新しい世界
久々に定時で上がることができたので、ちょっと飲みにでも繰り出そうかと考えていた。
世間は平日。誰も彼もがつまらなそうな顔をして歩いているところを、翌日非番の大岡は一人、得意げになって町を闊歩する。いつもは職場の最寄駅から早々に電車に揺られるところを、今日は有楽町駅まで歩いてみることにもした。
目覚ましも、眠気も体調も、翌日のことは何も気にしなくていい早番上がりは天国だった。
あの男の姿を目にするまでは。
「…は?」
思わず漏れた不機嫌な発声に、そばを歩いていたOLがさっと己を避けていった。危ない人だと勘違いされたのかもしれないが、当の大岡は訂正するどころではない。視線の先で展開される信じがたい光景に口を開けるしかなかったのだ。
秋も深まる夕暮れ時、人気のドーナツチェーン店で若い女性が列を作っている中、厳つい形相の男が一人混ざってドーナツを凝視していた。
まさかこんなところにいるはずはないのに、主張してくる特徴はあの男にほかならない。
長身に筋肉質の体。武骨なようでいて、実は羽織っているコートがバーバリー製。
間違いない。
銭形幸一だ。
なぜ昨年定年退職したのはずなのにこんなところにいるのかとか、なぜ今そこでドーナツを睨みつけているのかとか、湧き出る疑問はたくさんあったのだが、なにせ楽しいホリデイ・イヴを過ごそうと決めていた大岡に選択肢は一つしかなかった。
それすなわち「無視」。
見なかったことにするのが一番だ。心の中で名案だと頷きながら、早々に歩を早めようとしたその時。
「おお! 大岡じゃないか!」
……さすが、長年かけて鍛え上げられた脳みそと動体視力だ。人ごみの中から知り合いを見つけ出すなど造作もないのだろう。通りを挟んだ向こう側からもよく通る(よく言えば)ハスキーボイスで、素敵なホリデイ・イヴは儚く散った。
「あ! 銭形さん! お久しぶりです!」
結局、全力の愛想笑いと小走りで銭形に近寄る羽目になってしまった。挨拶程度ではすまなくなるのは幾度も銭形につき合わされた経験からくる事実でしかない。どこで気に入られたのかは知らないが、この男は新人である大岡を連れ回すのが好きだった。しかしよりにもよってこんな時に出会ってしまうとは。
大岡は自分の不運を心の底から呪った。
「いやあ全然気づきませんでした。この人ごみの中でよく私だとお分かりになりましたね」
「ばかもん。まだ現場から離れてそんなに経っとらんわ」
持ち上げたつもりが嫌味になってしまった。げんこつが来る、と思ったのだが飛んできたのは肩叩きだけだった。都会の、しかも婦女子の集まるドーナツショップで暴力はいけないと(あの銭形が)思ったのだろうか?
「いやいや、そんなつもりは! それより、今日はどうなさったんですか?」
「うむ。年金の書類に不備があったそうでな、暇だったから桜田門まで赴いたんだが」
話している途中で銭形は言葉を切った。列が少しだけ進み、銭形から見えるショーウィンドウの中のドーナツが少しだけ色を変える。
これをまたまるでホシを発見したかのような剣呑な目で睨みつけるものだから、カウンターの中で他の接客をしている店員にまでおっかなびっくりされている。
「……ドーナツ、お好きでしたっけ?」
「ん? あぁ、孫がな」
「え!?」
こちらを見ることなく発せられた衝撃的な告白と「孫」という言葉を発音した瞬間の銭形の表情。二重の意味で大岡は驚いてしまった。いますぐ職場に駆け戻って同僚に吹聴しまくりたいくらいには。
驚きの声に何人かが振り向いたことに気づき、大岡は小さく咳払いをした。
定年退職したというからには、銭形は今60歳を過ぎた頃のはずだ。その大半の時間ずっとルパン三世を追い続けていた男に子供がいたということすら驚きなのに、まさかの孫だと? なぜに、世間様並みの家系図が銭形の家系で作成可能なのか。そしてなぜに、全国の祖父母の皆さんが孫に対してみせる表情と同じ「やわらかさ」をあの銭形が醸し出せるのか。
「そんなに驚くか?」
大岡が困惑を極めているとはつゆ知らず、のんきな声を出して銭形がこちらを向く。眉を寄せて訝しがる姿はもういつもの姿だったが、だからこそさっきの一瞬が頭にこびりついてしまった。
「……いえ、すみません」
また列が動いて、やっと銭形の順番がきた。ずっと睨みつけていると思ったのは、単に老眼が進んで見えなくなっていただけのようで、メニュー表の文字を読むところで裸眼を断念していた。強い男の変な意地というのはよくわからない。しかし馴れない様子で老眼鏡をかける銭形の姿だけはなんだか新鮮だった。
「おい、大岡」
勝手に帰ると怒られるのでレジから少し離れたところで待っていると、銭形が大岡を手招きする。
「はい」
呼ばれるままに近づいていくと、銭形から小袋を一つ渡された。ドーナツ店のロゴが入っている。
