時には昔の話をしてみようか



そこは、ちょっとした街の片隅にはどこにでもあるような、ガード下に栄える居酒屋だった。

仕事を終えた企業戦士たちが集まって酒を飲み、ホッと息を吐き、煙を吐き、毒を吐き、胃の中の物を吐く。酒と煙草と男のニオイが入り混じって、何個もぶら下がったオレンジ色の裸電球の下、独特の世界を作り出す。一度何か若者に有名なアニメ映画のワンシーンで使われたらしいとの噂だったが、そのアニメの正式な名前を言えるのは店のオヤジも含めて誰一人としていない。そんな居酒屋だった。

「オヤジ、芋焼酎。あぁ、ボトルで」

30分遅れでやってきた次元大介は、遅れたことを詫びるよりも早く、開口一番そう言った。周りのサラリーマン達は、次元の風変わりな帽子と髭に一瞬気を取られていたが、すぐに日本の政治家の愚かさと自分の中性脂肪についての話題を再開した。みな話題は変わらない。この世界では人より出てはいけない、引いてもいけない。ほどほどのところで、駆け引きをしていなければならない。出る杭は打たれる。へこんだ杭は抜かれる。年々、日本人サラリーマンの「埋もれる」バランス感覚は優れていっている。そして、それを本人達に自覚すらさせないほど世間は目まぐるしく動き続けている。コントロールされていることなど気付かずに、コントロールされ続けている。だから次元の髭は羨ましいと同時に「ほっとする」対象でもあったに違いない。もっとも、当の本人は周りに大きな安心感と小さな嫉妬心を与えていることなど、世間の早さも鈍さも全く関係なく意に介していないのだろうが。

「こんな所を指定してくるなんて珍しいな」

飲みかけのビールを無理矢理一気に呷ると、次元にそう言った。奴が来るまでの暇つぶしに飲んでいた一杯だった。ビールというのは最初の一口が極上に旨いのであって、その後はもう、どうでもよい存在と成り下がる。

「フフン。たまには良いだろ?」

上機嫌でオヤジから焼酎のボトルを受け取った次元はさっそく、二つ並んだ、どれだけ洗ったか知れない指紋と水垢べったりの安いグラスに並々注いだ。これで飲んだ日にゃ絶対に疚しい事は出来ないだろう。鑑識でなくとも綺麗な指紋の取り放題だ。

「俺にだって安い酒が飲みたくなる日もあるんだ」

「それは、毎日カップ酒を呷ってる俺への皮肉か」

「まぁな」

そろそろとグラスを持ち上げて形ばかりの乾杯をすると、中身の表面張力が崩れて透明な液体がグラスを伝った。いくら安酒でもそのまま流れ落とすのはもったいない気がして、お互いに慌てて口を近づけた。

「最近どうだ?」

ひとまず鼻から抜ける安い芋の香りを次元に味わってもらうと、そんな台詞が自然に口を吐いた。別に、しょっちゅう新聞やワイドショーを賑わせているルパン三世とその相棒の活躍を知らないほど世間の動きに疎いわけではない。久しぶりに会った人間がまるで定例句のように口にする一言だ。昔はこんなことを言うのは親父くさくて仕方がないと思っていたが、年を取るにつれ、抵抗は薄くなっていた。親父になった証拠だが、なってみると案外それはそれで悪い気はしないものだ。

「相変わらずだ」

対する次元も、儀式のように皮肉めいた笑みを浮かべて煙草に火を点けながら言った。

「一ヶ月前まではN.Y.で下調べしていたんだが、三週間前に不二子のわがままにつき合わされてアルゼンチンの奥地、やっと形が着いたと思ったら二週間前に銭形―って俺達を追ってる警官なんだが、奴に見つかってミャンマーに逃げ込んで、一週間前までルパンの好奇心で北朝鮮、三日前はフランスで、今度は五ェ門が欲しいと言い出した獲物を狙って潜伏中だ」

「それはそれは…」

叫び出したくなるようなスケジュールだな、と同情して見せた。もちろん、その「相変わらず」を理解しての相槌ではない。レベルが違う。その辺は次元もよくわかっている。

「お前の方はどうだ?」

ヤニの充満したガード下で煙草の煙を弄ぶ次元に聞かれて、何か報告する事があっただろうかと一瞬頭を巡らせた。考えるまでもなく答える答えは決まっていたが、意地を張ってしまうのは人間の性だろう。

