Blue daisy
振り向くと一人の男が備え付けのソファに座って、資料を片手にこっちを見ていた。細いレンズのインテリ眼鏡。濃いグレーのスーツはインテリに輪をかけている。それに似合わぬ短髪に親父みたいなクソもみあげに、人を馬鹿にしきった薄い目と唇に浮かんだ能面みたいな笑みは間違えようもない。奥で陣取っているはずの大岡だった。
「そのお体で休憩もなさらずに渋谷の町へ繰り出そうだなんて、無茶ですよ」
ソファから立ち上がった大岡は「世界の花言葉辞典」なる、奴には到底似合いそうもない本を抱えたまま、オレたちの前に立ちはだかった。平均的な日本人よりずっと高い身長はそれなりの威圧感がある。
「お気遣いありがとうございます、お兄さん。でもね、帰りは孫が迎えに来てくれることになっているんですよ、近くまで」
笑顔が引き攣るのを必死で押さえ、あくまで温和な表情を貫く。最近の大岡は銭形のじいちゃん並みに鼻が利くようになってきたから、ちょっとやそっとの子供だましは通じない。モタモタしてると本気でばれる。その前に逃げ出そうと、オレと七見は一礼だけすると出口へ向かおうと一歩踏み出した。
しかし。
人間の反射神経というのは本当に怖い。まさかそう来るとは思わなかった。今まで苦労して何とかいろんな事を潜り抜けてこれたと思ったオレたちは、別にどっちのせいでもなく、強いていうなら自分の身を守るためにこれを叩き込んだ親たちのせいで、一瞬にして正体がばれてしまったのだ。
後ろでスライドを引く音がした。たったこれだけで。
唯でさえ油断ならない相手が後方で銃のスライドを引く音がして、オレたちは咄嗟に左右に分かれて観葉植物の中に飛び込み、隙間から身構えた。流石にオレは向こうが撃ってくるまでは撃つ気はなかったからまだ銃は構えなかったけれど、反対側の七見は丸腰の自分の腰に思わず手を当てて舌打ちをした。これじゃあ明らかに普通の老夫婦ではないし、どうしようも取り繕えそうにないじゃないか。
「マーガレットの花言葉をご存知ですか?」
左手に世界の花言葉辞典、右手にシグ・ザウェルSP230、それから顔には薄っぺらい笑顔を張り付かせて、一歩も動くことなく大岡は言った。七見がマグナムを持ってたらまちがいなくあの世行きだったはずだ。もしかしたら、ヤツは今までのオレたちの言動を全て知っているのかもしれない。マーガレットは、ブルーデイジーの代わりに花びらに色を塗ってばら撒いて来た花だった。ほんっとに嫌な野郎だ。
「マーガレットの花言葉は確か…」
向こうがオレをルパンと呼ばない以上、オレは変装を解くつもりはなかった。あくまで優しいおばあさんの声を出すと、ヨロヨロと観葉植物の影から身を出した。
「『貞節』…じゃなかったかしらねぇ」
ちらりと大岡の目を見ると、ちょっとだけ驚いたような顔をした。降参して出てくるとでも思ってたのだろうか?
「いいや。『慈悲』…じゃなかったかね?」
反対側から老人が立ち上がった。紙袋はきちんと持っている。良かった。まだ勝機はある。オレたちは目を合わせると無言で頷いた。
「どちらも間違いではありませんが、今の場合一番相応しい言葉は『誠実』ではないでしょうか?」
言って大岡は満足そうだ。結局それが言いたかったのかよ。「誠実」でもって自首しろと?そんなバカな話があるか。でもおかげで大岡に隙が生まれた。今しかない。
「おじいさん!!」
叫んで七見にマグナムを投げた。こんな時に七見に銃を持たせれば怖いものはない。反対にオレは七見から花を受け取り走り出すつもりでいた。ここの設計を一番うまく利用して場を掻き乱せるのはオレだからだ。花を持って、周囲を掻き乱しながら二人で完璧に逃げるなんてことはオレたちなら容易いはずだった。
なのに。
なのに信じられないことに一瞬、七見がきょとんとした。
オレの企みに七見が気づいた時にはもう遅い。飛び出ると思ってちょうどオレたちの真ん中を狙って投げた銃がボトリと落ちる。床が絨毯なので大して派手な音もせず、ほんとに間抜けな光景だった。そこに大岡の弾が嘲り笑うかのように命中し、マグナムは見事、出口へと続く自動ドアの前へと吹っ飛んでいった。
「これは、ある種の『予言』でしょうかねぇ、ご老人?…いいや」
