Blue daisy


横断歩道を渡って博物館前に着くと、七見は改めてオレを振り返った。特に急ぐことなくそれに追いつくと、オレは不審そうに見てくる警察官に顔を向ける。

「あのぉ…」

おずおずと遠慮がちに近づいて声を掛けると、急に警察官の顔が柔らかくなった。やっぱり、警官相手にはこの手に限る。

「どうしたんですか?おばあさん」

腰をかがめて視線を合わせる相手に、オレは心底困り果てた顔をした。

「この辺りに『花博物館』っていう博物館があったと思うんだけど、どこら辺になるのかねぇ…?」

「あぁ、それでしたらここのことですよ。ご見学ですか?」

爽やかな笑顔まで見せたこの警官は、ホテルのフロントにでも転職した方がいいんじゃないかと思うくらい丁寧な物腰で接してくれた。弱者に優しいお巡りさん。今の世の中、こういうヤツほど損するようにできてるんだよな…。こっそり世知辛い世の中を憂いながら、オレは後ろに突っ立っていた七見を引き寄せた。

「実は今日が50回目の結婚記念日でねぇ。せっかくだから最初にデートしたこの博物館に行ってみようって、この人が」

腕を組んで幸せをアピールすると、さらに警官の顔が綻んだ。彼には、おばあちゃんが頑固なおじいちゃんの滅多にない優しさに浮き足立ってるように見えるだろう。ついでに、しばらく息を止めて頬を赤く染めてみせた。

「それは良い思い出になりそうですね。今日はちょっと警備の人間が多くて申し訳ないのですが、すばらしい博物館に変わりはないのでゆっくりご覧になってくださいね」

そう言うと彼は受付まで案内してくれた。

「おい。なんだかうまくいきすぎじゃねぇか?」

「世の中全ての人間が疑り深いとね、オレらの商売上がったりなのよ。七見さん。」

耳元で囁いてくる七見に物知り顔で囁き返しているうちに、萎びれたパンジーみたいな顔をした受付のおじさんに中へと案内された。

「これはこれは…。」

隣で七見が地声を出しやがった。慌てて小突くとなんとか咳払いをしてごまかした。警官にはばれていないようだったから安心したけど、本人はそれどころではないみたいだった。資料以上の光景に心から驚いてる。まぁ、無理もないけど。

寂れた博物館、と言うにもおこがましい博物館は他にないかもしれない。さっきの「すばらしい」と言った警官の言葉が120%お世辞だとわかってしまう。中は博物館としてやる気があるどころか、オレには機能そのものをボイコットしようとしているようにしか思えなかった。ブースは無駄に存在を主張しているくせにプランターの中はほとんどがピンボケした植物の写真のみで賄われ、しかもそれですらヨレヨレになって傾いている。見る事の出来る本物と言えばチューリップとかヒヤシンスとか、わざわざお金を払ってここで見なくとも小学校の校庭で十分楽しめるものばかり。広い館内にはその40%を埋めるほどしか照明は設置されていないし、もう薄くなって読めなくなった看板たちは、時代遅れの女の人の笑顔と時代遅れの駄洒落とをかろうじで宣伝していた。オレの真上の電灯は切れそうな悲鳴をあげていた。花どころか、全ての生き物の生気を吸い取ってしまいそうな陰気臭さだ。もしかしたら受付のおじさんもこれにやられたのかもしれない。オレだって下見で一度来てはいたけれど、この様子は何度見ても気が滅入る。おまけに今日は館内の角という角に警官が配置されているのだ。陰気臭い建物に陰気臭い男共が集結して、まるでここは性質の悪いお化け屋敷だ。訪れた人全員が何をしに来たか忘れて逃げ帰ってしまうに違いない。やって来ればの話だけど。

「懐かしいねぇ、おじいさん」

無理矢理にでも思い入れの深さを取り繕ってゆっくりと順路を回り始めると、程なくして警官たちの無遠慮な視線がチクチクと刺さってくるようになった。やはり入り口の警官みたいな紳士的な人間はこの組織では稀なんだろう。じろじろと、不審と言うよりむしろ好奇の目で俺たちを見てる奴らの多いこと。こんなんじゃ、例え本当に見学者だったとしても居心地が悪いだろう。見ろ。七見なんて右手と右足が一緒に出てる。

「おじいさん、おじいさん」

あくまで優しいおばあちゃんを貫き通すつもりでいるオレは、写真すら飾っていないプランターに「アキノキリンソウ」と書かれたプレートが置いてある近くに七見を呼びよせると、警官の死角を狙って思い切り足を踏みつけた。ただでさえ暗い館内に加えここは電気すらついていないので、何があったかなんて見えやしないだろう。

「イッ…!!!

