BAR「A PERFECT WORLD」
カラン、と乾いた音が響いた。
続けてコツン、と足元をヒールで叩きながら、人気のない店内にドレスアップした女が一人、入ってくる。すらりとした、長身の美女。深い藍色をしたベルベットのロングドレスが、彼女の魅力を際立たせていた。
ドアを閉めてから初めて女の耳に届く、薄明かりの中で低く流れるジャズは都会の喧騒を一瞬で忘れさせた。女は、こんな隠れた名店があったのかと、少しだけ胸を浮き立たせた。
カウンター席が7つと、小さなボックス席が3つ。決して広い店内ではない。カウンターの中では、マスターらしき男が無言でグラスを磨いている。ボックス席の一番奥では、よく見ると今時珍しいダブルのスーツを着込んだ老人が、独りで宵の酒を楽しんでいた。
女はゆっくりとカウンター席に向かうと、その真ん中の席を陣取った。ついっと流し目で酒のラインナップを確認すると、静かに微笑んでマスターを見据える。
「オールドファッションド、いただけるかしら?バーボンで」
マスターは静かに頷いてグラスを置くと、作業に取り掛かった。角砂糖にビターを沁み込ませ、氷を入れてバーボンを注ぐ。フルーツを丁寧にカクテルピンで差し、最後にマドラーを添える。しなやかで、無駄のない、完璧な動きだった。思わず女は目を見張る。とん、と目の前にグラスが置かれた時にはもう、その飲み物には魔法がかかっているかのようだった。
「どうぞ」
独特の低音で言われて初めて女は我に返った。「ダンディズム」と呼ぶに相応しい色香を持った男に、目を奪われずにいられなかった。彼は既に元の位置に戻り、どれだけ磨いているのかと思われるグラス磨きに専念していた。それほど年を取っている風貌ではない。かと言って格好を「つける」ような年代でもなさそうだ。完璧なオールバックの中には白髪が混ざっていたし、その手元には深い年輪が刻まれている。50代くらいか、と女は適当に見当をつけ、だから何だと己を笑った。今日は仕事をしに来たのではない。
女は改めて目の前のオールドファッションドに目を向ける。バーボンの香りに挟まれた柑橘類の爽快感が、程よく女の脳を刺激した。一口目はそのまま流し込み、それから儀式のように角砂糖をゆっくりと潰していく。角砂糖一個分の甘みがある方がちょうどよいように思えた。二口目を口に含むとその通りで、オールドファッションドを飲ませる店は数あれど、これほど彼女の好みにあったものは今までになかった。
「お一人ですか?」
いつの間にか、ボックス席の老人が女の隣に移ってきていた。その登場は余りに突然で、と同時に余りに自然で、女はなんと返してよいかわからず困惑の笑みを浮かべる。
「もし、お邪魔でないようでしたら、この老いぼれに一杯お付き合いいただけないでしょうか?」
老人はマティーニを注文して、女と向き合った。
「一人の夜は、この歳には意外と堪えるものでしてね」
言葉とは裏腹に、年を重ねて垂れた瞼の奥は笑っている。まるで無垢な少年のように輝いたその瞳は、いたずらっ子のようで、しかし見ようとすれば女を誘っているようで、そのアンバランスさを彼女は気に入った。
「一人の夜が寂しいのは、誰でも皆同じですわ。時が経てば、忘れてしまうだけ」
私でよろしければ、と女が微笑んだ。当人たちは、気付いただろうか?その瞬間、たった三人しか人間のいない古めかしいバーに、一輪の華が咲いた。
「ほう…お若いのに、なかなか人生と言うものを知っていらっしゃる」
「代わりに掴み損ねてしまったものが、いくつもあるんですけれどね…」
老人の前にマティーニが置かれ、見計らったように女はグラスを掲げる。相変わらずマスターは、もう定位置へと戻り所定のグラスを磨いていた。
「何に乾杯しましょう?」
「そうですな…」
さり気無く、老人は女と周りを見渡した。ふと、女の爪先に目が止まる。無骨なオールドファッションドグラスを持つすらりとした指の先に、紫色の、綺麗な蝶が描かれていた。
