Jewelry day

小さな不幸は、一本の迷惑電話から始まった。

 

としか、四世には思えなかった。

電話を切った直後、電話台の角に足の小指を強かに打ちつけた。

車を出そうと思ったら、目の前に宅配便のトラックが横付けされていて15分も待たされた。

出会う信号出会う信号が、悉く目の前で赤になった。

コインパーキングから待ち合わせの喫茶店までの間、歩こうと思ったら突然雨が降ってきた。

 

あの電話さえなければ、今日は家で一日中調べものをする予定だったのだ。電話台にも宅配便にも信号にも雨にも、気分を害されることはなかった。

 

そう思ったらさらに機嫌が悪くなってきて、酷く乱暴に店の扉を開けた。

 

 

ガランガランガラン、と、福引が当たったかのような音を立てて開いた扉に、当の四世が一瞬おののいてしまった。現代に、これだけ懐かしい「昭和の遺物」ともいえそうなシステムがまだ残っているとは思わなかったのだ。大概、やってきた相手が子供でも大人でも強盗でもピンコンピンコンと味気のない機械音を鳴り響かせているというのに、こんなに感情の篭ったドアは久しぶりだ。

開かれた方の店のマスターは、そのベルの音の大きさに心底驚いたのか目を剥いてカウンターの下のバットを取り出しかけていた。慌てて一つ手を上げながら謝罪の意を示すと、口髭の渋いそのマスターは、落ち着きと自分を取り戻して目の前にいた常連らしき客とのおしゃべりに戻っていった。

四世も、袖口の雨を払い落としながら、改めて店の中を見回してみる。年季の入ったインテリアが渋さを醸し出していた。観葉植物はよく手入れされていて、茶色い場所など一つもない。カウンターには各種の酒が並べられ、テーブル席には小さなメニューと砂糖とミルク、それから真っ白な紙ナプキン。呼び出しボタンなど存在しない。昔ながらの喫茶店だった。新しいところは一つもないが、全てに愛情と思い出が込められ、磨き上げられている。

そこそこ広い店内だったが、客もそういなかった。テーブル席に至っては、スポーツ新聞を広げているオヤジと、ノートパソコンに向かって一心不乱に何かを打ち続けているアロハシャツの男と、訳あり風の男女、それから葬式帰りか返礼品を持った黒のツーピースの女という四組だけ。

「…またかよ…」

誰にともなくげんなりと呟くと、四世は迷うことなくオヤジに向かって歩き出した。物に当たるのはもうやめることにしたが、何せ気が治まらないので、ついついいかり肩の大股になってしまう。

「おい」

スポーツ新聞にちょうど影ができるよう、わざと位置を調節してオヤジの前に立った。

「なんだ?」

迷惑そうに睨んだオヤジが開いていたのは、ちょうどAV女優の特集面で、四世はことさら頭にきて(たぶんそれは顔にも出ていただろう。ポーカーフェイスが信条のルパン一族にとってはあってはならないことなのだが…)禿げかけたその頭を思いっきり引っつかんだ。

「ちょっ!!いてぇっ!!何すんだっ!!

などとオヤジが悲鳴を上げたのは一瞬のこと、次の瞬間には、破れたマスクの下から妖艶な瞳で四世を見上げる不二子の顔が浮かび上がったのだった。

「ハァイ、ぼうや。お久しぶりね」

言っているそばから厳つい全身が包帯のように解けていく。

「『お久しぶりね』じゃねぇよ…。また手の込んだ悪戯仕込みやがって」

突っ立った四世が向かいの席にどっかり腰を下ろす頃には、夏らしい淡いブル−のワンピースを身に纏って微笑むマダムがそこにいた。

「遊び心のない男はモテないわよ」

「間に合ってますぅ」

手を上げると、今までどこにいたのかアルバイトらしき店員が注文を聞きに来た。その目線は明らかに、腕を寄せた不二子の胸元へ注がれている。きっと年をばらしたら卒倒するんだろうと想像してみるが、その後の報復が怖すぎた。アイスコーヒーを一つ頼んで、改めて四世は不二子に向き直った。

「で、何の用?」

「何の用とはなによ。近くまで来たから母親が子供に会いに来てあげたって言うのに、随分な言い草ね」

頬を膨らませた不二子に本心は聞けそうにないと諦めた四世は、仕方なくここ最近の出来事を頭の中で洗ってみる。彼女が会いに来る時は、大概仕事か厄介ごとが絡んでくる。

「…あぁ。あれか」

一つ思い当たる節があった。早々にやってきたアイスコーヒーを啜りながら、四世は一人で頷く。

「何日か前に次元さんに会ったよ」

「次元に?」

その名前を聞いた途端に、いつも通り不二子の表情がみるみる曇っていった。それはまるで思春期の少女が父親を嫌うそれと似ていて、少しだけ可笑しい。やっぱりなんかあったんだなと思いながら、この二人はどういう関係なんだと邪推もしたくなる。しかし今日の表情は、曇りを通り越して怒りに変わっていった。

「何も吹き込まれてないでしょうね?」

身を乗り出して聞くその表情があまりに真剣で、四世は思わず突いていた頬杖を崩す。オレはいつから次元大介に会っちゃいけない人間になったんだ?