「あらあらおじいさん、持病の痛風?神経痛?それとも心臓?」

うずくまる七見に向かって心配する素振りを見せながらもう一度耳元で囁いた。

「しっかりしろよ、七見。ここで見つかったら全部おじゃんなんだぞ」

「だったら!!こんな回りくどいことしなくとも夜中にこっそり偲び込みゃ良かったじゃねぇか。その方が絶対に楽だ」

「何?心臓?あら大変。お薬飲まなくちゃね」

異変に気づいた警官が一人、こっちに近づいてきていた。オレは素早く七見に薬を飲ませる振りをしてもう一言、早口で囁いた。

「今更遅い!!

「どうした」

オレが立ち上がるのと同時に声を掛けてきたのは、まるで「柔道一直線」とか「巨人の星」とかそういう一昔前のスポコンドラマに出てきそうな警官だった。山のような体にジャガイモのような顔をちょこんと乗せている。捕まったら一溜りもなさそうだ。

「いえいえ、おじいさんの持病の発作が出てしまいまして。でももう大丈夫。お薬を飲ませましたからねぇ」

「ったく、これだから年寄りはめんどくせえんだ」

警官がそう言って本当に面倒くさそうに持ち場へ戻ろうと背を向けた瞬間、オレの斜め右後ろの温度が急に5度くらい下がった。

「オイッ!!

思わず叫んでしまった。振り向いて七見の右手を押さえつける。

「なんか言ったか?」

剣呑な雰囲気で振り向いた警官に、今度はオレが慌てて取り繕った。

「いえいえ、あちらに懐かしいお花が見えたもんですからねぇ。さ、おじいさん。行きましょうか」

今、あいつは間違いなくケツに隠し持ったマグナムを引こうとしていた。警官の放った心無い一言が癪にさわったんだろう。オレはそのまま手を繋ぐようにしてこっそりマグナムを取り上げると、なるべくゆっくり順路を進んで行く。気持ちはわかるけど、今の日本でいちいちこんな言葉に怒っていたらキリがないんだ。これは慣れてもらうしかない。まるで親の敵でも見るような目でさっきの警官を睨み付ける七見を引っ張って行くと、程なくしてオレたちは目的の花の前までたどり着いた。

ブルーデイジー。学名Felicia amelloides Voss和名では瑠璃雛菊と呼ばれる。元々は南アフリカなどに咲いていた半耐寒性常緑小低木で、この辺は冬も暖かいので12月中旬でも見かけることができる。と、説明書きには書いてあった。20センチから40センチくらいのヒョロヒョロ伸びた茎の先に、2センチくらいのちっさい花が乗っかっている。マーガレットに似た形だけれど、花びらの色が本当に綺麗な青色をしていた。まるで澄んだ5月の空のようで、オレは一目で気に入ってしまった。花に栄養を届ける葉っぱたちを遥か下方に見下ろしているような姿も女王の風格で格好いい。

ただし。この博物館においてはこの花の扱いも例外じゃなかった。一応本物とあってブースにはそれなりの照明と囲いと説明看板とプレートが掲げてあるけれど、ただそれだけ。花には蜘蛛の巣が掛かっているし、きちんと手入れをしていないのか所々花が傷んで茶色くなってしまっている。まぁ、普通に公園でも見られる花だからというのもあるんだろうけど、それにしたって酷い。せっかくべっぴんさんに生まれてきたのに、よりによってこんな墓場みたいな博物館で生まれたばかりに、誰に見られることなく茶色くなってしまうなんてかわいそうにもほどがある。花だってこんなところ早く抜け出したいに違いない。

「ほう。綺麗な花だな」

初めて七見が爺声を出した。やっとやる気になってくれたらしい。ったく、世話のかかる奴だ。

「全く。持って帰りたいくらいですねぇ、おじいさん」

では警官たちにはどれくらいやる気があるのだろうと、試しに聞く人が聞いたら如何にも確信を突くようなセリフを投げかけてみた。向こうにやる気があればオレだって俄然やる気が出ると言うものじゃないか。

でも、残念ながらおばあさんの乙女心に気を止めた警官は数えるほどしかいなかった。

「お前…持って帰っちまったら他のお客さんが見れねぇでないの」

七見が呆れた声を出す。きっとこの声は演技だけじゃないはずだ。「何考えてるんだ、お前は!!」と言う怒鳴り声が今にも聞こえてきそうだった。何となく笑い出したい気分を抑えながら、調子に乗ってきたオレはようやく仕事に取り掛かることにしたんだ。

「うふふ。そうですわねぇ…。この花たち…ウッ!!