これはオレの心理描写なのか。心なしか、意地の悪い顔をした大岡の意地の悪い笑みが意地悪く大きくなった気がした。
「ルパン四世と国際手配犯七見哲也」
いや、気のせいじゃない。大岡は最終的に、ホンットに極悪人かと思うくらいの笑みを浮かべてその名を言い放った。
「探したぞ、ルパン。最近やけに顔を見ないと思ったら相棒探しか?国際手配犯なんて物騒な相手見つけやがって。ご苦労なことだがそいつとは馬が合わないらしいな。何度こっそり揉めていた?他の警官は騙せてもな、この俺は騙されないんだよ。それに、ここの博物館ができたのは1970年だ。50年前には存在していない」
「ちぇ。やっちゃった。最初からすっかりばれてたって訳か。せっかく完璧に下調べして変装したと思ったのにな。」
諦めて大岡の正面に出るとオレたちは変装を解いた。たちまち出てくる黒スーツの美男子と青いTシャツに白の半袖シャツを羽織ったワイルド男。この場に女の子がいたらきっとキャーキャー言ってくれるに違いないのに。悔しいから、さも何か仕掛けがあるように大岡に服を投げつけてやると、ヤツは一瞬ビクッとした。ざまみろってんだ。
「でもな、こいつがオレにつり合うかどうかってのはオレが決めることだよ」
そう言ってちらりと隣の七見を見遣ると、両手をジーンズのポケットに突っ込んで諦めた顔で天井を見つめていた。おいおい。見つめたって何にも出てきやしないだろうに。そんなところにいるのは幽霊ぐらいだ。格好いいセリフで庇った自分が馬鹿みたいに思えてくる。もう、今日は何から何まで一人で空回ってる気がして泣きそうだ。
「フン。偉そうなことを言っていられるのも今のうちだけだ」
それに比べて相変わらず大岡は自信満々の笑みを浮かべていた。一歩一歩オレたちに近づいてくると、順番に手錠を填めていく。自分一人なら何とでもなるのに、仲間が一人増えただけで手も足も出ない自分が情けなくて、溜息を吐いてしまう。
「あ〜ぁ。生まれて初めて警官に手錠なんて填められちゃったよ。おい七見、お前のせいだぞ」
「どうせ女に填められたことは一度や二度じゃねぇだろ」
「なんでそんなこと知ってるの…」
「勘だ」
「グチグチ言ってるんじゃない。行くぞ。連れて行け」
大岡の指示で屈強な警官が四人、オレたちの両脇を抱えて連れて行こうとした。オレも七見もそんなに背の低い方ではないはずだけど、こんな奴らに挟まれたら捕らわれの宇宙人みたいになってしまう。四人が四人とも日本人の癖にシュワルツネッガーみたいだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「何だ。俺達はお前のように暇じゃないんだぞ」
先を歩こうとしていた大岡が心底迷惑そうに振り向いた。もう、みんなしてオレを迷惑がりやがって。
「捕まる前に一個だけやらせて欲しいことがあるんだ」
「何だ」
「恋占い」
「連れて行け」
「ちょっと。ちょっと待ってって!!」
両腕を引っ張られながら、それでもオレは強引にその場に留まろうとしていた。七見さえわかってくれればまだまだ勝機はあるんだ。勘でオレの性癖を当てられるくらいだ。うまく話し合えばさっきみたいな失敗はしないはずだ。
「せっかく花博物館で花に囲まれてるんだよ。せめて、牢屋に入る前に小さな希望くらい持たせてよ。ねぇ七見」
「俺はどうでもいい」
この期に及んでまだ七見は無関心を続ける。へこたれそうになりながらも、オレは諦めるわけには行かなかった。他の何を諦めても。こんなことで捕まってたら、この先絶対にうまくいくはずがないんだ。
「そんなこと言わずにさ」
カシャンと音がして、オレの両手を拘束していた手錠が外れた。一瞬にしてみんなが目を丸くしたのがわかる。オレ、マジシャンに転職しようかな。嬉しくなって口元が思わず上がってしまい、それを見た大岡が笑みを消した。
「お前、いつの間に」
再び懐に手を伸ばしかけたヤツを笑顔で制する。本気を出せばこんなもんなのだ。
「まぁ待ってよ。逃げやしないから。大体、オレに手錠を掛ける相手が警察以外は女だけだと本気で思ってるわけじゃないでしょ、皆さん?」
仮にもこれから大泥棒になろうって奴が、これくらいできなくてどうする。