「孤独な夜の蝶と孤独な老いぼれの出会いに」
一瞬、女が自分の指先を見遣って驚く。まさか老人がこんなに細かい所まで見ているとは思わなかったのだ。しかし、自分を蝶と例えられては悪い気がしない。
チン…と清らかな音がして、二人は静かに微笑み合った。
「なんだか物悲しい乾杯な気がするけれど」
一口グラスに口をつけた女が言う。
「言うほど不愉快な気分にならないのはなぜかしら?」
「当然のことですよ」
いいところに目をつけましたな、とでも言うように老人の片眉が持ち上がった。
「1+1=2であるからです。孤独も集まれば形を変える。蝶と老人とて、例外ではありません」
「インド人はいい事言ったのね。理性的な上にとても詩的な数式だわ」
「そうですな。インド人は数字で愛も語っていたのかもしれません」
くすぐったそうに、女が笑った。
「本当にそんな気がしてきちゃう」
「そうであっても不思議ではありませんよ」
老人もまた、可笑しそうに口元を歪めながらマティーニを口へ運ぶ。二人の笑いあう姿はたった今出合った他人同士には見えなかった。性別を超え、年齢を超え、本質を見極めようとすればそこは奥底で繋がっているのかもしれない。
「世の中は、何があっても不思議ではないのです」
老人は続ける。女は、この使い込んで小さくなってしまった体からどんな言葉が出てくるのかと、食い入るように重たい瞼の向こうを見つめた。
「脳味噌が空を飛ぶこともあれば、神が地上の黄金を盗もうとすることもある」
「まぁ、何かの御伽噺かしら?」
「いいえ、全ては実話です」
内緒話をするお茶目な老人は、女の唇に人差し指を寄せ、自分はウインクをして見せた。
「黄金で出来た島もあれば、偽札で生計を立てる国もある」
「本当に?」
眉唾物の話にまさしく女の眉が顰められた。それでもその眉の寄せ具合は完璧で、女の美貌を一層引き立たせた。
「本当です」
対して変わらず飄々とした笑みを崩さない老人は、グラスで口を潤し、先を続ける。
「ノストラダムスの予言は当たったし、日本の山奥には忍者の財宝が隠されている」
「でも…」
ますます女の顔に困惑が広がる。だんだん、つまらない世界の七不思議のようになってきたではないか。
「そうは言っても信じられない、ですか?」
「えぇ。だって現実味ってものがないじゃない」
「わかりますよ、お嬢さんの言うとおりです。私だって、何もそのまま信じてもらいたいわけじゃあない」
老人は全く気にしていないようだった。ますます楽しげに微笑んで見せる。
「大切なのは、『真実』です」
「真実?」
「伝説にはいつも、真実が隠されているのです。なぜ脳が飛んだか、なぜ神が黄金を盗んだか、それがわかれば、その出来事が真実だったと気付くことになるのです」
「…なんだか新手の宗教みたいだわ」
途中まで真剣に聞いていた女だったが、聞き終わった途端に破顔した。どうにも我慢ができなかったらしい。その勢いで忘れていたグラスの存在を思い出し、だいぶフルーツ味の強くなったオールドファッションドを口に運んだ。
「現実は、必要以上に辛口すぎる」
ふと、老人のトーンが下がった。グラスを置こうとした手を思わず止めて、女はその目を見つめる。
「真実が語れるのなら、それが事実である必要はない。そうは思いませんか?」
頃合を見計らったようにマスターがマティーニを持ってくる。いつの間にか、老人のグラスは空になっていた。
「そうね…そうかもしれないわ」
もう一口女が呷ると、グラスの中の液体は綺麗に消えていった。女はマスターにおかわりを注文し、出来上がるのを待って新たなグラスを老人との間に掲げた。
「では、もう一度乾杯しましょうか」
「ほう。今度は何に?」
老人の問いに、女の笑みが、一つ大きくなる。
「二人の真実に」
老人が静かに笑ってグラスを合わせる…よりも少し早く、控えめに流れるジャズをかき消すかのような、サイレンの音が遠くで響き始めた。
「あら…ここは地下なのに」
