幸せな話
13.高山流水
「ねぇ、ルパン。私幸せよ」
木漏れ日に、長い髪がサラサラと揺れる。ウェーブのおかげで不規則に光を散らしているその髪がとても綺麗で、四世は手を伸ばして口付けた。オレもだよ、と答えながら。クスクスと笑うアンジェラの振動が髪を伝う。おかしな人ね、と彼女は言った。
「日が暮れたら、あの観覧車に乗りたいわ。きっと、今日は夕陽がとても綺麗でしょう?」
片手で四世の頭をなでながら、アンジェラは離れた所にある観覧車を指した。太陽の光に照らされて、イルミネーションも灯っていないのにキラキラ輝くその麓には、先ほどからずっと人が絶えていなかった。カップルや家族連れ、無邪気な子供達。まさに平和の象徴と言えそうな光景だ。
「アンジェラ…」
堪らなくなって、彼女の名前を呼んだ。なぁに?と、暢気な声が上から降ってくる。四世はその顔をぐっと引き寄せた。今日こそ言おう。とうとう言えなかった、あの言葉を。
―アイシテ…―
ブラックアウト。そしてカットイン。
背中を刺す殺気に四世は気がついた。反射的にホルスターからグロックを抜くと、そのまま戸口に向かって照準を定める。
「誰だ」
「…おいおい、お前は相棒殺す気か?」
「わっ!!ごめん!!」
返って来た声にハッとして、四世は慌てて銃をしまう。立っていたのは、二つのマグカップを両手で掲げて白旗を上げる七見だった。
「せっかくお前の分も入れてきてやったってのに、随分なごあいさつだな」
相変わらずカオスのような四世の部屋の中を、七見が器用にガラクタを避けつつ入ってくる。カーテン越しに覗く朝の光が、歩くごとにフワフワと埃を散らしていた。
「ごめんってば。寝ぼけてたんだ」
「キーボード操りながら寝てたのか?器用な奴だな…」
呆れる相棒からパソコンの前でコーヒーを受け取ると、一口飲んで思わず舌を出す。予想以上に熱かった。それでも、三日間徹夜の末に得たこの苦味は意外なほどに心地よいのも確かだ。
「でも…間違っちゃいねぇよ」
積みあがった洋書のタワーと頂上に乗っかっていた地球儀を退かすと、下から出てきた木の椅子に七見は腰掛ける。何年分になるかもわからないような埃が積もっていて、座った瞬間に大きく舞った。
「…何が?」
恐る恐る二口目を啜りながら、四世は再びパソコンに向かってキーを叩き始めた。カチカチと、リズミカルな音に合わせて指が踊り出す。マグカップを置いた左手がそのリズムに便乗すると、音はさらに加速する。この音が、四世は嫌いではなかった。キーを叩く音は、興奮した時に心臓を叩く音と少し似ている。…こんなことを考えているから、今時の若者はとか言われるんだろうが。
「何が間違っちゃいないのよ?」
下らない思考を脇へ押しやり、なかなか話し始めない相棒に何気なく先を促す。七見のいつもと違う雰囲気には気付いているつもりだった。殺気も明らかに七見から発せられていた。しかし、彼が四世を本気で殺すか否かは自分だってよくわかっていると思っていた。四世の相棒は冗談だって殺気を放てる男なのだ。
画面は止まらずスクロールを続け、パソコン用語が踊り続ける。目で追うように、指でなぞるように、10本の指で次々と指示を出しながら、頭はきちんと隣へ向け続けた。
「俺はお前を本気で殺そうとしたんだ」
わかっている「つもりだけだった」。
しばらくして発せられた突然の告白にクールダウン。そして静かに完全なる停止。七見のたった一言で、四世の心臓はその音を止めた。相棒が何を言っているのかわからず、だから自分はどういった反応を返せばいいのかもわからず、とりあえず彼は首だけ直角に隣へ向けた。七見の瞳の奥には、マヌケな顔をした自分の姿が写っている。
「…どったの?」