「…ま、俺も相変わらずだな。何も変わらない。億万長者になったわけでも一文無しになったわけでもない。こないだ車を買い替えたが、あるといったらそれくらいだ。」

傾いて不安定なテーブルに置いてあった次元のペルメルを一本拝借して、ジッポで火を点けた。最近の禁煙傾向に辟易して普段はあまり吸わないのに、どういうわけか酒が入ると無性に欲しくなる。

「それはよかった。お前の人生に何かがあると、俺はガッカリするからな」

「どういう意味だよ」

楽しそうに笑う次元をじろりと睨むと、奴はさらに面白そうに唇を歪ませた。

「俺の趣味はお前の人生ウォッチングなんだよ」

平凡な人間の平凡な人生をウォッチングなんてして、一体どこが面白いのかわからない。ましてや男の人生なんて。

「お前は変態ストーカーか?」

「贅沢なストーカーがついてよかったじゃないか。運がよければ命まで救ってもらえる」

「生憎、お前らと違って俺は命狙われるようなことしてないんだ」

「本当か?今にも昔の女が包丁持って飛び出して来そうな面してるけどな」

「じょっ…冗談寄せよ!!」

若い頃にはそれなりにそれなりのやんちゃごとをしていたから洒落で済むと言ったら嘘になる。目を剥いて椅子ごと本気で後ずさると、次元は一瞬目を丸くしたあと弾かれたように笑い出した。なんだ、身に覚えでもあるのかと。

「うるせぇ!!他人事みたいに笑ってるけどな、てめぇだって似たようなもんだろうが!!」

悔し紛れにそう叫んでやると、さらに次元は身を捩って笑い続けた。そのうちに、普段滅多に笑わない男のその豪快な笑い声にこっちまでだんだん可笑しくなってきて、最終的には二人でずっと笑い続ける羽目になってしまった。まるで思春期の女子高生かと自分で自分に呆れるほどにだ。

旧友との久々の再会は、たぶん次元としては極上級なんじゃないかと思うほど、こうして穏やかに過ぎていったのだ。

 

「子供が産まれたんだ」

ふと、話と話の間を繋ぐような自然さで、次元が突然衝撃的な発言をした。大方の客は潰れるか酔っ払うかして、話す内容の75%が愚痴になるような頃合いだ。陽気に騒ぐ人間は段々と影を潜めてきて、代わりに誰かの男泣きが聞こえてくる。

「お前も一人前に、とうとう年貢の納め時って訳か?」

驚いている一瞬の間に、手酌で注いでいた焼酎が溢れ返ってテーブルに零れた。慌てておしぼりで拭き取って、空になったボトルと引き換えにオヤジから4本目を受け取る。

「バカ言えよ。知り合いの話だ」

こいつが飲み屋での会話に持ち出してくるような「知り合い」なんてのは、ルパン三世か石川五ェ門と相場は決まっていた。ふぅん、めでてぇな、と適当に相づちを打ちながら、一体どちらの話だろうと考える。

「これを機に、仕事辞めちまうのも手かと思ってよ」

「…誰が?」

「俺が」

なんで?という言葉は喉元まで出掛かって止まった。こいつの重くて強情な人生を軽々と動かす事が出来るのは、この世にたった一人しかいないということに気が付いた。

「まぁ…俺が止めることじゃねぇけど」

次元が仕事を辞めるというのは、イコールこの世の後ろ暗いものから手を引くということになる。それはそれで凡人代表の友人としては喜ばしい限りだと思うのだが、よりにもよってこのタイミングだということに何となく違和感があった。何にと言われてしまうと答えられない、敢えて見ようとすると途端に消える、小さなしこりのようなものが残るのだ。

表情が表に出ていたのだろう。やっぱり納得いかねぇか、と短くなった煙草を潰しながら次元は苦笑した。

その目は、指紋だらけで不完全な透明グラスの中にある、完全に色を無くした液体を見つめていた。穏やかな癖に、少しだけ寂しそうな目。どこかで見たことがあると思ったら、それは往年のハリウッドスターの引き際の目だった。