「…何って。もうすぐここいらで仕事すっからご一行様で来てんだろ?心配すんなよ。オレたちは横取りなんか趣味じゃないよ」

お前と違って、と嫌味を付け加えようとしたところで、また一つ思い出した。その時次元が言っていた言葉。

「『不二子のせいで仕事になんねぇ』…ってことか?」

「……」

ビンゴだったらしい。天を見上げて不二子は席に戻った。足を組み直して煙草に火をつける。四世にとっては懐かしい香りのする、そこらでは見かけない長身のメンソール煙草。販売中止になったのだが、噂では生産者が不二子の為だけに作り続けているという。

「今度は何したんだ?」

四世の言葉に不二子の長い指がピクリと動いた。

「何にもしてないわよ。ただ、気が乗らないってお断りしただけ」

気が乗らない?自分の命よりも金を取る不二子が?四世は思わず絶句してしまった。そりゃあ、今日は雨も降り出すはずだ。いや…。

「…そのうち槍でも降ってくるのか?」

「失礼ね!!それでも私の子?」

「だからこその不二子の子じゃんか」

「フンッ」

不二子は煙草を置くと、マスターに向かって手を上げた。紅茶のおかわりを注文する姿がそれだけで様になる女は、そうそういないと、母親のことながら思ってしまう。

外に目を移すと、窓越しにはまだ雨が降り続いている。たまに通る車が雨の存在を主張するかのように音を立て、窓に当たった雨粒が静かにリズムを刻む。

お互いに口を開かなければ、本当に静かな午後だった。

控えめに流れるジャズ。客と密かな会話を楽しむマスター。グラスではなく爪を磨くアルバイト。

誰もが、何かを待っていた。それは、世界の始まりか、それとも終わりか。時を止める直前の中で、人々はその生ぬるい暖かさを満喫していた。

「次元もあなたもルパンに対して盲目過ぎるのよ」

やってきたダージリンティーにミルクを混ぜながらやっと、伏目がちに不二子は口を開く。ちょっと拗ねた様なその仕草がまるで少女のようで、思わずドキリとしてしまった。不二子は魔物である。もしかしたらオレはマザコンかもしれないと、四世は密かに心の中で思った。

「あなたたちみんな、ルパンが神様か何かだと思ってるんじゃないの?」

「そんなことないよ」

それだけは。即答した自分に向かって、不二子は容赦のない視線を向ける。逸らすことはせず、四世も正面から見据えた。

「親父は最低な人間だ」

「本当に最低な人間に対しては、人間最低だなんて言えないものよ」

「でも、わかってる。オレも、次元さんも」

「何を?」

「ルパン三世という男を」

しばらくの睨み合いの末、先に目を逸らしたのは不二子だった。混ぜたっきりのミルクティーにやっと口をつけると、もう一度だけ四世を見て、それからまた、まだ揺れているキャラメル色の液体の中へと視線を移動させた。

「…あなたもいつの間にか、そっちへ行ってしまったのね」

泣き出してしまうのではないかと思って、四世はまたドキリとした。涙が、ぽたりとカップの中に落ちたような気がした。やっぱり来るんじゃなかったと、再び後悔の念が宿る。

「不…」

声をかけようとして、留まった。次の瞬間には、不二子はいつもの不二子に戻っていた。幻想。涙など、このオンナには似合わない。

ほんっとに、男って馬鹿だわ」

それだけ言って、再びミルクティーを啜る。自分でも驚くほど四世はほっとして、手元にあるアイスコーヒーを一気に吸い上げた。

「…でも、馬鹿は私ね。いつルパンがいなくなっても平気でいられるようにあなたを産んだのに、私はさらに欲張りになった。ルパンも、あなたも、私は何も失いたくないのよ」

おもむろに、不二子の手が四世の頭に乗っかった。静かに髪を撫でるその手を払い除ける事ができず、そしてストローを齧ったままの顔を上げることもできなかった。まるで子供のように。今顔を上げたら、不二子は一体どんな顔をしているのか、それを見ることが怖かった。まるで子供のように。だから今この瞬間、彼女が現実の中にいるのか虚構の中にいるのか、四世には推し量ることができない。

「…親父、今度のヤマ、やばいのか?」

それだけをやっと聞く。こんな不安はいつ振りだろう?