そしてこれは父親の口癖だ。奴は人の機嫌が悪くなると首を傾げて媚を売る。絶対にああはならないと思いながら、こういう場面で癖が移るとうんざりする。しかし、だからと言って自分のオリジナルで対応できるほど四世は人生を経験していなかった。
「あの日お前が仕事してる姿を見ながら、俺はお前の背中に銃口を向けたんだよ」
あの日―。
二人でアンジェラを連れて帰って、四世が1000万ドルの金と格闘していた日。
「アンジェラの魔法はどんな男でも一瞬で落としちまう…」
ゆっくりとマグカップを口元まで持って行き、七見はまだ熱いコーヒーを啜った。四世は、七見から目を離さない。
「大概のことには動じない自信があったんだけどな…俺もヤキが回ったもんだ。お前がいなけりゃ…とか思っちまった」
その目に促されるように、七見は自分についての独白を続ける。四世に見つめられた者は、自分ですら偽れる深くて密かな嘘すら吐く事が許されない。
「…一つだけ聞いていいか?」
瞬きをすることも忘れ、四世は先ほどまでには微塵も見せなかった怒りを押し殺しながら、彼としては信じられないほどの低い声を絞り出す。
「なんだ」
「あの部屋からこの部屋まで道のり23メートル。ケツからマグナムを引き出してオレに照準を定めるまで何秒か。その間オレを殺る覚悟を消さなかったお前が」
「…あぁ」
「結局引き金を引かなかった理由はなんだ?」
「……」
ピコン、とスピーカーから陽気な電子音が流れ、送金の完了が知らされた。これで、この仕事は全て終わりを告げたはずだった。カジノの売り上げと資本は、1セントも残らず四世の口座に入金される。
「なんだ?って、聞いてるんだけど?」
四世の目から感情が消えた。相棒相手にこれほどまでの目をした事はいまだかつてなかったはずだ。仕事の達成を迎えたその瞬間にこの目をしたことも。独特の高揚感を無視したことも。それほどまでに、四世は裏切りに対して恐れている。
七見は正面からその目を見据え、持っていたマグカップを近場の棚に置くと、静かに深く息を吐いた。
「お前が。俺の」
キーボードに置いてあった四世の小指がピクリと動いた。カタリと、一つ心臓が音を出す。
「命を救い出したか―」
その瞬間のことを、今でも四世は深く思い出す事が出来ない。気がつくと、相棒は崩れた本の山の中に吹っ飛ばされて口から血を流し、自分はパソコン本体を一つ床に叩きつけて駄目にしてしまっていた。怒髪天を貫くとはまさにこういうことかとどこかで冷静になっている自分を見ながら、それでも四世は自分を止める事が出来なかった。
「オレはお前を救った覚えなど一度もない。変な忠誠心を持ってるなら今すぐ捨てるか消え失せろ」
それだけ言うと、七見を立ち上がらせることもせずに通り過ぎ、そのまま部屋を出ようと歩き出す。
「待てよ」
ノブを掴んだ所で倒れた相棒に止められた。
「アンジェラは!!」
正面を向いたまま止まった四世は、相棒の顔も見ることなく死んだ「恋人」とも呼べない女の名前を感情に任せて呼ぶ。
「アンジェラは、魔法使いでも麻薬でもなんでもねぇんだよ」
「……」
「彼女は、ただ魅力的な一人の女の子だよ。お前が自分だけのモノにしてぇと思うのは当然だった。オレだってお前さえいなけりゃとか思ったよ。けどな」
「…ルパン」
「オレはそんなことよりも、お前がオレに対してそんなくだらねぇ感情を持ってた事の方が悲しいよ」
部屋を貫く沈黙。もうそこには、心臓の音を奏でるキーボードも、陽気な機械音を響かせる場違いなコンピューターも存在しない。窓の外からほんの微かに、空気の揺れる音がするだけだった。