「ここで会ったのも何かの縁だからな。お前さんにもわけてやるよ」
「あ、それは恐縮です」
いいってことよ、とでも言うように会計を終えた銭形はさっさと先を歩き出す。
慌てて後を追おうとして、持った紙袋の底にほんのりと温かさを感じた。どうやら焼きたてらしい。香ってくる甘さも心なしか温かく感じて、特にドーナツが好物というわけでもない大岡でも思わず顔がほころんだ。
まさか、あの鬼オヤジからこんなものをもらう日が来るとは思ってもみなかった。
「ドーナツってのはよ、あったかいもんなんだよ」
隣に追いつくと、その心を知ってか知らずか、銭形が取り留めもなく話し出した。
「まぁ、熱い油で揚げるものですからね」
ゴチン。
「そういうことじゃねぇよ」
今度こそげんこつが降ってきた。
入庁以来通算333回目。いつか仕返しをしようと数を数えていたのだが、変に因果な数字になったものだと涙目で頭をさすりながら大岡は思った。
しかし「そういうことじゃない」なら、一体どういうことだというのだろう。
「俺はよ、大岡。37年間、そんなことこれっぽっちも考えずに生きてきたんだ」
「……」
まただ。
歩きながらドーナツの包みを見つめる銭形の目が、とてつもなく優しい表情になる。その目線の先にはどんな人物がいるのだろう? 孫がいる、といったか。小さな子供だろうか? おじいちゃんありがとうと抱きついてくる姿でも想像しているのだろうか? 銭形と小さな子供という姿がどうしても結びつかない上に、その優しげな表情もなんだか自分の知らない人物のように思えてきて、大岡の胸は少しだけ痛んだ。
「お前は、その年にしてドーナツがあったかいってことを知ったんだ。俺に感謝しろよ」
意味が分からない。
今度はどういうことだろうかと考えている間に駅前に着くと、銭形はそのまま改札へ入っていこうとした。
「え! ちょっ…!」
あまりに予想外の行動に、思わず引き留めてしまったのは大岡だった。この場所からは、ガード下の飲み屋への強制連行コースしか知らない彼の神経からしてみれば、当然といったら当然かもしれないが。
「なんだぁ?」
大岡自身も予想外だったが、止められた銭形も相当びっくりしたらしい。帰宅ラッシュ真ん中の有楽町駅改札で、ドーナツを抱えた厳つい男二人が目を丸くして向き合っている姿は、なんとも奇妙な光景だった。
ここで慌てたのはもちろん大岡だ。ホリデイ・イヴを何事もなくゆったりのんびり過ごせたらいいと願っていたのは他でもない大岡自身だというのに、なぜこの台風の目のような男をわざわざここで引き留めてしまったのか。
全くもって自分で自分がわからなくなってしまった上に、この先どうやって切り返せばいいのか、頭が真っ白になって何も思いつかなかった。
「なんだ、俺と別れるのがさみしいか」
ありがたいことに、先に言葉を発したのは銭形だった。
しかしニヤリと笑ったその顔に大岡は慌ててそばから離れると、あわや鞭打ちになるかというほどの勢いで首を横に振った。そうじゃない。そうじゃないはずだ。
「……失礼な奴だなお前は」
途端に渋い顔に戻った銭形を見て、大岡は安堵のため息と共にやっと正気を取り戻した。
「いや、銭形さんともあろうお方が、この飲み屋街を前にして一滴の日本酒も嗜まれぬまま岐路に着かれるのかと思い」
「当たり前だろう。ドーナツはあったかいうちが勝負なんだよ」
やっとの台詞に一網打尽のこの即答。大岡はまたへこたれそうになりながら、それでも今度こそ気丈に銭形を改札の向こうへ見送った。
「お、そうそう」
いつもの大股すぎるがに股で大宮方面のホームへ消えようとした銭形は、ふと何かを思い出したように振り返った。
「お前がルパンを捕まえた暁には、ガード下の俺のとっておきに連れてってやるよ!」
がっはっはっ、と笑って消えていったその姿こそが、大岡には悪の親玉にしか見えなかった。
ルパンなんてとんでもない犯罪者を捕まえてガード下では割に合わないにもほどがある。
でもまぁ、それも銭形さんらしくていいか。
あれだけの豪快さもバイタリティもない自分に、そんな大物が捕まえられるとは到底思えないが、あの背中を少しだけ追いかけてみるのも悪くない。
あくまで。あくまで自分の出世のために。銭形警部は尊敬しているけれども真似をしていい対象じゃない。
誰に聞こえるわけでもないのに自分の中でわざと言い訳をする。大岡はまた一つ、小さくため息をつくと外回りの山手線に向かった。
結局、今日のお供は飲み屋から変更して、手の中の小袋になりそうだ。
このドーナツの温かさを次に思い出すのはいつごろだろうか、などととりとめのないことを考えながら見る有楽町の夜は、いつもよりも少しだけ明るいような気がした。
2011/11/20
Written By MOSCO
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