呻くと同時に心臓を押さえて少々派手気味にフロアへと倒れ込んだ。大して柵も立っていない前方に倒れたから、当然ブルーデイジーも巻き込む。助けを求めるような手を前方に向けて伸ばしたものだから、引っかかったプランターがひっくり返り、中身が全てオレに向かってぶち撒けられた。

「お!!おい、ばあさん!!大丈夫か!?

間髪入れずに、ぶち撒けられた土と花を囲むようにして七見がしゃがみ込む。これで警官からはブルーデイジーの状態は見えない。床が絨毯だったんでプランターが倒れる時にも大した音はしなかったから、彼らが花の異変に気づくのはたぶん俺たちに近寄ってきた時、もしくはオレたちが再び立ち上がってからだろう。さっきの七見の一件で慣れてしまった警官たちにはしばらく動く様子はなかった。それどころか心底迷惑そうな顔をしている。ったく薄情な奴らだ。老人を大切にしないといつか罰当たるぞ。

「え…えっと。そうだ!!薬だ薬!!

七見はうろたえながら薬を探す振りをして、「ごまたまご」の袋の中からスーパーのビニール袋を2つ取り出した。

「うっ…うぅっ…」

オレは苦しそうに呻き悶える振りをしてぶち撒いた花をかき集め、空いてる方のビニール袋に丁寧に入れていった。

「あ!!あった、これだ。ばあさんもう少し辛抱しろよ」

声だけ演技しながら、七見が花のなくなった場所にもう一方のビニール袋の中身をぶちまけた。それから紙袋の中へ素早く二つのビニール袋を入れる。

「だ、大丈夫か?」

心底心配そうな声が聞こえた。

「…えぇ。おかげさまで助かりましたわ…」

七見に向かってにっこりと微笑んでやった。完了だ。

「おい!!おまえら!!!

七見に支えられながら立ち上がった所に、ようやっと警官が駆けつけてきた。今度はオレたちとそんなに年の変わらなそうな若者だった。お坊ちゃまみたいな整った顔立ちをしている。もしかしたらエリートコースのお方かもしれない。ぶちまけられた物を早々に発見したんだろう。顔を真っ赤にしてすっかりいきり立っていた。

「なんだこれは!!

「…大変申し訳ない…。家内が倒れた拍子にぶつかってしまったようで…」

七見が老紳士のように頭を下げたのを、若い警官は軽蔑しきった目で一瞬見た。

「俺達は忙しいんだ。もうここはそのままでいいから、早く行ってくれ」

シッシと手を振ると、彼は持ち場を離れて受付の方へと面倒臭そうに歩いていく。あのおじさんに片付けさせるのだろう。

ったく、どこが忙しいんだ。お前らはもう大事な人間を取り逃がしてるんだ。一生忙しくなんてなんねぇよ。

さすがのオレでもちょっと気分が悪い。心の中で思いっきり舌を出して、また目の色を変えだした七見が暴れださないように押さえつけながらその場所を離れた。

このまま全ての場所を素通りしてしまうのも怪しいので、オレたちはしばらく演技を続けた。パンジー顔のおじさんは顔がパンジーなだけで花には詳しくないようだったから、まずは散らばっているのが偽物だとはばれないだろう。心置きなくゆっくりと逃げ出せると言うわけだ。警備の警官たちはその間も、怪しい二人に気を止める奴は大していなかった。気を止めてはいても、犯行予告現場にノコノコ現れた老夫婦に邪険な目を向けるだけだし。大概が長時間の警備に疲れていて、みんな眠そうな目をしてうわの空だった。

「日本って国はどこまで平和ボケしてんだ」

七見がぼやくのも無理はない。これじゃあ警官のついている意味がないじゃないか。

しばらく歩いていくと、やっと出口に行き当たった。手前はちょっと広いロビーになっていて、置いてある資料の閲覧や、ちょっとした休憩がでいるようになっていた。

「それじゃあおじいさん、そろそろ帰りましょうかね」

「うむ。そうだな」

別に資料の閲覧も休憩も必要のないオレたちは、そのままロビーを後にしようとした。

「もう少しゆっくりなさっていったらどうです?」

なんて声さえ聞こえてこなければ、計画は完璧だったんだ。

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