「危ないと言ったら、あなたはルパンを止めてくれるのかしら?」

「……」

今度は本当に言葉を失う番だった。できない。それは迷うまでもなく明らかだ。「ルパン」の執念とも呼べるような盗みに対する思いというのは、邪魔するものでもされるものでもあってはならない。

例え、誰よりも大切な母親の願いだとしても。

四世は、もう子供ではない。

「でしょうね」

わかっている不二子もそれ以上追及することはなく、四世の髪の毛から手を離すと、ただその形の整った口唇から深い溜息を吐いた。そのついでのように、残っていたカップの中身を綺麗に飲み尽くす。やっと顔を上げた四世も、何も言うことはせずに目の前のアイスコーヒーを消費することに専念した。半ばほっとして、半ばヤケクソになりながら。

やがてカップとグラスの中が消えても、お互いに声を発することはもうなかった。二人の頭の中は一人の人間で一杯だったのだろう。ここにはいない、三人目の人間。

潮時だった。

「そろそろ行こう、送ってくよ」

四世は、席を立ちながら声をかけた。

やぁよ、小さくて狭い国産車なんか」と言いつつも、不二子も煙草を消して席を立つ。

「文句言うなよ、世界の日本車だぞ」

「イーヤッ」

しょうがねぇなぁ

ポルシェをアジトにいる七見に借りてきてもらって、ここに着くまでどれくらいかかるだろう?できなくはない。雨は小降りになっている。車がやってくる頃に止むだろう。

そんなことを考えながら四世はつい癖で伝票を掴み取ってしまった。しまった。呼び出した方の不二子に奢ってもらうんだったと思っても後の祭り。本人はそ知らぬ顔で入り口へ向かっていた。まあお茶の一杯くらい母親に奢ってやる事も必要だろう。…と自分を慰めたらそれも甘かった。会計は一桁違った。不二子は、この店で一番高いランチをフルコースで平らげていたのだ。馬鹿高いと思ったら、ここは王室御用達の、喫茶店という名の高級レストランだった。やはり、彼女の方が一枚も二枚も上手だ。

「くっそ、いつか痛い目見せてやる」

と、カードと領収書を貰いながら一人呟いて見たものの、頭のいい四世には無駄だとわかってしまっている。自分をこんな性格に育て上げたのは他でもない、不二子なのだから。

 

外に出て、懐の携帯を呼ぼうとした所で四世の動きは止まった。白に刺繍を施した可憐な雨傘を差した不二子の視線の先に目を奪われた。真っ赤な蛇の目傘を差した真っ赤なジャケットの男がこちらに向かって歩いてくる。

「よう。そんなとこにいたのかい、不二子ちゃん?探したぜ」

「ルパン!!

駆け寄る不二子の手から傘が離れた。ヒールが水を弾き、ワンピースの裾を濡らした。

「大丈夫なの?」

「だーいじょうぶも大丈夫!!不二子のためなら三千里だろうが一万里だろうがひとっとびよ」

おどけたルパンの左手が一瞬店の壁をついたのを、四世は見逃さなかった。

「よく言うわね」

そう言って笑う不二子の笑みも完璧だった。しかし完璧だったが故に、そこにはぽっかりと大きな穴が空いていた。

「むふふふふ」

独特の笑い声を上げるルパンが四世に気づく。四世は不二子の雨傘を拾って閉じると、その笑みに向かってそのまま渡した。

「坊主、世話かけたな」

上機嫌で自分に語りかけるその声に、変な懐かしさを覚えてしまった。前に会ったのは何年前だったか思い出せない。それでも、その声は自分だけのものだという確信は、昔から変わらない。自分は一体どうしたいんだという混乱が、一瞬で押し寄せてきたのを必死で堪えた。

「ホンット、不二子の首に縄でもつけておいてくれよ。いい迷惑だ」

嫌味な目線と嫌味な台詞。それが、今この場の自分には一番相応しい。

「マッ、なんて言い草よ!!

不二子がまたむくれた。

「まぁまぁ不二子ちゃん、うちに帰ったらおまえの大好きなもの用意してるからさ。ここは抑えて」

「あらルパン。それってなぁに?」

「フフフ。それは帰ってからのお楽しみ」

ってことで不二子は頂いてくぜ〜。そうおどけて、ルパンは不二子を伴って元来た道を戻り始めた。これ以上演技を続けなくて済むことに若干安堵しながら(そしてポルシェを借りなくて済んだことに感謝しながら)、四世はその背中を見送った。

「親父!!次会うときは墓場なんてことないようにな!!

いつもは冗談で済むこの台詞も、なぜか今日は力が篭る。知ってか知らずか、ルパンはひらひらとやる気なさそうに空いた手を振る。

「お前もなぁ〜!!

やがて二人のシルエットは、雨の街の中へと消えた。四世は、自分の車を取りに行くため、逆の道を歩き始める。もう濡れたって構わない。構わないから今度こそ、平和な午後を満喫できますように。

 

 

数日後、新聞の朝刊は大物マフィアの突然の崩壊というビッグニュースが一面を飾っていた。三面では、ルパン三世が久しぶりに姿を現したことをおまけのように報じていた。獲物は、もう世界に一台しかなくなってしまったという80年前に作られたクラシックカー。オーナーは、逮捕されたマフィアのドンだった。

「カーッ!!やっぱ親父は親父だ!!よくやるぜ!!

朝飯を平らげながら読んでいた四世が突然叫びだしたことに、七見が驚いてコーヒーを噴出した。それがまさしく引き金となって、家の壁中銃痕だらけの大喧嘩に発展したのは、また別のお話。


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