手を止めた女が、頬を膨らませて呟いた。
「近いですな」
久しぶりに、マスターが声を出す。
「なんでしょう」
老人は相変わらず笑っていた。まるで新しい話の種を見つけたかのように。
「残念だけれど…」
突然、そう言って女が立ち上がった。老人もマスターも、女を見る。
「今夜はこれでお暇しなきゃいけないみたい」
心から悲しそうにそう言って、それからふと気づいてハンドバックを開けようとした彼女を、老人の柔らかな手が止めた。
「たまには老いぼれに格好をつけさせてください」
「まぁ。では、お言葉に甘えて。今日は楽しかった」
それまでで一番美しい微笑を返した女は老人とさり気無くハグを交わし、次にマスターに向き合った。微笑に、茶目っ気を加えた表情で、マスターにいたずらっぽい目を向ける。
「並べるお酒で、『真実』が見えてしまうわね」
それじゃあまた、とだけ言い残して、女は慌ただしく消えていった。ヒールの音を響かせ、カランという音と共に扉を開ける。入ってきた時と違うのは、開けた瞬間に大きく響くパトカーの音と、扉が閉まった時に薄まるその場の空気だけ。
「……」
どっさりと、マスターと老人が同時に椅子へ座り落ちた。
「…ばれてるじゃねぇか」
苦々しくそう言うマスターの口元には、いつの間にか一本の煙草。
「お前だけじゃねぇのけ?」
気持ちよさそうに伸びをしながら返した老人の手足が、座っていてもわかるほど長くなっていた。マティーニを一気に飲み干し、そばにあった灰皿を手繰り寄せると、自分も懐から煙草を取り出す。自分の都合が悪いことだとこれだ、と悪態を吐きながら、マスターがその先に火を点けた。
「わかってんだろ?あそこで交わすのはハグじゃねぇ。キスだ」
「…お前…いつからそんな酷なこと言うようになったの…?」
「プロならやるだろう?」
意地悪く笑ったマスターは、しかしその笑みをすぐに打ち消した。
「見たくはねぇがな…」
「だろう?」
肺いっぱいに吸い込んだ煙を、老人は小さな輪にして宙へと放つ。お気に入りの息抜き法だった。
「ここはまさしくパーフェクトワールドだな」
宙を見つめたまま老人が言う。
「そんなに美しい世界かねぇ」
と、咥え煙草のマスターがカウンターを飛び越える。
「交代だ。俺にソルティードッグ作ってくれ。」
「あらお珍しい」
どういう心境の変化かしら?とおどけながらも、カウンターに入りカクテルを作る老人の姿は、マスターと引けをとらぬほど完璧だった。塩でスノースタイルにしたタンブラーに氷を入れ、材料を注ぎ、軽くステアする。流れるような動作でマスターの前にグラスを置くと、また自分の為にマティーニを作る。
「夢のアラスカを信じて死んでいった男と、一人の人間を救おうとして失敗した男、どっちが真実を見つめていたのかね」
自分の分をステアしながら老人が何となく呟くと、ちらりとマスターの細い目が老人を見据えた。
「…真実は、一つとは限らねぇんじゃねぇか?お前らみてぇによ」
「ほう?」
カウンターから出た老人は、興味深げにマスターを見る。
「甲板員の俺に言えるのは、それっくらいだ」
ゴクリと、出されたカクテルを一気に飲み干したマスターは、さて、と言って女が口を付けずに置いていったオールドファッションドを引き寄せた。
「一体何が出るか…」
「飲む者によって変わる味…ねぇ」
「お前が飲めば自白剤かな…」
「…なんでだよ。去年はなんだっけ?」
「…確か、ラスティン・ネールに濃縮蛸エキス…」
二人の背筋に鳥肌が立つ。あれは明らかに、酒に合う合わないの問題ではなかった。ただの罰ゲームだ。しかしかといって、酒場で酒を捨ててしまうわけにも行かない。
「やりますか…」
「やりますか…」
諦めたように気合を入れて、お互いに上着を脱ぎ捨てた。老人とマスターの、長い夜がこれから始まる。
「どちらが飲むか」
「じゃんけん―ホイッ!!」
それは素晴しく、完璧な世界。
END
2007/11/17 MOSCO