しばらくして、ゴトリと一冊本が床に落ちた。七見の頭に降ってきた、「世界の野鳥全書」第6巻だ。音でわかる。あの本は世界一分厚い本としてギネスに載ったほうがいいんではないかと思うほど分厚い本だ。続いて、ゴトゴトバサバサと何度か重たい本が床にぶつかる音がして、気がつくと七見は本の海の中で偉そうに煙草をふかしていた。
「…悪かったな」
傷に触ったのか、吸い込んだ煙に一瞬しかめっ面をしながら一言呟く。その態度とチグハグな台詞に、四世はやっとドアノブから手を離した。
「…もう言うなよ」
「あぁ」
「もう思うなよ」
「あぁ」
「今度は正々堂々と勝負しろよ」
「…あぁ…」
「しょうがねぇから許してやる」
一瞬で前よりも汚くなった部屋の中を、ヒョイヒョイと足場を探しながら相棒の元へ戻る。床に落とされて無残な姿になったパソコン本体と「世界の野鳥全書」第6巻の間で、四世は七見の手を取り起こしてやった。
午後四時。
丘の上に立った四世は、麓にある観覧車を眺めた。
太陽の光に照らされて、イルミネーションも灯っていないのにキラキラ輝くそこには、先ほどからずっと人が絶えていなかった。カップルや家族連れ、無邪気な子供達。まさに平和の象徴と言えそうな光景だった。
デジャヴュ…。
しかしそれは正確ではない。クスリと口元だけ笑って、四世は足元に置いていた大量のドラムバックを担ぎ出した。
その時大岡は、ずっと泊り込みで取調べをしていた為にとうとう底をついた、ストックの着替えを家まで取りに行く途中だった。最後に着替えたのもいつの事だか正確に思い出せない。まだ夏には程遠い季節だというのに電車の中や道端ですれ違う人に距離を取られるからには、きっと一週間くらいは経っているはずだった。
あまり周りに迷惑をかけるのはいけないと、彼なりに小さくなって歩いているつもりだったが、その様子が怪しさに拍車をかけていることを本人は知らない。
男はシェルターの中から救出され、警察病院の中で正確に逮捕されてからも口を割らなかった。外れた顎が元に戻り、撃たれた傷がそこそこ回復を見せた今になっても、彼は何も語ろうとしなかった。証拠の一つとなるはずのカジノの売上金も、専門家がセキュリティーを突破してシステムの中に入り込んだ時には綺麗さっぱり消えていた。
「あの野郎…」
思わずボソリと呟いた一言に、周囲の人間がさらに大岡から離れていった。これでは、いったい誰が犯罪者だかわからない。
さっさと家に戻ってシャワーを浴びよう…、そう考えて歩を早めたその時だった。
「キャーッ!!」
女の悲鳴に反応して大岡は顔を上げた。周囲の空気が一瞬にして変わる。ざわざわとして落ち着きのない独特の雰囲気が、突然大岡の肌に突き刺さる。引ったくりか、強盗か、通り魔か…。最悪の状況を想像して懐に手を伸ばす。110番は誰かがするだろう。警察手帳なんてパニックには役に立たない。じゃあ…。
迷うことなくグリップを握って走り出そうとした彼の目の前に、灰色をした天使の羽が、舞い落ちた。
「Freude,schoner Gotterfunken,Tochter aus Elysium!」
ガッコンという音と強い揺れと衝撃のあとに、ゴンドラはちょうどよく頂上で止まった。下で係員が慌てて事務所に電話をかける姿が目に入った。あのアルバイトの女の子はかわいかったな…、などと一瞬考えてから四世は視界を上に向ける。もうすぐ夕暮れ時だった。白い雲に赤い太陽の光がうっすらと差していて、一日の終わりを予感させ始める。アンジェラに会うにはこっちの方が近いのだろうか?それとも下水道に潜った方が近いのだろうか?彼女の人生を考えればどう考えてもこっちで合っている気がするけれど、彼女の経歴を見れば間違いなく下だ。経歴だとか歴史だとか、人間は一方的な価値観ってやつが好きだよね、と思いながら、でもオレはこっちで合ってると思うよと一人で頷いて、一番近場のドラムバックのファスナーを開いた。
