幸せな話


00.歓喜之歌

生きとし生ける者は、歓喜を自然の乳房より飲む。

善きも、悪しきもおしなべて薔薇の径を辿る。

それはまた、我らに接吻と葡萄の蔓と、

死の試練を経た友を与えた。

虫けらにも快楽が与えられ、

天使ケルビムは、神のみ前に立つ。


.離合集散

辺りはいつも暗闇だった。何も見えず、何も聞こえない。何も見ず、何も聞かない。最初のうちはひんやりと私を包んでいた湿気だらけの空気も、いつしか身じろぎしない私に愛想をつかして出て行ってしまった。触ってみればゴツゴツヌルヌルと薄気味悪い感触で私を怯えさせていた壁や床や天井も、自分と変わらず薄気味悪い感触の私に飽きて消えてしまった。強烈な匂いを放っていた名も知らぬ虫達は私と同化し、たまに運ばれてくる食事は私に食されることを拒絶していた。

もう何年ここにいるのだろう。…何年…。ではないのかもしれない。何分かもしれないし、何日、あるいは何ヶ月かもしれない。ここは私が生まれてからずっと私がここにいるべく存在していたようにも思えるし、ついさっき前の住人が私の為に部屋を明け渡したようにも思える。時間の観念なんて、全くない。昔はあったのかもしれないけれど、もうとっくに闇の中に陥落していた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚も。それから感情でさえ、いつから私のものでなくなったのか。人間として…もしくは動物としてのありとあらゆる感覚がなくなってしまった私は、きっと人間の入れ物を借りた物体でしかないのだろう。

否。

男がここに来た。たまになのか、しょっちゅうなのか、そんなことは知らないけれど。男は背中に私の知らない白く輝く物を背負い、真っ黒な私と私の世界を薄ぼけた灰色の光へと変身させた。薄ぼけた光の中で私は男に抱かれ、そして抱かれた時だけ、私は自分が人間であることを認識させられた。私は、人間である。そして私は、女である…と。

男は何も喋らず私を抱いた。ただひたすら私を求め続ける。それはある種の神聖な儀式のようで、それでいて単なる本能の暴走のようで、そこに生まれる曖昧さが私は嫌いではなかった。この時間がもっと続けば、私は本物の人間に戻れるのかもしれない。そんな希望まで生まれそうになる。曖昧な希望は曖昧な現実しか生まないというのに。

やがて私が果て、男が果てると、壁や床や天井が私の元へ戻ってきた。湿気はさらに水気を含み、虫たちは人間の匂いに狂喜乱舞した。代わりに男と男の纏う白い光は遠ざかり、灰色のつかの間の世界は夢の中へと消えていった。そして。背を向けた男が光の中に一瞬だけ見せるその顔は、いつも私の心に決定的な杭を打ち込んだ。

男はいつも振り向きざまに小さく笑っていた。心をなくした私に追い討ちをかけるように、醜い笑顔だった。哀れむような笑顔でもなく、慈しむような笑顔でもなくただ、醜い笑顔。笑う男が消え、暗闇が戻る。そうすると、私は吐き出さずにはいられなかった。口の中のものを、胃の中のものを、体中全ての物を。もういい加減吐くものがなくなっても、しばらく嗚咽は止まらなかった。

 

そして私を包む全てものは去って行き、最後に、静寂が戻る。


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