「大岡さん、恋占いやらせてよ。どっちにしろ、これだけ囲まれてたら逃げられやしないよ」
オレたちの周りには、いつの間にかどっから集まってきたのかと思うほどの警官が取り囲んでいた。これでも館内にいる人数の半分くらいにしかならないのだろう。持ち場にいた奴の顔は見当たらなかった。オレたちを囲むためだけに用意された人員に違いない。
「…わかった。許可する。ただし、二人は3メートル以上離れること。早くしろよ」
渋々ながら大岡が首を縦に振った。懐の物も出すのを辞めたらしい。代わりに腕を組んで神経質そうな目で睨み付けられた。
「ありがとう。なぁ、七見。恋占いやろうよ」
ちらりと、オレたちを引き離そうとする警官の合間を縫って七見がこっちを見た。いい心がけだ。相棒同士はいつもお互いにアイコンタクトを取るものだ、とはオレの信条。オレは軽く眉を動かしておどけて見せた。心配ない。オレに乗っかってみろ、七見。
「しょうがねぇ。付き合ってやるよ」
明らかにさっきまでの七見とは微妙に違うテンションだった。覚悟を決めたのか、もうこれ以外に後がないと思ったのか、どちらにせよこれで道は広まった。オレたちの間には相変わらず馬鹿でかい警官がいたけど。まぁ、何とかなるだろう。とりあえず、周りにばれないように七見に計画を伝えなくてはいけない。
「オーケー。オレは今、さっきばら撒き忘れたマーガレットを一輪持ってんだ。」
「それを使えってのか」
「そう。花びらの数は17枚。」
「おいおい。枚数言ったらお終いじゃねぇか」
「だから考える暇はあげないよ。でもオレはブルーデイジーをたくさん使いたいんだけど」
七見の目が変わった。見る間に楽しそうな笑みが顔中に広まっていった。
「オーライ!!」
オールライト。全てわかった。
それが合図だ。聞いた瞬間、オレは懐から出すなり一発グロックを発射させると、今度は天井高くそれを放り投げた。変な会話だと思われても、それを敵に解読させる暇を与えなければいいんだ。
発射した弾は七見の両手を自由にした。七見は、何が起こったのかとキョトンとしてるでくの坊の体をよじ登って放り投げたグロックを掴み取り、代わりに「ごまたまご」の紙袋をこっちに投げて寄越す。オレはジャンプして何とか袋を捕まえるとそのまま姿勢を思いっきり低くして警官たちの股の間を潜り抜け、どさくさに紛れて大岡の急所を蹴り上げて、背を向けて出口へ向かって走り出した。「待て!!」と言って銃を構える音がし、次の瞬間聞きなれた銃声で声が消える。窓ガラス越しに、銃を吹っ飛ばされてビビる警官たちの姿がチラリと見えた。ざまみろ。
途中、耳元で空気の割ける音がしたと思ったら前方の自動ドアにヒビが入った。七見が、ガラスを突き破ってもいいようにオレを避けて撃ってくれたんだ。さすが屈指のガンマンだ。オレは両腕を顔の前でクロスさせると、遠慮なく自動ドアに突っ込んだ。センサーは反応する暇がなかった。うまく飛び出せた。…はずだったんだけど。
外に出た瞬間、袋を持った右手に強い衝撃が走った。「ドスッ!!」とか「ボフッ!!」とか、そんな音がしたんじゃないかと思う。地面に着地して振り向くと、そこではなんとも綺麗な青いフラワーシャワーが降っていた。入る時に親切な案内をしてくれた警官が、傍で頭に花弁を乗っけて呆然としている。
「なっ…!?」
慌てて手元を見ると紙袋は大破していた。七見の方に目を遣ると、ヤツはちょうど大岡のシグ・ザウェルを吹っ飛ばしてこっちへ向かってくるところだった。大岡が撃ったんだ。なんて立ち直りが早いんだよ。むかつく!!!
「ルパン!!大丈夫か!?」
駆けて来る七見のすぐ後ろでは、上司に負けず劣らず立ち直りの早い警官たちが怒りに怒って突進してきていた。やばい。花を全部かき集めてる暇がない。
「くっそ〜!!むかつく!!!」
今度は声に出してそう叫んで、とりあえず手近に落ちていた無事そうな数株を拾い上げた。
「七見!!ズラかろうぜ!!」
やっとマグナムを拾い上げた七見に向かって叫ぶと、そのまま公園通りを南下して駅方面へ向かう。下手に人の少ない裏通りに向かうことはない。あの人混みに出てしまえば警官が何人いようと後はこっちのもんなんだ。