「一体何に許されたんだ」

ふと思いついた台詞を言ってみると、次元は一瞬目を丸くして、それからクシャリと笑顔を作った。

「お前のその無駄に勘が良いところが俺は好きなんだ」

「『無駄』ってのが余計だぜ」

無駄に褒められると人間というのはむず痒くなってくるものだ。照れ隠しにと、奴が新しく咥えかけていたペルメルを乱暴に奪った。

「昔、誰も知らない、地図にも見捨てられたような小さな国で、内乱が起こってな」

奪われた煙草の先にジッポの火を傾けながら、次元はその火を見つめて懐かしそうな顔をした。心はたぶん、ここにはない。封印したはずの、過去に帰っている。

「王様が殺された。彼の右腕となるはずの子息がちょうどどっかに留学してる最中だった。信頼していた部下に寝返られたんだ」

「よくある話だな」

「そう。よくある話さ」

煙を吐きながらわざと挟んだ相槌に同意して、次元は思い出したように焼酎を呷った。

「知らせを受けた子息が慌てて帰ってくる途中、乗っていた列車が爆破された。子息は全身大火傷の重傷を負った。とてもじゃねぇが歩ける状態じゃなかったはずだが、それでも奴は国に帰ってきた。そしてたった一人で戦って、たった一人で親父の敵を取った」

なんでもないようにグラスを握った次元の指に、いつの間にか力が込められていた。力を入れすぎて白くなった指は、もしかしたらその時の悔しさなのかもしれないと、勝手に想像してみる。想像をしてみるものの、普通に小学校を出て中学高校大学と進んできた自分には、まるでニュースか小説の世界のことにしか感じられなかった。それを歯がゆいというには年を取りすぎている。しかし、諦めきるには若すぎるような気がした。きっと、自分が次元に感じている同じ思いを、次元は長年「子息」に感じているんだろう。

「これだけならお前の言うとおりよくある話だ」

そう言って、次元は下を向いた。やってきてからずっと被りっぱなしのボルサリーノのつばが、一瞬その目を周りの世界から遮断した。

「子息には恋人がいてな、まぁ…それなりに二人は仲が良かったんだが…。内乱が、子息の鋭い感覚を鈍らせていた。壊れた故郷に単身で戻ってきたあいつには敵も味方もわからなかったんだ。見る者見る者は全員知った顔なのに、誰も彼もが敵に騙されて、あるいは脅迫されて、銃や毒を向けてくる。そんな中で正気でいろという方がおかしい…。奴は、よりにも寄って恋人の父親を殺しちまった」

本人殺っちまうよりヘビーだろ?と、次元は顔を上げて苦笑した。それから思い出したかのように煙草を取り出し、咥えると一息吐いた。

「たった一人でも、奴の味方になってやれる人間が側にいれば違っていたかもしれない…とかよく思ってたんだ。唯一の相棒は、妹可愛さにてんで木偶の坊だったからな」

「…そうか」

だから次元はルパンの元を離れようとしないのか。同じ過ちを、もう二度と繰り返さないように。互いが大人になって、互いがもっと成長して、心に余裕が生まれる頃になっても、余裕の隅にはトラウマがいつでも小さな染みとなって残っていたのだろう。トラウマには、理性で補いきれない猛毒が潜んでいる。

「二人は無理矢理恋人同士を演じてたんじゃないかとか思ってたな。女は復讐のために、男は償いのために…。だが今考えれば馬鹿な話だ。子供だけは、流石に演技だけじゃ出来ねぇしな。ましてや、産まれてきた赤んぼを見る目なんて。それ見てたら、だんだん『あぁ、もう良いのかな』って気分になってきてよ」

「それで早期退職って訳か」

「そういうこった」

最終的に満足そうな顔で一つ頷くと、次元はまた酒を飲むことに集中し始めた。なんだ。結局、ここに来たのはルパン以外の人間に自分の過去を懺悔するためか?何だかちょっと利用されたような気分になって、今度は半ば自棄酒に入ろうとグラスの中の酒を一気に呷った。

でもまぁ、酒を飲むだけで天下の次元大介のお役に立てるというのなら、それも悪くない。こんな良い役はめったに回ってこないだろう。悪くないついでに、一流の一般人から一流の悪党に一言だけ忠告してやった。

「でも、お前は基本的にスリル馬鹿だろう?」

 

それを聞いてきょとんとしていた次元が最終的にルパン一味から抜けたという話は、あれからしばらく経った今でも聞いた事がない。

 

今日も、会社に行き、買い換えたばかりの車を乗り回し、ローンを払う。

そして雨の日には満員電車に揺られて、隣に立っているサラリーマンのスポーツ新聞を盗み読む。

一面では、「ルパン三世・またもや予告状!!」との見出しと共に、友人の中で唯一有名人になった次元大介が、由緒正しいお屋敷の前でVサインを繰り出していた。



2008/6/22 MOSCO

 TOP