Hey, my boy...
満月が、夜を照らしていた。
星と、イルミネーションが世界の天地を曖昧にしていた。
這って行く車の鈍い動きだけが、重力の在り処を証明していた。
音のない夜。
地上60階。都会の超高層マンション。
音がないのは当たり前で、足元の血迷い事は天井人に届くまでに失われていた。
薄暗い部屋の中、シーツ一枚を身に纏った女は、ベッドの中からするりと抜け出した。フランスから取り寄せた最高級の王室御用達天蓋付きベッドは、少しの軋み音もさせずに彼女を下ろす。細く衣擦れの音がして、自分の耳が聞こえなくなったわけではないことを初めて確認した。
さっきまで隣に寝ていたはずの男は、野暮用でもできたのか跡形もなく消えている。髪の毛一本、温もり一つ残さず、まるで最初から存在していなかったかのように去っていくのは、昔から彼の癖だった。
(いつまで経っても変わらない)
そして私もね。
人のいなくなったベッドを見つめながらクスリと唇の端を吊り上げて、彼女は嗤った。
暗いリビングルームを通り抜けて、バスルームへと向かう。ガラス張りの浴室は趣味が悪くてあまり好きではなかったが、改装するほどこの部屋に思い入れがあるわけでも、長年住むつもりでもない。そのうちに自分のものではなくなるのなら、こんな所に金をかけるだけ無駄というものだ。素敵なバスルームが欲しければ、この間NYで買ったマンションに行けばいい。
淡いライトに照らされながらシャワーのコックを捻る。賢い給湯システムはすぐに温かい湯を注ぎ出し、一気にガラスの壁は湯気で曇り見えなくなった。体に湯を浴びながら、ボディラインをチェックする。長年続けているこの作業も、最近は昔より時間をかけるようになった。顔、首筋、肩から二の腕、腰に両足。続けて小さく音楽をかけながら湯船に浸かってじっくりと、マッサージを繰り返して観察をする。美女の名を欲しいがままにはしていたが、同時に彼女は誰よりもよく知っていた。
この世に永遠など存在しないのだ、ということを。
風呂から上がると、真っ白に洗い上げられたバスローブ一枚を新たに羽織り、今度はキッチンへ向かう。失われた水分を求めてペリエを取り出し、グラスに注ぐと一気に仰いだ。頭がくらくらするのはきっと、身体が悲鳴を上げているからだ。気持ちを落ち着かせようとさらにもう一杯仰いで、フッと一つ溜息を吐いた。
仕事はこれからだ。
何か雑多な音が欲しくなってリビングに置いてある大画面のテレビをつけると、彼女は再び寝室に戻る。大きなウォークインクロゼットの中から数着ドレスを取り出しては眺め、結局、真っ赤なホルターネックをこの日の一枚に選んだ。
ドライヤーをかけてからバスローブを床に落とし、ドレスを着る。鏡台の前で髪の毛をセットし、自分の肌と向き合う。スキンケアからファンデーション、アイメイク、チークと続き、形の整った綺麗な唇にルージュを這わせる頃には、もうすっかり「峰不二子」の顔になっていた。
(本当、現金なものね)
男は馬鹿で単純だと、不二子は公言して憚らない。実際、彼女の色気に翻弄され、尾っぽを振り、判断能力を失っていく男達を手のひらで転がしていたし、彼らの力で甘い汁を啜ってもいた。
でも。
女もそう大して変わらない。
こんなに小さな変身で、毎日が生まれ変わったように(とは言い過ぎか)強くなれる。
男が馬鹿なんじゃなくて、人間が馬鹿なんだわ。そう思いながら、男から貰った宝石を選び、身に着けると寝室を後にした。もう、ここへは当分戻らない。
リビングへ入ると、ちょうど深夜のニュース番組が臨時の事件を報道していた。ほんの少しだけ興味をそそられる内容に、ソファへ腰掛け煙草の火を点ける。
首相官邸に強盗侵入。
調度品など十数点、合わせて5億円相当が盗まれた模様。
犯人は国道を逃走中。
警察は、「ルパン四世」の犯行と断定してスカイブルーの日産マーチを追跡している。
「まだまだ青いわね」
寄りかかったのは今日のドレスに勝るとも劣らない真っ赤なイタリア製ソファ。ベルベット生地独特の手触りを楽しみながら頬を吊り上げる。画面の中では報道ヘリに捉えられたマーチが、警察に追われながら広い国道を所狭しと走り回っていた。
「さぁ、ボウヤ。ここまで上がってらっしゃい」
聞こえるわけでもないのに、不二子は四世に語りかけた。それは、世の母親が息子に語りかけるときのそれとは全く別のもの。と同時に、深い慈悲に溢れた、彼女にしか表現できない愛情。
しばらくアナウンサーの淡々とした顔を眺めていた不二子だったが、そのうちに、まだ火を点けて間もない煙草をテーブルの灰皿へと押し付けた。もうすぐクライアントが約束の場所へやってくるだろう。頭の中は即座に仕事へ切り替わる。いかにしてスマートに、いかにして大きな利益をこの手に掴むか。
テレビを消して、携帯で迎えを呼ぶ。
ミンクのコートを上から羽織ると、部屋を出た。
アドレナリンが、彼女の人生を彩る瞬間だった。
END