なんでもいい。所詮天国も地獄も人間が考えた寓話だ。だったら、自分の周囲の人間くらい自分が神になって裁いてもいい。
「Wir betreten feuertrunken,Himmlische,dein Heiligtum!」
ゴンドラの窓は360度景色を見渡せるように強化ガラスの窓が填められていた。しかしそこに開けられるような場所はない。誤って落下されたりでもしたら大事件だからだ。でも、今からもっと大きな話題になるようなことしてあげるからね、と、四世は中からガラスカッターを取り出して器用に窓を切り取り始めた。
「Deine Zauber binden wieder,was die Mode streng geteilt,」
窓に直径50センチの綺麗な円形の穴が開くと、四世はその出来に満足して淵に指を滑らせた。しかし、カッターはガラスをコーティングしながら切ってくれるものではない。当然のことながら指先は切れ、ポタリと血が滴った。一瞬しまったという顔をした彼は、それでも指先をぺろりと舐めるとすぐに改めて行動を開始する。
「alle Menschen werden Bruder,wo dein sanfter Flugel weilt.」
全てのドラムバックをひっくり返すと、中から帯の外れた札束が大量に顔を出した。圧力を掛けられていた分膨張したとも言っていい。あっという間にゴンドラの中を埋め尽くし、外から見れば灰色の塊が浮かんでいるようにしか見えないだろう光景が出来上がった。かろうじで自分の身を挺して穴からの札の流出を防いだ四世は、血の止まらない指先で、その束を一瞬だけ抱きしめた。
「アンジェラ…」
堪らなくなって名前を呼ぶ。
しかしここにはもう、暢気な声で返事を返してくれる彼女の姿はない。そんなことはとっくにわかっているのはずなのに、夢の中の出来事は所詮夢で現実にここにいるのはたった独りだとわかっているはずなのに。わざと傷口に塩を塗るように、札束の中で四世は何度もその名を呼んだ。
言葉にならない言葉の数々は、言いたくなっても喉元で止まってしまう。それらは、口に出した瞬間全て嘘になるような陳腐なものたちばかりだった。そんな台詞でアンジェラに語りかけるくらいだったら、その分全てを名前を呼ぶことに変換したかった。名前は、全てを含有し、全ての真実を本人に語りかける。名前だけが、今四世に許されたたった一つの言語だった。教えてくれたのは、紛れもない。アンジェラだ。
しばらくそうしていると、やがて四世の背中に温かいぬくもりが広がり始めた。不思議に思って振り返ると、いつの間にか沈み始めていた真っ赤な夕日が、ゴンドラと、札束と、四世を照らし出していた。
無限に広がるこの空の下で、無限に赤を広げた太陽が見つめている。この世に生きる全ての者達を、この世に生まれた全ての物質を、無限の赤は優しく暖かに包んでいる。
「アンジェラ…」
最後にもう一度、名前を呼んだ。
今口に出した全ては嘘。だから。
「愛してたよ…」
一歩動いたその瞬間に、彼女の、白とも黒ともつかない綺麗な灰色の羽たちは、四世の手を離れ勢い良く外に飛び出していった。
「alle Menschen werden Bruder,wo dein sanfter Flugel weilt.」
「おかぁーさーん!!空!!てんしの羽がふってくるみたいだねぇ!!」
「いいから喋ってないで拾いなさい!!」
「…お母さん、赤オニみたい…」
「何か言った!?」
「何でもない!!」
「一枚でも多く拾うのよ!!」
「はぁーい…」
「おもちゃ買ってあげるからね!!」
「はぁーい…」
そんなものいらないのに。
でも…なんで空ははれてるのに、この羽はぬれてるんだろう?