだ。何の生産性も無い、ただよそから何かを奪うためだけに存在しているあの国に。 「三世様と、二番目の兄が笑っていて、両親と一番目の兄、それから私、みんなで2人を見守っている、あの帝国が大好きだったんです」そう言って、は泣いた。 「私の家族は、もう二番目の兄しかいなくなってしまったけれど、それでも、帝国が残れば、あの幸せな思い出だけは消えないと…。思っていたんです…」 「……」 今度こそルパンは何も言えなくなってしまった。大きな思い違いをしていた。全てを失ったのはルパンだけではなかった。頭ではわかっていたはずなのに、自分を悲劇のヒーローに仕立て上げて一番哀れんで慰めていたのはルパン本人だったのだ。何もかもを失くしたのは、跡継ぎである自分だけではなく、生活をしている次元やだって同じだった。開放されたかっただなんて、ただのエゴだ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして気付かなかったんだろう。 再びの沈黙が、明るいはずの病室に暗い影を落とした。 「…ごめんな」 ポツリと、搾り出すようにルパンが呟いた。今まで漏らしたことのないようなルパンの声に、が驚いて涙を止めた。 「どうして…三世様が…」 「壊したのは、俺だよ。俺が帝国を破壊したんだ」 「そんなっ!!」 そんなことはありません!!飛び起きたにルパンは抱きしめられた。ルパンの肩ほどもないであろうその小さな体で、力いっぱい。消えてしまわないで…、そう耳元で囁かれたのは、きっと今の自分が情けないほど泣きそうな顔をしていたからだ。励ましに来たのは自分の方のはずなのに、真実を知ってしまったルパンにはどうしたって今を励ますことはできなさそうだった。 「悪いのは、キングでしょう?三世様は、私達兄妹を助けてくださったでしょう?」 誰もいなくなっちまったから…くぐもった声でルパンはそう言い、の肩口を濡らした。 どうして、俺はこの小さな腕を抜け出すことができないんだろう?ルパン三世は強い人間のはずなのに。どうしての傷を塞いでやることができないんだろう。傷ついているのは同じはずなのに…。俺はこんなに弱い人間だったのか。そう思っても、何もできない。心の通りに体が動かないことを、ルパンは初めて思い知った。 「大丈夫…。私達は、いつでもあなたの味方です。だから大丈夫」 見透かすように彼女は言う。まるで母親が、子供をあやすように。 「大丈夫」?俺が、今までダメだったことがあったか? それでも、どうしても動くことができずに、ルパンはしばらくに背中を擦られ続けていた。 「でさ、次元の奴ったら情けないでやんの。俺に向かって『助けてくれーッ!!』だって。やりたいって言い出したのはあいつだったんだぜ」 「あはははは!!」 白い病室に赤い夕陽が差し込む頃、ルパンはすっかりいつもの調子を取り戻していた。曝け出すだけ曝け出してすっきりしたのか、に今必要なのは楽しい思い出話だということに考え至った。それからは、もう自分の知りうるありったけの次元との思い出を喋りまくっていた。何か一つでも、ただの慰めでも、が少しでも笑ってくれたらいい。それが、ルパンが今唯一してやれるだろう「恩返し」だった。 「あとはね〜」 次のエピソードは何にしようかと考えていた時、ずっと閉まっていた病室のドアがノックされた。びくりと体を固まらせたのも束の間。すぐに、優しそうな顔をした看護士が顔を覗かせた。そうだった、とルパンは頭を掻いた。もうここは帝国ではない。いちいちノックに異常な反応を示さなくてもいいのだ。 「次元さん。そろそろお夕飯ですが、運んでもいいですか?」 「あ、はい。よろしくお願いします」 が返事をすると、笑顔の会釈と共に扉は再び閉じられた。 そろそろ、潮時のようだった。 「んじゃ、俺っちも帰るとすっかな」 そうおどけながら席を立つと、がゆっくりとお辞儀をした。 「兄を、よろしくお願いします」 「え?」 思いもしなかった言葉と、思いもしなかった大人びた表情に、動きを止めたルパンは聞き返した。 「行ってしまわれるんでしょう?兄と一緒に」 なぜ、がそのことを知っているんだろう。確かに、一昨日再会した次元はルパンに向かって第一声「俺はもうお前から離れない!!」とオンナに言うような台詞を叫んで盛大に泣いていた。しかし、ルパンは本気だと思わなかった上にうんと言った覚えもないし、落ち着いたら次元は当然、妹と一緒に新しい生活を築くものだと決め付けていた。 「…なんで」 「ずっと一緒にいたんですもの。それくらいのことはわかります。三世様も、兄も、もうこの世界から足を洗うことなんてできないのでしょう?そこに私はただの足手まといだわ」 あぁ、とルパンは納得しかけた。そう言えば、次元は俺と違って一途な男だったな。昔からそんなことを繰り返しほざいていた。妹も兄貴をよくわかってるぜ。 でも。 この期に及んでそれは、二人とも互いに間違った選択なんじゃないか? 「…違うだろっがよ。今なら、ヤツを止めることは可能だぜ」 「…でも」 「本当だ」 もう、自分のせいで誰かの何かを失くしたくないのだ。この兄妹が、お互いを失くすことなく暮らしていくことが、正しいことなのではないだろうか?自分は元々独りで生きてきたのだから。 「…でも、本当に止めることが可能なら…」 それでも強い瞳では食い下がった。 「兄は、今頃ここにいるはずです…」 そう言って、今度はまるで大人の女性のような静かな涙を彼女は流した。 「私が行かないでと言ったら、兄は優しいから行かないでいてくれる。だから、ここにいないのでしょう?兄の心は、もうとっくに決まっていると思います」 私も、三世様が「留学」している間に少しは大人になったんです、とは再び静かに笑った。 ルパンは再び目を見張る。次元が頑なにここへ来なかった理由を、妹である彼女はルパン以上に知っているのだ。 もう、これ以上ルパンには何も言えなかった。 私は、生きます。 約束します。 だから、三世様も約束してください。 必ず有名になって、世界中どこからでも、兄の無事がわかるようにしてください。 私は、必ずそれを見つけます。 沈みかけた夕陽と共に、はルパンを静かに送り出した。包帯だらけの体を気遣う気丈さまで見せて。 しかしそれもつかの間。 ルパンが去った後、今まで聞いた事も無いような泣き声が病院中に響いたという。 |